第二十話 delenda est
バルナバは微睡みの中で幾度も見た光景を目にしていた。小さい頃住んでいた村、偶にお菓子をくれる近所のおばさん、よく一緒に遊ぶ友達、家に帰れば優しい両親が待っている。自身の手を見ればまだ小さい。何をやっていたのだったかと思い返そうとした時、少し離れた所から声がした。
「おーい、そろそろ帰ろうぜ」
ああ、そうだ。友達と遊んでいたんだった。バルナバは軽く手を上げ返事をし駆け寄る。
「まってえ、お兄ちゃーん」
背後から舌っ足らずな女の子の声がする。そうだ、妹が一緒だった。何故忘れていたのだろう。
バルナバは妹に手を伸ばす。その手を掴む小さな手の温もりがバルナバの目に涙を押し上げた。
「なんで泣いてるの? お兄ちゃん」
「いや、分からない。なんでだろうな」
「ぷぷっ、へんなお兄ちゃん」
妹は笑うが自分でも分からないのだ。ただ勝手に流れ出たそれを笑われた事で少し恥ずかしくなり、誤魔化すように怒ってみせる。妹はここで置いていかれるのを怖がり必死で謝りながら付いてくる。
いつもの何気ない日常だった筈だ。だが夕焼けの朱がやけに心に寂しさを染み入らせる。それはまだ遊び足りないというだけでなく、どこか郷愁のようなものを感じさせた。
友達と一緒に歩む帰路の途中、村の外れの家の前で何やらぶつぶつと呟きながら手を動かしている老人がいる。最近越してきた人だとはバルナバも知っていた。その老人はあまり人を寄せ付けず、また、近寄りがたい雰囲気を持っており、バルナバも子供ながらに少し怖い爺さんだと思っていた。
「あの爺さん、何か怪しい儀式をしてるって噂だぜ。夜中に奇声が聞こえるってうちの親が言ってた」
友達が気味悪げに耳打ちしてくる。老人の深く刻まれた目の下の隈やいつまでも途切れる事の無い呟きが説得力を増幅させる。バルナバは何だか薄ら寒くなって家路を急いだ。
夕飯時、両親に友達から聞いた事を伝えると両親は窘めるように言った。
「あの人は前住んでいた所で息子夫婦を殺されたらしいの。だから今は喪心してしまっているのだと思うわ。噂で軽々しく人を判断するのはいけない事よ」
「そうだな、母さんの言う通りだ。だから遊び半分であの人に近寄ったりはしない事。噂を広めたりもしない方がいい」
優しい両親だった。けれど両親から「近寄ってはいけない」と言われたから少し安心もしていた。あの老人は怖いからなるべく関わりたくはなかった。これで友達から「ちょっかいかけてみようぜ」などと言われても断る事が理由ができた、そう思った。
その後老人には近寄る事は無かった。村の人も彼には係わり難いと思っていたのかもしれない。老人は誰と話す事も無く孤独を深めていった。だがこれといって目立ったいざこざは無かった。少なくともまだ子供だったバルナバの耳には届かなかった。
それから何日も経っていないと思う。その日の空はやけに紫色に澱んでいた。バルナバは日課の薪の材木運びを終え、足早に村に向かっていた。だが村の目前まで来て異変に気付いた。
妙に静かだ。
村人の声も、生活音も、それどころか動物達の姿さえ見えない。何かがおかしいような気がしてバルナバは屈み気味に村を覗いた。
最初は村人が寝ていると思った。道端で寝ていると。冷静に考えれば異常だと分かる。そんな非常識な、と。だが頭が現実を認めたくなかったのではないだろうか。
しかし次に見えた物で安寧は消し飛んだ。
魔物が村をうろついている。一匹や二匹ではない。それらが規則正しく家々から動かない村人を村の広場に運んでいた。その広場ではあの老人が立っていた。それは遠目に見ても不気味を通り越して恐怖を感じた。
魔物の一体が新たな人間を運んできた。それはまだ小さな女の子で、それは妹の姿に似ていた。
「~~~~~っ」
声を上げてはいけない、そうは思った。だが自分が声を上げなかった事に成功したかは疑わしい。
悲鳴を上げたかもしれない。怒声を上げていたのかもしれない。
不意に老人がこちらを見た気がした。バルナバは必死で口を手で押さえ逃げ出した。とにかく必死で走った。速く、速くと足を動かそうとしているのに、自分の足の動きはやたらと遅く感じた。
誰かが追いかけてくる足音が聞こえた。バルナバは振り返る事も出来ずもつれる足を気も狂わんばかりに動かした。もし付いてきているのがあの老人だったら、魔物だったら、そんな事を考えると堪えていた声が意味を成さない音となり、涙と共に溢れ出た。だが足音は無情にもどんどん近づいてくる。そしてバルナバの肩を誰かの手が掴んだ。
「静かに」
その声は聞き覚えの無い声で、振り返って確かめても見知らぬ顔だった。しかしながら真っ白な修道服のような物を着ているその男の真剣な顔は間違いなく人間のものだった。
「声を立てないで。あの男に見つかってしまう」
あの男というのが広場にいた老人の事だとすぐに理解した。その声音はまるで化け物を指しているかのように慎重なものだった。つい先日まで曲がりなりにも村の一員だったあの老人に対して。
そう、何の変哲もない……と言っては語弊があるが、少なくとも只の人間だった筈だ。なのに何故魔物の中心であの老人は平気で立っていられたのか。そして村の人々は、妹は何故殺されねばならなかったのか。自分の両親は……。
バルナバは頭の中を巡る考えが纏まらないまま修道服の男と一緒に村から離れた。修道服の男は教会から派遣された者だと言った。怪しい儀式をしている老人がいるという通報を受けて調査に来たのだと。そして念の為だったその調査は、懸念の中でも最悪なものを見いだした。
「あの老人は魔転したのだろう。人は深い絶望を抱くとニムンザルグに魅入られてしまう事がある。魔族になってしまうんだ。奴の目的は分からないが魔物を使役して村人を殺して回った事が魔族である証拠だ。魔族は滅ぼさねばならん」
修道服の男はその後バルナバに住む所を手配してくれた。だがバルナバはそれを蹴って修道服の男に申し出た。
「どうか俺を連れてってください。魔族を殺せる力を、術を教えてください」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
薄く目を開けると焚き火の灯りにぼんやりと浮かび上がる木々。火の番をしているカゴメとかいう女剣士と、その傍に立てたテントが見える。そのテントに、テントの奥にいる筈の者に視線を向ける。あの少女の顔が思い出される。
――良い人なんだなって安心しただけです
――お兄ちゃん
「っ」
一瞬あの少女の顔と妹の顔が重なった。しかし夢の、過去の出来事を思い出しバルナバは硬く目を閉じた。
――魔族は滅ぼさねばならん。
祈りにも似た誓いを胸中に秘め。




