第百五話 その血は苦く
泣き声がする。女の子の泣き声が。僕は声のする方向へ歩く。
景色が回る。父親と手を繋ぎ歩く女の子が見える。足を踏み出すほどに場面は変わっていく。父親と一緒に市場を見る女の子、父親と馬車に乗る女の子、父親の指導のもと剣の修行をする女の子、父親とご飯を食べる女の子、様々な記憶が巡る。
更に歩く。次の記憶には見知った顔が出た。初めてヴィレムと会った時、戦争について語り合った時、手編みのマフラーを渡された時、一緒に食卓を囲んだ時、祭りの日に服を直してもらった時、そして一緒に見た送り火の紅。
やがて周りが真っ暗になる。その奥で女の子が膝を抱えて泣いている。
「どうしたんだい?」
「お父様がいないの」
僕の問いに女の子は泣きじゃくりながら答える。
「迷子かな?」
女の子は小さく首を横に振る。
「もう二度と会えないの。死んでしまったから」
周りの暗闇がうねり出す。その色に赤が混じり膿の様な昏い感情が流れ込む。
「わたしの大切な人はみんな死んでしまうの。お父様も、ヴィレムさんも、きっとベルもアルテア様もみんなみんな死んでしまう」
女の子が顔を上げる。そこには慣れ親しんだ自分の顔があった。
「憎い、憎い憎い憎い」
女の子は暗闇に飲まれ姿が見えなくなっていく。僕は必死に手を伸ばし叫んだ。
「待って! 君は……」
不意に足が地面から離れた。そのまま女の子から引き剥がされるように体が浮き上がる。
僕は何かを叫んだ。が、何を叫んだのか僕自身にも聞こえなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
はっと目を見開いた先には天井があった。鈍い感覚ながら手を握られているのが感じられる。傍らには目の周りが赤く腫れたベルが座っていた。
「良かった。目が覚めたのですね」
「僕は……」
寝ぼけているのか、自分が誰か定かでない。視界の不安定さに起き上がるのを断念して枕に頭を預ける。
「じっとしていてください。ここはゼイウン公国領の砦の一つです。セラム様はあの戦いから丸二日眠っていたのです。そのまま体をお休めになってください。目が覚めたら呼ぶようにとカルロ様から言い付かっております」
そう言ってベルは握っていた手を離し部屋から出ていく。離された左手を見てみた。そこには巻き付けられた包帯、そして腕には古傷がある。この世界に来た時に自分で付けた切り傷だ。
「そうか、僕はセラム・ジオーネ」
自分が何者であるか、違和感を感じながらも納得する。少々記憶に混乱があるようだが、この世界に来てから自分が何をやってきたかは覚えている。順に記憶を整理していき、魔物を利用してメルベルク砦に攻め入った所まで思い出すとノック音がしてカルロが入室してきた。
「失礼します」
カルロはセラムの横まで来ると床を叩き割る勢いで深々と頭を下げる。
「申し訳ありませんでした!」
「な、何だ?」
唐突な謝罪にセラムは戸惑う。カルロは構わず謝罪を続ける。
「緊急時とはいえ上官に手を上げ、挙句の果てに二日間も寝込むような状態に陥らせてしまい言い訳のしようもありません! この上は如何なる処罰も受ける所存!」
「何を……あ」
心当たりがあった。あまりに血が上り記憶もおぼろげではあるが、最後に背後から首を絞められたような気がする。
「……何故あんな事をしたのか教えてくれるか?」
「それは……」
「忌憚なく言ってくれていい。貴官からあの状況がどう見えて、どういう判断でああしたのかを知りたい」
「はっ。率直に申し上げて、あの場の少将は戦場の気に当てられ正気を失っておりました。初めて人を殺めるとままある事なのですが、精神的な衰弱もあったのだと思われます。周りを魔物に囲まれ敵と味方が入り乱れる中、あれ以上留まっていては部下を無下に死なせる結果に繋がると判断しました」
「それで僕を気絶させたか。その後はどうなった?」
「はっ。私が指揮を引き継ぎ隊を纏めてあの場を離脱、現在地はメルベルク砦と国境の間にあるゼイウン公国の砦に何とか入れてもらい怪我人の治療をしております」
「そうか。……ところで僕を君が気絶させた事を知っている者はいるか?」
「は、いえ。恐らく誰も見ていないと思われます。混乱するかと思いその事は誰にも言っておりません。言い訳がましいようですが」
「いや、それならいい」
そこまで聞くとセラムはほっと一息吐いた。もし乱心した将官に副官が危害を加えたなどと知れ渡れば軍が立ち行かなくなる。かといってあのままセラムを放っておけばカルロの言う通り部隊の壊滅すらあり得た。
(まったく、僕には勿体無い部下だ)
この苦労人の副官のお陰でセラム隊は、いやヴァイス王国は滅亡の危機を免れたのだ。本人に自覚は無いだろうが。
「君がいて良かった」
「は?」
カルロはセラムの微笑みを一瞬見た。しかしそれはあまりに刹那の事で、すぐに厳しい顔に戻ってしまったので、きっと幻を見たのだとカルロは思った。
「まったくよくやってくれたよ。この事は不問にする」
「……! いえ、しかし」
「納得いかんか? では目を瞑って歯を食いしばれ」
「はっ」
堅物な程に真面目なこの男らしくぎゅっと目を瞑り覚悟を決める。
「そのまましゃがめ」
「はっ」
その頬を包み込むようにセラムの両手が触れる。鳩が豆鉄砲を食らったような顔のカルロの頭をからかうようにぽんぽんと叩く。
「今のは……」
「くっく、いい顔だ。それにしても手が痛いな。骨を痛めてるかもしれん」
力を加減せずに思いっきり短剣を扱った反動だろう。特に柄尻を抑えていた左手が痛い。暫く剣も持てないだろう。
「さてカルロ中佐。ゼイウン公国の砦を間借りしているという話だが、どうやって許可を取った?」
「は、緊急時だからと強引に通してもらいました。身分は明かしましたし、援軍部隊である事は先方も承知していました。正式な許可は事後承諾になるでしょう」
「なら今頃使者がゲルスベルグに向かっているだろうな。となれば急いだ方がいい。逃げるぞ」
「はい?」
「聞こえなかったか? とんずらするんだよ」
セラムはしれっと言ったが、ここへは味方として来ている筈なのに逃げるとはこれ如何にとカルロが疑問符を浮かべている。
「僕は魔物と一緒にメルベルク砦に突撃した。どういう疑いが掛かっても不思議じゃない。最悪ゲルスベルグに召喚されたが最後、その場で処刑という事もあり得る」
「とんでもないじゃないですか!」
「そう、とんでもない事をしでかしたし、現状が素晴らしく最悪だという事だ。だから逃げる」
そう言ってセラムはカルロに出立準備を命令した。
わずか半日後、準備が整ったと報告を受けセラムが砦を出る。見渡せば随分怪我人が多い。それだけ激しい戦闘だったと言える。……いや、あれを戦闘と呼んでも良いものだろうか。少なくとも今残ったものを眺めやれば「惨状」としか言い様が無い。
その惨状の中から飛んできた石がセラムの頭に当たった。飛んできた方を見やると、ワルターがセラムを睨みつけていた。
「貴様っ」
庇おうとするベルと剣に手を掛けるカルロを制し、セラムが足を止めてワルターに相対する。
「あんたが!」
「やめなさいって!」
暴挙に出た親友を止めようと羽交い絞めにするダニエレを殴り飛ばさんばかりにワルターがセラムに食ってかかる。
「あんたがステファンを殺したんだ! あいつ程あんたを信じてた奴はいなかったのに!」
「言いたい事はそれだけか」
冷徹な言がセラムから投げかけられる。ワルターは一瞬勢いを削がれたが、地面に唾を吐き捨てると低い声で言葉を絞り出した。
「あいつは最後まであんたの名前を呼んでたよ」
「そうか」
それだけ言ってセラムは再び歩き出す。ダニエレ以外はワルターを止めようとする者もいなかった。咄嗟の事だったとはいえその事実が皆の心情を表していた。
セラムは頭から流れる血を拭う事もせず帰路に就く。誰も、一言も喋らなかった。




