第百二話 (仮題)○○と呼ばれた少女
走る。奔る。ただひたすらに疾る。
ステファン、ワルター、ダニエレの弓兵、槍兵、工兵三人組は必死の思いで走っていた。最早隊列がどうなっているのか、先頭や最後列がどこなのかすら分かっていない。
「おいおいいいのかよこんなんで!」
「口より足を動かせワルター! でないと」
「魔物に潰されちゃいますよう!」
彼らは魔物に追われていた。彼らだけではない、この隊全員が魔物から逃げていた。
「俺らどこに向かってんのよ? もう分かんねえぞこれ!」
「方角的には大きく迂回しつつメルベルク砦に向かっているようだ」
「そういえばステファンさんは元猟師でしたっけ」
「ああ、初めての山の中でも多少は分かる」
「そりゃあ何より。けどこれグラーフの敵と魔物に挟まれちまうんじゃねえか!?」
「お前にしては鋭いな」
「馬鹿にしてんだろステファン!」
「いいから黙って走りましょうよ!」
迫りくる命の危機と全力疾走の中でまともに考えが纏まる筈も無い。周りの味方が皆そうしているように彼らもまた前に倣って走る。その背後で騒ぎは更に大きくなっていった。
「げっもしかして更に魔物が増えてねえか?」
ワルターの言う通り隊を追いかける魔物の数も種類も増えていた。
「どうすんだ、どうすんだよこれえ!」
「落ち着け、少将には何か考えがあるに違いない」
「とは言いましてもこの状況は何とも……」
「とにかく少将を信じるんだ。少将なら何とかしてくれる」
ステファンはそう言って口を引き結んだ。この恐怖も強い信仰があれば耐え切れぬものではなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ゴブリンは群れの子供を害する。オーガは縄張りを荒らす。ケルピーは水を汚す……」
首巻の下でセラムが確認するように呟く。その内容は如何にすれば各種魔物の怒りを適切に買う事が出来るかであった。
切れ切れに漏れ聞こえる内容はカルロを不安にさせる。
(一体少将はどうなさってしまったのか。もしやご乱心を……。考えたくない事だが、少将が魔転を……。いやまさか少将に限って魔族になるなどという事はあるまい。だが今まであれ程に部下の損耗を嫌った少将のやり方とは思えんこの所業。一体何がどうなっている?)
魔転とはニムンザルグに魅入られ魔族になってしまう事を言う。ニムンザルグの信奉者のみがなるものだと誤解されがちだが、カルロを含む一部の者達は魔転がいつ誰にでも起こりうる現象だと知っていた。特に魔に近付いた者や強い思いを持つ者が極稀に魔転すると言われ、カルロのような魔物を研究している者は異端視、危険視されがちである。
それ故に魔物の生態は殆ど知られておらず、だからこそ自分のような魔物と相対する職業は魔物を研究し対策を練るべきだとカルロは考えていた。
しかし培ったその知識は安易に広めるべきではなかったのではないかと、今カルロは感じている。セラムの目を覗き込んでもあまりに様々な色が入り混じっており感情を読み取る事は出来ない。
「この先に魔物の目撃情報があった地点」
セラムが事前に調べておいた魔物の出現情報があった場所に突入する。魔物との遭遇を避ける為に集めた情報だったがそれをこんな作戦に利用するとは、主に情報収集をしていたベルやフィリーネも思ってもみない事だっただろう。
セラムは今魔物の巣に飛び込んでは敢えて怒らせ自分達を追いかけさせている。怒りは怒りを呼び魔物の群れは瞬く間に増えていった。説明を受けていないセラム隊の面々は混乱しながらも隊長であるセラムを信じ追従する。訳が分からないままにセラムを盲信する者ばかりでもなかったが、それでもセラムには今まで革新的な方法で状況を覆してきた実績があった。だからこそ魔物の大群に追いかけられるという非常時でも逐電する者はいなかった。セラムは混乱する隊を混乱したままに統率していた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
メルベルク砦の歩哨はその日信じられない光景を目にした。その情報を正確に司令官であるチカに伝えるには勇気がいった。自分の目を疑うべきかと思ったからだ。そして次にこの情報で推測される事態を考え伝えるべきか迷った。だが結局見たままを報告するに留めた。理解しようがない事に対して主観を交えるべきではないと思ったからだ。
「チカ将軍! ヴァイス王国の兵と魔物の大群が一緒にこちらに向かっております!」
「なんじゃと!?」
その言葉だけ聞けばヴァイス王国が魔物と手を組んだように聞こえる。だがそんな事が起こる筈はない。この世界において魔物とは亜人種を含む人類の天敵であり、ユーセティア神を祀る人類と、ニムンザルグの眷属または更にその配下と考えられている魔物とは相滅ぼすべき存在である。意思の疎通すら出来ず、問答無用で襲い掛かってくる魔物も多い。
だがそんな魔物を隷属させる事が出来る存在がいる。
「もしや魔族が現れたというのか!?」
そう、ニムンザルグの眷属である魔族ならば魔物を統率する事が出来る。かつては魔族による魔物の軍団の侵攻によって滅亡した国もあるという。
「ですが人間も一緒に攻めてきているのです!」
その絶叫のような報告は周囲に動揺を伝播させた。
「魔物を操るなんて魔族ぐらいなものだろう!」
「だが人間の兵も従わせるなんて聞いた事もない!」
「信じられん」
「国家が魔族と手を結ぶなどあり得ん事だ」
「じゃあこれは何なんだ!? 魔物も人間も操る奴がいるって事か!?」
動揺が不安となって発露する。口々に叫ぶその声の中、更なる報告が転がり込んだ。
「旗印が判明! 相手はあのセラム隊の模様!」
メルベルク砦の兵士は一度その隊と戦っている。一夜とはいえ捕虜にしたその司令官を目にした者も多い。その時は確かに強気なだけの何の変哲もない少女だった。魔法使いですらなかった。その姿と、魔物と人間を一緒くたに指揮する敵司令官とが結びつかない。
一人の兵士がぽつりと呟いた。
「魔人……」
その声は大きなものではなかったが、その場にいた全員の耳朶を打った。
魔を操り人を従わせる者。魔と人の境界を踏み越える者。魔を屠り人を滅する者。魔物と人類全ての敵。
それは少女の姿をしていた。
第百二話 真題 魔人と呼ばれた少女




