第九十九話 ……
衝撃で回転しながら倒れるヴィレム。
「このっ」
ベルが投じた短刀がダリオの肩に突き刺さる。
「っああああぁぁぁぁ……!」
ダリオは仰け反り足を踏み外し、そのまま崖のような急斜面を転がり落ちてゆく。
「ああ、ヴィレムさん、血が、血が……」
ヴィレムの太腿からはとめどなく血が溢れ出てくる。その様にセラムは顔面蒼白になり判断が下せない程に狼狽する。
「セラム様、ヴィレム様を馬に乗せて運びます。急いでここを離れませんと」
ベルの窘めるような語気に我を取り戻す。治療するにもこの場所ではどうしようもない。
「誰か手を貸してくれ。後続は怪我人を拾って付いてこい、一気に走り抜けるぞ!」
雨足が強くなる。十メートル先すら怪しい視界の悪さの中で運良く山小屋を発見した。持ち主は定かではないが、緊急事態だとしてセラム達は山小屋にヴィレムを運び込み陣を張る。
中では軍医がヴィレムに懸命の治療を施している。セラムは永遠とも思える時間の中山小屋の扉が開くのを待った。
ずぶ濡れの髪から雨が頬に滴り落ちる。
「セラム様、どうか傘くらいは差させて下さいまし」
「いやいい。このまま濡れていたいんだ」
どれだけの時間が経ったのだろう。実時間では左程ではない筈だが、扉が開き重い足取りで軍医が出てきた時には思わずその胸倉を掴み詰問していた。
「容体は、容体はどうなんですか!?」
「止血処置はしました。が、血を失い過ぎている上に出血が止まらず……」
セラムの手が力なく下がる。軍医の浮かぬ表情は残された時間を察するに余りあるものだった。
「どうか少将が彼の傍にいてやって下さい」
事実上の死の宣告。セラムの心から感情が落ちる。裏腹に表情筋は笑顔を作っていた。弱々しい笑顔で後ろを振り返りセラムは周りの者達に言葉を発する。
「すまないが暫く二人きりにさせてくれ」
誰も何も言えなかった。
セラムは山小屋に入ると後ろ手で静かに扉を閉める。狭い室内ではベッドの上でヴィレムが苦しそうに息をしていた。
(呼吸が速い……。血が足りなくて過呼吸を起こしているのか)
セラムはヴィレムの手をそっと握る。その手は驚く程冷たかった。
「セ、ひっひ、ラムっ、ひっ、さん?」
「落ち着いて、深呼吸をしましょう。吐く方を長く。大きく吸って、吐いて、一、二、三、吸って……」
セラムはヴィレムの手を柔らかく両手で包み、優しく声を掛けるとヴィレムの呼吸が少しずつゆっくりとなってゆく。
「……はあ、ありがとうございますセラムさん。来てくれたんですね」
「ええ、お加減は如何ですか?」
聞かずとも分かっている事を敢えて普段通りに話す。
「少し寒いですね。……手だけが暖かいですよ」
ヴィレムが微笑む。その顔色は蒼白で、とてもではないが平然とはしていられない。だがセラムはヴィレムに余計な心配をさせまいと気丈に振る舞う。
「すみません、服もびしょびしょでヴィレムさんに掛けてあげる物もありません。せめてこうしてずっと手を握っていて差し上げます」
「おや、今日はセラムさんが随分優しいですね」
穏やかな声で言うヴィレムの全身が震えている。体温が下がっているのだろう。もう苦痛は限界だろうにそれを面に出そうとはしない。
「僕はいつでも優しいんですよ。ヴィレムさんが僕を怒らせるだけです」
「はは、怒らせるついでに告白しておきたい事があります」
「何ですか?」
「僕はヴァイス王国の内部情報を探る為に送り出されました」
「知っています」
セラムはあくまで落ち着いた声で、微笑みを浮かべながら言う。
「やはり気付いていましたか。勿論セラムさんと結婚して同盟を固める役目も真実です。ですが良くしてくれている皆さんを騙す様なこのお役目、ずっと心苦しかった」
「…………」
「それに結婚後のお前の影響力を高めろと父に言われておりまして、当初そういった事は苦手だと、女性を誑かす様な真似はしたくないと言えれば良かったのですが。僕はついぞ父に逆らう事は出来なかった」
「貴方は悪くないでしょう。逆らえる立場でもなかった。その命令は自分の家の役に立つ事だった」
「ですが貴女を騙していた事に変わりはありません。僕は……僕はっ」
「興奮しないで。大丈夫です。大丈夫、大丈夫」
「セラムさん……。何か目の前が暗くなってきました。そこにいますか?」
「ええ、ここにいますよ」
ヴィレムの手がぎゅっと握られる。
「ああ良かった。まだ伝えたい事があるんです。それを伝えるまで傍にいて下さい」
「もちろん。ずっと傍にいます」
「セラムさん、僕とセラムさんは政略結婚です。最初はそのつもりでした。でも僕はだんだんと……だんだんと貴女に惹かれていったのです。貴女の考えを聞く度に、貴女の行動を見る度に、なんて強い人だろうと……思ったのです」
「ヴィレムさん……」
「僕は……貴女に理想を見た。なりたかった自分はこんな人なんだろうなって。……セラムさん? 手を、握っていてもらえますか?」
「握っていますよ」
「おかしいな……感覚がなくなってきたらしい。どうかそのまま聞いていて下さい。僕は、貴女に憧れた。貴女に認めてもらいたいと……ふふ、人生で一番必死でしたね、今思えば。この半年間は……本当に楽しかった。怖い思いも沢山したけれど、きっと充実していたと……思います」
「…………」
「形に残る物を贈りたくて、僕の誠意を見せたくて、編み物もしましたね……これがお守りになればいいなと……そんな、僕の無力さを……貴女は笑わないでいてくれた。最初の頃に言ってくれた言葉を覚えていますか? 貴女は僕には僕の戦い方でいいと……戦場に出る必要はないと……言ってくれた。でも僕は……貴女が戦場に行くというのに、男の僕が安全な場所にいるなんて……セラムさんだけ危険な場所に行くなんて、どうしても我慢できなかった。
情けないですね。今までの僕は戦う事が嫌いだって……逃げていたんです。戦う事が好きな人なんていない。……いえ、いるでしょうけど多分少ない。それでも戦うのは、きっとこういう事なんでしょうね。
セラムさん、聞いていますか? 僕は貴女を守りたかった。僕如きが……なんて思うでしょうね。でも気付いたんです。やっぱり僕は男なんだって。好きな女の子を守りたいって……そんな当たり前の感情に……気付いたんです。……迷惑でしたかね。
セラムさん、僕の声は、聞こえていますか? 僕はまだ、声を発せていますか? あの首巻、捨ててくれてもいいんです。……でもきっとセラムさんの事だからずっと持ってるんでしょうね。そういう人です。
貴女は僕の事はどう思っていたんでしょうか。やっぱり迷惑だったでしょうか。それとも少しは好意を持ってくれていたなんて、自惚れてもいいんでしょうか。
政略結婚だろうと、僕は構わない。貴女の傍にいられるのならそれで幸せだ。……そうか、僕は幸せだったんですね。ふふ、今頃気付くなんて、可笑しいですね。
僕は今笑えているでしょうか。いつの間にか張り付いた作り笑顔ではなく、本当の僕の笑顔。……愚問でしたね。セラムさんがいてくれるんだ。きっと締まりのない最高の笑顔でしょう。
セラムさん、僕は貴女に伝えたい事があるんです。まだ聞いているでしょうか。僕の口は動いているでしょうか。
セラムさん、愛しています。
――ああ、セラムさんの笑顔が見える。……なんて綺麗な笑顔――




