第四話 グラーフ王国軍退却
元ゼイウン公国領の北東、現在グラーフ王国の支配領域にある山道でホウセンとチカ率いるグラーフ王国軍が北へ退却していた。メルベルク砦の駐留軍であった彼らはかつての数は無く、その顔にも疲労の色が濃い。
「ホウセン将軍、この先で崖崩れがあったようでこれ以上は進めません」
「ちっ、上手くいかねえときゃあ何やってもうまくいかねえな」
今迄何とか道らしい道を通ってきたものの、そのまま順調に安全地帯まで逃げ延びる事は叶わないらしい。身軽な少人数ならば抜け出るなり乗り越えるなり出来ただろうが、生憎怪我人を連れた隊列だ。人数に任せて瓦礫をどかすにも時間が掛かる。崖崩れの規模が分からない上に魔物やゼイウン公国の追っ手を恐れながらの行軍中にそれは避けたい。
「マトゥシュカ家の次男坊もなかなかやりやがる。きっちり魔物を誘導して俺らにぶつけてくる。ほんっとーにゼイウンは層が厚い」
「珍しいですね、そんな事を言うなんて。いつもは余裕綽々というような口ぶりで快勝する隊長が」
ホウセンの副官が言う。
「ああ? 俺は今までこの戦争で楽勝だった事なんてねえよ。ヴァイスの将軍から始まってまともにぶつかり合えば勝てるかどうか怪しいモンばっかりだ。それを確実な勝利にする為にいくつの策を並列で積み上げてると思ってやがる」
失言だったかと副官は唾を飲み込んだ。彼は自分の隊長がどれ程までにその頭脳を惜しげも無く振り絞って戦場を渡ってきたか知っている。そして隊長は口は悪いが常に余裕を持ち部下に当たり散らすような事をしない人物だった事も知っている。常の態度が少し崩れている事を心配したからこその言葉だったのだが、失敗だったかと思ったのだ。
しかしそれはどうやら杞憂だったらしい。ホウセンがにやりと笑って続けた言葉に副官は安心した。
「まあそんなのも楽しいんだがな。一番に成り甲斐があるってもんだ」
ホウセンが余裕を取り戻したとはいえ到底楽観視が出来る状況ではない。メルベルク砦を壊滅させた魔物の大群は散り散りになりながらも北上し迫ってきている。しかもそれに呼応するかのように魔物の活動が活発になってきていた。
「だからあそこで食い止めるべきだったんだ」
チカが口を尖らせる。
「魔物なぞに蹂躙されるわけにはいかんのだ。我々にはそれが能う!」
「無理だね。よくて全滅、悪けりゃ俺達全員奴らの腹ん中だ」
「臆したかお主。我ら誇り高き獣人族! その歴史は魔物共との戦いの記録であったわ!」
「こいつらも獣人族ならいけたかもしれんがな」
そう言ってホウセンが親指で指す方向には治療痕も生々しいグラーフ兵の人間達。
「確かに獣人族は魔物とは戦い慣れてる。デカブツでなけりゃ一対一で勝てる程に強え。けどいくら何でも数が少ねえ。幸い敵国で暴れてくれんだ。貴重な兵を無駄に消費する必要もねえ。……チカちゃんみてぇな可愛い女の子を奴らの腹ん中に収めるなんてなぁ人類の損失だぜ?」
「な、何をゆう。か、可愛い……などと」
(チョロい)
顔を赤らめ指をもじもじさせながら犬耳をぴこぴこと動かすチカをホウセンは半眼で見下ろす。普段はくだらない冗談には呆れ顔で流すか冷たい視線で氷点下の言葉を叩き付けてくる女将軍なのだが、こと外見的な魅力を褒められると途端に調子を崩すのだ。戦士として自分を律し部下の尊敬を一身に集める強い女性だからこそ、自分が可愛いなどとは思っておらず言われ慣れていない言葉に弱いのだ。
「ともあれこの状況はちとまじぃな。俺達全員が無事逃げ帰る時間を稼ぎてえ。……ふむ、一計を案じるか」
ホウセンは周辺の地図を広げる。大雑把な地形と大きな道、それに集落の位置が書き込まれている。現代の様な精巧な物ではないが極めて重要な情報だ。
「どうせ今から引き返すのなら周辺の集落に北から魔物が来ると言って住民を追い出そう」
「は? 何故でありますか?」
副官が怪訝な顔をする。ホウセンは地図を指し示しながら説明を続ける。
「避難させてこの大道に誘導する。軍隊が進めるような道はここだけだからな。するとどうなる?」
「恐怖に駆られた住民が大挙して道に押し寄せる……渋滞がおきますね。それで追っ手を撒くという事ですか」
「そういう事だ。家財道具なんかを持った自国民が逆流するわけだ。当然スピードは遅い、統制は取れない。元気な者ばかりじゃない。困り果てた自国民をそのまま見過ごすわけにもいかんだろ? それに実際は魔物が張り切ってやがる。さあてどぉなるかな?」
「しかし集落には駐屯する我が軍の兵が少数います。彼らに説明していて、その、速度面や演技面で上手くいくものでしょうか」
「ん? そりゃあ一緒に騙されてもらうさ。その方が説得力があるだろ?」
その言葉を聞いてチカが慌てて止める。
「ちょっと待て。味方を騙して死地に飛び込ませるのか?」
「ああ、そうなるな」
「それではそいつらは無駄死にじゃないか。敵と相まみえ勇敢に戦って死ぬならばともかく、それではあまりに哀れだ」
「チカちゃんは優しいねえ、駐屯してる奴らは別に俺らの直属の部下てぇわけじゃあないってのに。だが無駄死にじゃあねえぜ。俺らが逃げる時間を稼ぐ重要な駒だ」
「お主とうとう敗北主義者に成り下がったか。勝つ為ならどんな手段も使う、それ自体は私も肯定するところだ。いいかげんに見えて徹底した合理主義のお主に好感すら覚えていた。が、それは買いかぶりじゃったようだの。以前のお主なら勝つ為の退却はあってもただ逃げ帰る為に兵士を使い捨てるような事は無かったぞ」
「おいおい勘違いしてくれるなよ。俺ぁいつでも勝利に向いてるぜぇ。だが魔物相手には勝利も敗北も無え。奴らとは殺すか殺されるかの存在でしかねえ。だから拾うのは戦闘の勝利じゃねえ。勝利条件は俺達が生き残る事、最悪俺とチカちゃんがいれば南方侵攻軍は再生出来る。負けを認めちまった以上次の戦場に向けて積み上げてく時期なんだよ」
「ぐっ」
そう言われてしまうとチカは、いや獣人族は何も言えない。根っからの戦闘中毒者である彼らは強い敵に挑む気概と戦い勝利する喜び、そして潔く負けを認める美学を至上とする。
黙ってしまったチカの代わりに副官が言葉を繋ぐ。
「しかし住民が全て逃げてしまったらもうここに駐留する事は出来ないのでは?」
奴隷化と略奪によって兵站を維持するグラーフ王国軍にとって原住民は財貨そのもの。食料も馬も資材も消耗品も徴発によって成り立っている以上、人がいない土地に軍を駐屯させる事は出来ない。
「ああ、だから元ゼイウン公国領は捨てる。戦線は北の支配領域まで後退だ。口惜しいがな。……ああそうだ、もし俺達と一緒に北に逃げてえって奴がいたなら止める必要はねえぜ。いねえと思うが。ただし俺達は何の支援もしねえから勝手に付いてこいっつう話だが」
「後退するというのですか? ゼイウンの支配を諦めると」
「何も領有権を諦める必要はねえさ。ただ実効支配の線は無理ってえだけだ。なに、暫く預けとくだけだ」
ホウセンは苛立ちを誤魔化す為にポケットの煙草に手を伸ばす。だが小箱の中身が空だという事に開けてから気付き舌打ちする。
「上手くいかねえ時ゃほんっとーに何もかんも上手くいかねえもんだな」




