第九十四話 再びゼイウン公国へ
セラム隊は一路ゼイウン公国を目指し草原を駆ける。
セラム自身は馬車の中である。安全地帯の内は体力を温存し、有効な策を練るのが大将の務めだ。ゼイウン公国領内に入るまではカルロに任せてある。
「にしても一番槍か、気が進まんなあ」
城での軍議のやり取りが思い出される。
――――。
「メルベルク砦には誰よりも早く入ってくれ」
そうガイウスはセラムとアドルフォに言った。
「もし一番槍が我が軍ならば今後マトゥシュカ家との関係は対等なものとする言質を取った。いや、その条件を引き出させられたというべきか」
マトゥシュカ家、いやリーンハルト銀翼公としては一番槍の栄誉や優位を手放してでも自軍の消耗を避けたいのだろう。子分扱いを改めてやるから先駆けをしろというわけである。
軍人としてはこの上無い条件だろう。手伝いいくさで勲章ものの戦功を上げる許可を貰った上に、今迄ずっと苦心してきた同盟の中での立場の向上を約束されたのだから。
しかしセラムとしては勲章よりも部下の命の方がよっぽど大事である。
「引き出させられた、というからには砦に一番に入って欲しいという思惑が見えたという事ですね?」
「そうじゃ。今のところ我が国はこれを蹴る立場にない。理由も無い。政治的に見れば破格の条件じゃ」
セラムは気分を落ち着ける為に細く長く息を吐いた。宰相殿は死ねと仰るか、そんな嫌味が喉の奥で湧き上がる。
分かっている。そうならない為の策を出せとガイウスは言っているのだ。無い知恵を絞ってみせねばならない。自分と自分を慕う部下二千名の命が懸かっているのだから。セラムは諦めたように嘆息してみせた。
「やるしかないのでしょうね」
「例えわざと遅れてみせてもゼイウン軍は我先にとは突入しないだろうし、此方の立場と戦況が悪くなるだけだろうな。グラーフ王国に勝てなければ何の意味も無い」
アドルフォが補足した通り、ここでゼイウン公国が勝たなければ短期決戦策は水泡に帰す。一度押され始めればノワール共和国も見切りをつけ戦況を戻す事は出来なくなるだろう。
「今回は我々が後手に回ってしまったようじゃ。いや、リーンハルト銀翼公が早すぎたと認めるべきか。銀翼の称号は錆びついておらんのう」
「分かりました。兵は拙速を貴ぶ、今からでも実践しましょう。僕はすぐにでも出発する事にします」
「お、おい、策は練らんでええのか? 準備は出来ておるのか?」
ガイウスの心配にアドルフォが無用と首を振る。ゼイウン公国に援軍に向かうという事態は予測していたのだ。その為の準備は整っている。
「準備の程は御心配なく、宰相。ここ数日セラムは即応出来るように進めておりました故」
「策は道中考えます。どの道じっくり探る時間も無いのなら当たってみないと手の内が読めない。間隙を与えず攻め込むという時に敵に時間を与えるのはよろしくありませんから」
――そう端的に言って歯噛みをしながら出陣したのが今の状況だ。
集めた情報から言って砦の備えは消耗している。ゲルスベルクに退いた兵達はホウセンを恐れているだろうという懸念があるが、仕掛けるタイミングとしては悪くない。ただ、ホウセンが無策で守ってくれるなどという夢想は持てない。先駆けを務めるのなら相応の策が必要だ。
「二、三手は考えたが……、あー、いつもながら不安だ」
「まあまあそんな顔しないで。あ、お茶でも飲みます? 落ち着きますよ」
そう答えたのはヴィレムである。ヴィレムとベルはセラムの馬車に同乗しているのだった。
「こんな揺れの中飲んだらめっちゃ零れます、例え水筒でも。というか、何で付いてきちゃったんです?」
「先の戦いではセラムさんは敵に一度捕まっています。そんな相手にセラムさんがもう一度挑もうというのに家で安穏としているのは未来の夫として耐え難く」
「私はもうセラム様のお傍を離れないと誓いました。それが例え戦場でも変わりはしません。その決意は以前申し上げた通りです」
何度引き留めてもこの調子である。この二人は思いの外頑固であるとセラムは強く実感した。
――まったく誰に似たのやら。
「それに僕が付いていく事は父上に対しての牽制にもなるかもしれませんし。少なくとも見捨てる事は出来なくなるでしょう。今回は次兄のヴィクトール兄さんも参戦するという事ですし、僕を可愛がってくれたヴィクトール兄さんなら、いえ、きっと一番上の兄上も僕を死なせまいと動いてくれる筈です」
ヴィレムが言う通りヴァイス王国軍が使い捨てにされるという危惧は解消される。居るだけでありがたい存在なのは確かなのだ。
「息子の僕が言うのもなんですが、父上は恐ろしい方です。他人を利用し陥れる事に躊躇いは無いでしょう。身内以外信用しない人なのです。だからこそ、今度は僕がセラムさんを守る事が出来る。男として冥利に尽きるというものでしょう?」
ヴィレムは初めて会った時の嘘の笑顔ではなく、少し照れたようにはにかんで見せた。それは女の子の前で見せる年相応の男の子の顔。
――ああ。
僕もそんな顔をしていた頃があった。
……それは悠遠なる記憶の果て。沙耶を守ると言ったあの時の僕。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ヴァイス王国とゼイウン公国を隔てる山脈を登り始め、セラムも馬車から降りて馬で山道を進んだ。フィリーネの先導の元険しい道を通る。
「うー、この季節、流石に山は寒い!」
身を縮めてぼやく。軽鎧の上に外套を着けているとはいえ、剥き出しの頭を守れていない。寒風が骨身に凍みる。
「そんなに寒いなら僕が編んだ首巻を巻いてくれれば良いのに」
「それだけは嫌なんだよっ。いや、今も持ってきてはいるけど、絶対に巻かないからね!」
「何でそんなに嫌がるんですか……」
セラムはヴィレムのもっともな意見に噛み付く。
今この腰の鞄に入っているマフラーは只のマフラーではない。婚約者の手編みの贈り物なのだ。それを使うという事は自分からこの婚約を受け入れたという意思表示に近い。
元々は男が恋愛対象になど成り得ないと思っていたし、こんな政略結婚なぞ誰が従うかと断る理由を探してもいた。だが最近は少し複雑な気分なのだ。依然納得はいっていないのだが、ヴィレムの事は憎からず想う気持ちが芽生えている。セラムはホモセクシャルではないので、元の体ならばそんな自分を受け入れ難いと思うだろう。
いや、受け入れ難くはあるのだ。だからこそマフラーを使わないのは最後の抵抗とも言える。
それだけではない。セラムには手編みのマフラーには特別な想い入れがある。どうしても沙耶を……いや、沙耶の想い出にしがみつく自分を思い出してしまう。忘れたくなくて巻きつけ、その匂いと温もりでぬるい感傷に浸っていたあの灰色の街を思い出す。
「とにかく今は、ごめん。いつか……もう少し気持ちの整理がついたら使うからさ」
「待ってますよ、いつまでも」
俯きながら答えるセラムをそれ以上問い詰めようとはせず、ヴィレムは前を向く。少し開けた山道は起伏が激しく曲がりくねっていてあまり人の手を加えた様子が無い。
「この道は地元民しか使わない道です。地理に明るい者でない限り知られていないような細道ですが、ここを使えばメルベルク砦の手前まで出られる筈です」
「そうか、何事も無く辿り着ければいいんだが」
セラムの不安を示すかのように空に雨雲が広がってゆく。ただでさえ少ない光が遮られ、濃墨色の雲が泣き出す。
「山の天気は変わりやすいが、これは堪らんな」
セラム隊はぬかるんだ山道をひた歩く。その先にどんな地獄が待っていようとも。




