第百一話 ラプラスの魔
バッカスはフィリーネと兵士三十人と共にホウセンを追っていた。敵の練度は高く、迷彩服の所為で目で追い辛いために途中見失ってしまったが、進路から敵の目的が後方の輜重隊にある事は見抜いていた。あとは急ぎ追い付き味方と連携して阻止すれば良いと考えていた矢先の事である。
「はいはいちとそこで止まってもらうで」
緊張感の無い声と共に奥の木の陰から女が現れた。バッカスとフィリーネが停止する。女を警戒したわけではない。周りから矢が飛んできたからだ。
追走していた部隊の何人かが矢を受けるが、残った無傷の兵達が女に切迫する。問答無用で斬り掛かり道を拓く、見敵必殺であった。
「でやああああ!」
「はああっ」
二人が真正面から斬り掛かり、後ろの二人がその陰に隠れつつ直前で左右に広がる。一切の油断の無い息の合った連係。しかしバッカス達が次に目にしたのは予想されたものではなかった。
まるで演劇の殺陣のように、女の刀が向かう方へ兵士達が吸いこまれていくように見えた。数瞬の間に小柄な女一人に屈強な兵士四人が斬り伏せられるその光景は悪い冗談に思えた。矢を捌ききり再び踏み出そうとした足を止めるはめになりバッカス達がつんのめる。
「ええ子や、そのまま止まっといてえな。ウチらは時間稼ぎが役目やさかい、抵抗せえへんかったら危害を加えたりはせえへん」
女の刀が横に振られ血を切る。そのまま、ここは通さないと言わんばかりに宙に留めた。
「おめえら傭兵か?」
バッカスが声を放つ。目だけで木陰に隠れた男達の装備品を確認し、包囲しているこの集団がどのような連中なのかを鋭い嗅覚で察していた。
「得物がバラバラ、統率もとれてねえ。けど退け腰な奴が一人もいねえ。軍隊って感じもねえし賊でもねえ。グラーフの雇われか」
「へえー、大した慧眼や」
「ま、俺も元傭兵だったしな」
「その通りや。うちらはメルベルク砦で雇われた傭兵や。挨拶がまだやったな、ウチはカゴメ。あんさんの噂は聞いとるで雷獣」
「あん? 何だそりゃ」
「あんさんの事や。前のいくさからこっち、あんさんの名はメルベルク砦ん中で雷獣で通っとる」
「ほお、俺も二つ名で呼ばれるまでになったか。じゃあ俺も名乗っておくぜ、『雷獣』バッカスだ。改めてよろしく頼むぜ」
バッカスは悪くないと言わんばかりに挨拶を返す。そんなバッカスにフィリーネが傍によって小さな声で窘める。
「何をほんわかと話し込んでいるのですかっ。私達はここで足止めを食らっている場合ではないのですよ」
「わあってるよ。けどあいつの技の正体がまだ分からねえ。あんたは見えたか?」
「いえ、兵士さん達が刀に吸い込まれたように見えました。まるでわざと当たりにいったような」
話しつつも周囲の警戒は怠らない。フィリーネが右の木に射こむと今まさに身を乗り出そうとしていた敵が裏に引っ込む。そのまま流れるように淀みなく矢を番え隙を見せないフィリーネ。
「このまま睨み合ってても奴らの思うつぼか。しゃあねえ、俺が突っ込むから掩護を頼む」
「承知」
バッカスが走り込むと同時にフィリーネの矢が飛ぶ。カゴメが軸足を曲げ大きく体をずらす。重心の位置からして避けにくい方へ体を傾けた判断は正しく、フィリーネの矢は体の中心を狙った一本目に隠れて二本目の矢が忍ばせてあった。順当に避けやすい方へと流れれば当たっていたであろうその二本目の矢は空を切りあらぬ方へと飛んでいく。しかし若干なりとも体勢を崩したその瞬間をバッカスが見逃す筈がない。青龍偃月刀の切っ先が地面を這うようにカゴメに迫る。
(右下段斬り上げ、と見せかけてのっ)
刃が正面を裂く寸前、方向が即座に変化する。長柄の特性を活かした千変万化の攻撃だった。刃は虚、実は柄による叩きつけだ。
「なっ!?」
しかしカゴメはその動きを予め段取りしてあったかのように一寸の差で避け上段斬りを見舞ってくる。
バッカスの体に刀傷が刻まれた。寸前で踏みとどまり後ろへ飛んだものの躱しきる事は敵わなかったのだ。
「っふうー、まじかよ。二対一で俺に傷を負わすとかありえねえぞ」
バッカスの頬に冷や汗が垂れる。自分の力量に絶対の自信を持つこの男にして抜きん出た達人と認めたのだ。一方のカゴメも大仰に息を吐き態勢を元に戻す。
「ふいー、だからあんさんみたいなんと真っ正面から戦いとうないんや。確実に捉えたと思ったんにこれやもん、肝冷やすで。それと奥の姉ちゃんもええ腕しとるな。影矢やろ今の。大概の奴やったら一撃目を何とか躱しても二撃目に当たっとるで」
「……そうと知っていなければ偶然でもない限り避けられない射だと自負していたのですが」
フィリーネも驚きを隠せない。だがバッカスは今の攻防である程度敵の技の正体を見破ったようだった。
「驚いたぜ。こいつは魔法とか先読みとかじゃねえな」
「何か分かったのですか?」
「多分この女は俺達の予備動作のしょっぱなで攻撃を見切って超反応で返してやがるんだ」
「んなっ、そんな事が可能なのですか?」
「無理だろ、と言いたいところだが実際にやられちゃあな。ちいと違うが俺も似たような感覚をこの前の撤退戦で味わったばかりだ。あん時は見てなくても気配でどこからどんな攻撃が来るか分かった。こいつはそんな超集中状態を維持出来るんだろう」
今度はカゴメが驚く番だった。一回斬り結んだだけでそこまで見切られるとは思っていなかったのだろう。
「まったく、驚嘆に値するで。……ウチの秘剣や。ホウセンの旦那は「ラプラスの魔」みたいやゆうとった……」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
面白い奴が傭兵の中にいると聞きホウセンがカゴメに手合わせを願いにやってきた時の事だった。ホウセンは素手、カゴメは木刀という違いはあれど三十センチはある体格差を物ともせず一発も有効打を許さずホウセンに勝つカゴメに、ホウセンは称賛と共に語った。
「すげえな、全部読み切られちまう。とてもじゃねえが組みつく事も出来そうにねえ」
「いやいや、旦那に本気を出されたらまずウチが負けます。魔力が見えない時点で攻撃の出だしが見えまへんから」
「魔法無しなら勝ち目ねえがな。しっかし後の先も極めるとこうまでになるか。まるでラプラスの魔だな」
「ラプラスの魔? 何ですのんそれ」
「ラプラスの悪魔とかラプラスの魔物なんて呼ばれる事もある、昔の数学者が提唱した概念……つうか一種の仮定だな」
ホウセンは木箱に腰掛け煙草に火を点ける。その仕草も皮肉気で様になっているのがこの男だ。
「もしある瞬間における物質の状態と力を知る事が出来て、なおかつそれらのデータを解析できるような存在がいるとすれば、そいつはその物質が次に起こすであろう運動やその方向を計算する事だって出来るだろうから、そいつの目には未来がどうなるか全て見えるだろう、っていう考えさ。完全なる未来予知、もしそんな事が可能なら世界が始まった時に既に未来は決定してる事になる。例えば次に俺が灰を何ミリグラム地面に落とすとか、どの方向から風が吹いてその灰がどの地点に落ちるのか、とかが全部分かっちまうわけだからな。未来は既に決定してるかどうかの議論でよく引き合いに出された話だ」
ホウセンが咥えた煙草を吸うとミリミリと燃焼が広がり灰の塊が大きくなる。その一部があっけなく垂直に落下した。
「あーあ、俺ぁラプラスの魔にゃあなれねえな。まあ今となっては時代遅れの空想だ」
「ふーん、ウチは馬鹿なんでお話はてんで理解出来ませんがそのラプラスの魔っちゅう名前、気に入りました。ウチがもろてもええですか?」
「ああ? 別にいいが、魔なんていう名前はまずいんじゃなかったっけ?」
「ウチは只の傭兵ですしなあ、寧ろ箔が付くっちゅうもんですわ。そんな二つ名が付いてるからゆうて傭兵やっとる奴が魔族だの魔物だのと勘違いされるっちゅう事もないでしょ」
「まああんたがいいならいいんじゃねえの。別に俺の著作物っつーわけでもねえし」
「なら決まりや。秘剣ラプラスの魔、開眼……ってな」
そう言ってカゴメは嬉しそうに笑った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「っちゅうわけでウチの目ぇは欺けんで。つま先の力の入り具合で次の攻撃の軌道まで見切ったるからな」
カゴメが自然体で脱力し不敵に笑う。構えを取らない事こそラプラスの魔の構えのようだった。どこにも力を入れず動きの制限を無くす事でどのような攻撃にも対応するのだろう。
「まじいな、この状況の相性最悪だぜ。あの女一人に釘付けだ」
数不明の傭兵に囲まれている中で正面突破すら簡単には許してもらえそうにない。バッカスやフィリーネと互角以上に戦うカゴメを見て兵士達も動くに動けない状態になっていた。
「まあそんなわけや。ウチらは貰った金の分だけ働けりゃそれでええ。お互い怪我しとうないやろ? ま、ここで雑談でもしとこうや」
バッカス達追走部隊はここで足止めされる。その間にも戦況は刻一刻と変化していった。その変化はバッカス達の知らぬ所で予想外の事態を招く事になる。




