第百話 憎炎
闇だ。果てしなく続く闇。底の見えぬ深淵。体との境界がぼやけ闇に溶け込む。
体の中が渦を巻くような感覚に飲み込まれ足元さえも覚束無い。
――マタマモレナカッタ。
この感情の半分はよく知っている。怒りだ。自分への怒り。
この感情の半分は知らない。だが名前は知っている。憎悪だ。
心が赤黒く満たされていく。まるで器に血を満たすように。
――ダレガコロシタ。
僕。ダリオ。グラーフ。ホウセン。戦争。世界。神。
それらは全て正解で、全てが正しくない。誰でもいい、僕は……。
「よい憎しみだ」
全身を揺さぶるような声が響いた。
「何が憎い?」
その声は深淵の中から聞こえてくるようで、セラムは下を見た。だが立っている感覚も無くなり自分が下を向いているのか上を向いているのか、そこに留まっているのか動いているのか、落ちているのか昇っているのかさえ定かではない。
だがここがどこなのか、それすらもどうでもいい。最早まともな思考など働かず、ただ聞かれた事に答える。
「全てが。この世界、それに神」
「ほう、それはユーセティアか、それとも……」
「グリムワール、あいつが僕にとっての最初だ」
あいつが僕をこの世界に喚ばなければこんな思いはしなかった。たとえつまらない世界でも生温い日常に包まれ一生を終えただろう。
「くっはははは! この世界全てを創った創造神を、世界そのものを敵に回すというのか。」
声がさも愉快そうに震える。
「それがどうした。世界だろうが神だろうが関係ない。会って、殺す。それを邪魔する奴も殺す」
口を開く度どす黒いものが吐き出されるようだ。今まで自分を許せなくなる事はあっても、自分以外に怒りを向ける事は無かった。これは果たして自分の言葉なのか疑わしくなる。
「よい! よいぞ少女よ。今まで様々な憎悪を目にしてきたが、それを我らが造物主に向ける者は一人もいなかった。気に入った」
「あんたは誰だ」
「我か? 我はニムンザルグ。造物主によって創られた二柱の片割れよ」
ニムンザルグ? どこかで聞いた名だ。だが関係ないか。こいつが僕の邪魔をするようなら殺すだけだ。
「我にすら憎しみを向けるお前に力を授けよう。造物主には通じんだろうがそれ以外の全てを殺せる力だ。もしかしたらいずれ造物主にも届くかもしれん」
不意に脳の中をまさぐられるような感覚がして頭を押さえる。まるで記憶の中の黒く強い感情が引っ張り出されるようだ。
「ぐうううっ」
殺す。憎い。悲しい。苦しい。許せない。――。恨めしい。狂おしい。
体中の穴という穴から憤怒が噴出し焼き切れそうになる中、煮えたぎったヘドロのような感情に所々ノイズが走る。
(何だ?)
それは誰かの必死の呼び掛けに聞こえた。夢の中で聞いたような、誰かの叫びにふと懐かしさを感じる。
――。
そうか、この憎悪に混じるもの、それは憎愛。
僕を縛る呪いそのものの感情。
愛おしい。
――沙耶。
「何だこの記憶は? ……くくくっそうか、お前造物主のお手付きか」
声が堪え切れぬ笑いを漏らす。
「面白い。神の創りたもうた生命が神に弄られた記憶を拠り所に神に挑むか。これ程の喜劇もあるまい」
笑い声がこだまする。いつの間にか頭痛は消えていた。
「何を言っている?」
「造物主のお手付きとあっては我は手が出せぬ。お前はそのまま生きるがいい。植え付けられたその異世界の誰とも知らぬ者の記憶を頼りにな」
「待て、何の事だ」
足が地を踏みしめ歩を進める。笑い声は遠くなりやがて消える。代わりに聞こえるは誰が声か。
「……っ」
近くなる。
「……ょう」
聞こえる。
「セラム様!」
不意に視界が開けた。いつの間にか外へ出ていたらしい。カルロとベルが心配そうにセラムを囲んでいた。
「セラム様、お気を確かに!」
「少将!」
ぼんやりと辺りを見回す。自分の体を支えるベルとカルロ、周囲を警戒する兵士達、繁み深い木々、目に見える全てに現実感が無い。
肩を揺さぶられる。カルロが何か叫んでいる。だが何を言っているのか、セラムには届かない。ただ揺れる腰鞄の中で何かが動いたのを感じた。
「あー、マフラーかあ」
セラムはのろのろと腰鞄からはみ出しかかった手編みのマフラーを取り出す。ヴィレムからの贈り物。最後に残った形見の品。
「そうか……男だとか女だとか、そんな事は関係なかったんだ」
そのマフラーを見ると過去や性別がどうこうと悩んでいた自分が馬鹿らしく思えた。ヴィレムは僕が好きで、僕はヴィレムが好き。それだけで良かったのだ。何と詰まらない事に拘っていたのか。
「今になって気付くなんて。僕はいつも気付くのが遅いんだよなあ」
この気持ちはきっと沙耶の時のような恋じゃない。ただ愛され、そして愛していた。
「しょう……しょう?」
カルロの訝しげな声、ベルの不安気な表情。それらを無視してセラムはマフラーを首に巻き後ろで縛る。セラムの目に力が宿った。
「全軍、全速力で付いてこい」
「え、あ、はいっ」
セラムは背後を顧みず自分の馬の元へ歩く。果たしてその目に映るのは理性か狂気か。
降り頻る雨はいつの間にか雪に変わっていた。




