第十八話 登山
山を登るというのは非常に険しく厳しい。道が無い未開拓の場所ならば尚更だ。四方からいつ野生の獣が現れるか分かったものではないし、普通に考えて歩ける場所ではない所を進まなければならない事も多々ある。通常出来れば行きたいとは思わないだろう。
そんな道程だ。百メートルの距離を進むのに一時間以上掛かるなんてのは珍しくない。それを子供の足を含む中で考えての三日間という目算だったのだが。
「これは思ったより早く着きそうだな」
そうバルナバが言ったのはお世辞ではない。旅慣れているカゴメは勿論、足を引っ張ると思われていたセラムも無理なく大人の足に付いてきていた。
「今迄何度も山や森の行軍をしてきましたし、一度は命を懸けて深い森の中を全速力で退却したんです。伊達に軍人ではありませんよ」
元の日本人の男の体だったらこの半分の速度も出せず、足手纏いどころか途中で脱落していただろう。体は小中学生の女の子でも鍛え方が違う……というより否応なく鍛えられてきたのだ。
「この分だと今日中にはオークの生息圏内、次の一日で巣を捜索というところか。何よりだ」
しかし先程は大言壮語を吐いたが、人間の手が入っていない山を強引に登っているのである。きついというのが紛れもない本音だ。当然のように道が無い上に、とうとう軽い崖と言える斜面にぶち当たってしまった。
「これは、迂回するにも辛そうですね」
「うむ、このまま登る。貴様らは行けるか?」
「ふっふっふー、こういう時の縄やでセラムはん」
何やらカゴメが自信満々に背嚢から縄を取り出し、先に器具を取り付ける。それは忍者映画で見るような鉤爪だった。カゴメは軽く引っ張り結び目が解けないのを確認すると、それを遠心力を乗せて器用に崖の上の木に投げた。目標の木の太い枝にくるくると巻き付き鉤爪がしっかりと引っ掛かる。
「おおー、まるで忍者みたいだ」
「ん、ええやろ。ほなおっさんから登れや」
縄の手応えを確かめながらカゴメが言う。バルナバは感情の分からない表情のままそれを拒否した。
「断る。先に行け」
「ウチはまだあんたの事を信用してへんねん。護衛のウチがセラムはんをほったらかしにでけへんやろ」
「俺の任務は監視だ。俺が登った後別の道を行って逃げられんとも限らん」
「アホか。そんな事するかい。そっちこそセラムはんが危険に晒された時なんもせえへんやろがい。そんなのと二人にさせられるかい」
「あー、分かりました。ではまず僕が一番に登るという事で」
「アホか」
「論外だ」
セラムの発案に二人の声が重なった。正直信用出来ないというならば後でも先でもどっちもどっちという気がするのだが、信用出来ないからこそ相手からの発案に反射的に反対してしまうのだろう。
「登った先に危険があったら洒落にならんやろが。……くっそ、じゃあウチが先に登るさかい、おっさんは絶対そこを動くなや。んでおっさんが一番最後や。これ以上は譲れん」
「分かった」
二人とも納得したところでカゴメが縄を伝って登ってゆく。まるで体重が無いかのようにするすると崖の上に到達すると、周囲に危険が無い事を確かめ手招きする。
セラムは革手袋ごしにしっかりと縄を掴み斜面に足を踏ん張る。自慢じゃないが元の体では懸垂など殆ど出来なかった。腕力を使う運動に自信など無いしこんなロッククライミングのような事はした事が無い。それでも力強く自身の体を引っ張り上げ、腕を曲げきったところで脇に縄を挟み体を固定する。
(うん、手応えあり。いける)
この体の体重の軽さというのもあるが、今迄の訓練や戦闘行為、日々の生活全てが活かされているという手応えがあった。運動が苦手という意識が解消されたというべきか。この世界の標準がどの位かはまだ把握していないが、少なくとも元の世界の年相応の女子よりは動けるという確信が持てた。
(僕は、足手纏いにはならない……っ)
そのままセラムが難なく崖を登りきると、バルナバも腕力だけであっと言う間に合流する。
縄を片付けているカゴメも、無表情のバルナバも、セラムの行動になんら違和感を持たない。
当然だ、彼らは数日前が初対面。常勝無敗の隊の少将、魔人、そんな表層の評判しか知らない。セラムが人並み以下の弱い人間だと思っているのはセラムしかいない。こんな道程に付いてこれるのが嬉しいなんて思っているなど、彼らは思いもよらない事だろう。
(あれ?)
セラムは唐突に下腹に痛みを感じた。といっても今迄何度も感じた痛み、その正体は自ずと知れた。
(まずいな。そろそろかと思ったが、今このタイミングでか)
月平均一回程くる、所謂生理。今迄も遠征中にタイミングが被る事はあったが、本格的な戦闘が予想される今は歓迎できない。しかしこの旅を中断出来る筈も無し、セラムは誰にもその事を言わず進んだ。
その後も幾つかの難所を乗り越え山の中腹に差し掛かる頃、三人は野営の準備を始めた。焚き木を拾い火を熾し、簡単な飯を食べたところでセラムは携帯用のテントを張る。
「おー、ええなそれ。組み立て簡単で凄い便利そうやわ」
カゴメがセラムのテントを見て羨ましそうに言う。実際それは市場に出回っている普通のテントの数十倍の値段もする簡易テントで、単純な機構にこの世界の技術の粋が集められている。貴族ならではの持ち物だった。
「おい、俺は先に眠らせてもらう。四時間経ったら起こせ。くれぐれも……」
「あーはいはい、そう何度も言わんでも逃げんわ」
「貴様はどうでも良い。俺はそこの小さいのに言っている」
「ちっ、おっさんマジで……」
「っと分かりました。逃げませんよ。自分の立場は分かっているつもりです。カゴメさんも抑えて」
不快感を隠そうともしないカゴメを宥めその場を収める。その間にもバルナバはさっさと少し離れた木にもたれ目を閉じる。逃げるなと言いながら眠る時に距離を取るその様子は、こちらを警戒しているようにも思えた。
「カゴメさんは寝床はいいんですか? 何なら少し無理すればこのテントに二人くらい入れますが」
「ええんや。ウチはウチで敷物と毛布くらい一応持っとるんやが、この状況だとあまり準備万端で眠ると危ないさかい、あそこの木にもたれて眠るわ」
「そうですか。でも本当に僕は見張りしなくていいんですか?」
「おう、セラムはんは寝ててええで。実際疲れとるやろじぶん」
「しかしそう甘えるわけにも」
「いやいや、本当のところ見張りにも慣れと実力がいるもんやからな。命を預けるさかい、疲れ切った子供にやらせる訳にもいかんのや。ウチは勿論、おっさんも多分こういう事には慣れとる。せやから二人で順番に見張りをする事にするわ」
「……助かります。実のところ腹が痛くて結構辛いので」
「なに? どっかで怪我したか?」
「いえ、そういう訳でなく」
「……あー」
言いながら下腹をさするセラムにカゴメが察した。流石同性同士、言わなくても感づいてくれるのはありがたい。……と思うのも複雑な気分だが。
「けどそんなんで大丈夫か? これからオークと戦うんやで?」
「まあこの状態で馬にも乗った事ありますし、幸いにも動けない程になった事はありませんので。無理と言ってもやらねばならん事ですしね」
ふっと自嘲して荷物から鎮痛剤を取り出す。この世界には現代医学のように効能を特化させた化学薬品など無く、生理の備えにしても頼りない。生理用品といえば綿と布おむつ、薬は薬湯が一般的だ。高分子吸収体ポリマーなど望むべくもない。辛いところだが、せめて薬だけでも幾分かマシな物を用意出来た事を喜びたい。
幸いにもセラムにはアデライデという強い味方がいた。幼くして毒物の天才と言われた彼女の作る薬は、そこらの医者が持ってくる物よりも遥かに高い水準を持つ物なのだ。毒と薬は紙一重、一級の毒薬使いは一級の薬師でもあった。
「ふー、こういう時女は辛いよなあ。ウチもおんなじような状況には何度もなっとるしよー分かるわ。ちゅうても男もいざ戦闘となれば病気ん時だろうが大怪我だろうが戦うし、それが特別偉い訳でもないんやが、女はその頻度が高いからな」
深く共感するカゴメを見てセラムも思うところがある。そう言う彼女は何故女の身でありながら不利と知りながら傭兵稼業を続けているのか。何故これ程までに強くなれたのか。
女性であっても戦わなければ生きていけない世界である事は身を以て知っている。しかしそれでも、女性老人子供が戦場で矢面に立って戦う事に違和感を感じない日は無い。尤もそれを言えばセラムなどはその最たるものであるのだが、セラム自身は自分を大人の男という認識で動いているので、その矛盾に気付いていない。




