第九十話 捨て駒
「参りました」
終わってみれば惨敗。
序盤はお互いあまり駒を取りにはいかず差は広がらなかった。これは持ち駒が使えないのと、詰まなかった場合残り駒数で勝敗が決まる為に捨て駒を惜しむからであろう。最終計算は単純な駒数なので歩の一枚すら無駄には出来ない。駒交換等もそうそう起こり得ないのだ。
そして中盤の一手で戦局は大きく動いた。王手に繋がる局面で地力の差が出た。そして成り駒が強力な戦棋においては一度流れを渡すと大きく勢いづく。
終盤では撤退戦、追撃戦の様相を呈していた。
「途中からは全く勝ち筋が見えませんでした」
「いやー悲観する事はないぞ。全くの初心者相手に詰めなかったのは初めてじゃわい」
これが実戦であれば、そう考えるととてもその褒め言葉を受け取る気にはなれない。
「どうじゃった、初めての戦棋は。楽しめたかの?」
やる前の実戦と思えという言葉さえなければ楽しめたのだろうが。真剣であった分「あそこでこう打っていれば、こう躱していれば」と反省点しかない。
「確かに実戦に近いかもしれません。勿論これに加え地形、編制、練度等様々な要因が加わりますが、限定的な戦術や状況判断の練習にはなるかも」
「実戦はもっと状況が読めんがな。嬢ちゃんも知っている通り」
顔を上げるとグリエルモが口端を歪めている。セラムに実戦経験がある事を知っていたのだ、この老人は。
幾らセラムが有名人だからといってもこんな田舎に住んでいてはそんな情報は全く届いて来ないだろう。正体を知られなければ軍人だと明かしても、こんな子供は戦場に立った事は無いだろうと思われるのが常だ。
(知っていたのですか?)
「食えない爺さんだ」
「嬢ちゃん、それ多分心の声と台詞が逆じゃろう?」
「おっと、溶け残った雪に僕の口も滑ってしまったようです」
「そんな巧くもないぞい。言っておくが予め知っていたわけじゃあないぞ。嬢ちゃんがエルゲントの小僧の娘というのも、軍体制が変わった事も初耳じゃ。それどころか今の将軍が誰かも知らん。そうじゃのうて戦棋で戦っておる内に気付いたんじゃ。途中、儂じゃない別の誰かを思い浮かべて戦っておったろう?」
その通りだった。セラムの仮想敵はグラーフ王国、そしてホウセンだった。
「すみません。グリエルモさんを目の前にして失礼でした」
「責めとるわけじゃあない。寧ろ軍人なら具体的な想定の元考えなくてはいかん。じゃが今のままでは嬢ちゃんの敵には勝てんぞ」
グリエルモの言葉にセラムの表情が沈む。そうではないかと思ってはいたのだ。なにせ相手は同じ現代知識を持つ日本人にして傭兵として戦場に立っていた男。その上今は魔法が使えてグラーフ王国の軍師的な立場にある。戦争に関してセラムの完全上位互換なのだ。
そのバックグラウンドも強大だ。グラーフ王国の国土はヴァイス王国の軽く十倍以上はあり、兵の質、量共にヴァイス王国を遥かに凌ぐ。
無論、それだけで勝敗が決まるわけではない。戦争には様々な要素があり、セラム自身にもホウセンには無い役に立つ現代知識だってあるだろう。
だが勝ち目が薄い事は誰の目にも明らかだった。だからこそこの老人を訪ねてきたのだ。何よりも将としてホウセンに勝つ為に。
「嬢ちゃんに足りないものが分かるかい?」
「……戦術の引き出しの無さでしょうか?」
「それもあるに越したことはない。というかそれを言ったら足りんもんばかりじゃ。嬢ちゃんにはな、何より殺意が足りん」
殺意、それはバッカスとの訓練の時にも彼に言われた事だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
バッカスと戦闘訓練を終えた後の事。
「いやあ見事ですタイショー、俺に両手を使わせるとは。最後の攻めは良かったっすよ」
「だが防がれてしまった」
剣を弾かせての短剣での本命、我ながら良いアイディアだと思ったのだがやはり届かなかった。いくら訓練で褒められても実戦ならばこの後斬られてしまう。
「俺とタイショーにどれだけの体格差と経験の差があると思ってんですか。これで一撃入れられたら俺が情けなくてしょうがねえですよ」
バッカスは茶化すようにフォローする。しかし尚も真剣な顔で考え込むセラムに対してバッカスも真剣な助言をすべきだと思い直し、言葉を続ける。
「そうっすね、強いて言うならもしあの一撃に殺意が乗っていたら俺の腹まで届いていたかもしれません」
「殺意?」
技術的でも身体的でも、ましてや精神論ですらないその助言に、セラムはいまいち理解が及ばないという顔をした。
「そう殺意。必ず殺すという信念を宿した一撃と言ってもいいかもしれねえ。それが無かったから二撃目の軌道や力の入り具合が甘くて掴む余地があった」
「だが訓練相手にそんな気持ちは入れられないだろう?」
「だから今は上々なんす。けどこれが実戦だったらタイショーに出来ますか? 人を殺す覚悟を乗せた一撃」
そう言われてしまうと自信が無い。何でもありの戦場で不殺を貫くならば余程の力量差が無いと無理だろう。セラムのように弱い者ならば尚更手加減は出来ない。
だからと言って個人的な恨みも無い者にそこまでの殺意を向ける事が出来るだろうか。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
バッカスとの訓練では悶々としながら終了したその問いを、今もう一度直面するに至った。
「殺意、ですか」
「そうじゃ、嬢ちゃんが儂の王を逃した理由がそこにある」
グリエルモは駒を並べつつ説明する。
「例えばこんな形。敵の手が此方の王に届きうるが、構わず全力で攻撃に出れば此方が死ぬよりも先に敵の王を殺る事が能う」
パチパチと駒を打つ盤の上では次々と味方が死んでいく。
「それではあまりに被害が大きすぎます。これはゲーム……遊戯だから良いですが、実戦では許容できる死者数ではありません」
「戦略的に考えるのが上のモンの仕事、当然全ての戦場に当てはまるもんじゃあない。だが戦略に違えてようと、戦術的に間違ってようと、人道から外れてようとここで殺しておかなければいかん相手というもんがいるやもしれん」
盤の上では残る少数の兵が敵の王を討ち取る。
「将は出した命の責を取る。嬢ちゃんは部下に『今この勝利の為に死ね』と命令できるか?」
セラムは苦悩した。
沙耶を守る。愛してくれる人を守る。周りの人を守る。部下を守る……。
約束という呪いの連鎖から逃れられないセラムには重すぎる。他人に死ねと命令するなど到底許容できない責務だ。
自分の命一つで事が済むのなら喜んで差し出そう。自分の周りの人が死ぬくらいならこんな命など屑籠に投げ捨てる紙よりも軽い。それを、よりによって自分の代わりに部下の命を投げ出せとこの口が言うのか?
捨て駒。
将棋において重要な局面を制す為にわざと敵に取らせる戦法。それを置く手になるよりも自らが捨て駒となった方がどんなに楽な事か。
「嬢ちゃんは今迄ずうっと部下を死なせない為の努力をしてきたんじゃろう。じゃがそれだけでは良将止まり。修羅になる覚悟が無ければ戦争には勝ち残れんよ」
グリエルモは冷たく言い放った。このような突き放される物言いをされたのはこの世界に来てからは初めての事だった。
その言葉はセラムの心に刺さる抜けない棘となる。
「……今日はここまでにしようか。嬢ちゃん達、この辺で帰るがええ。戦棋の相手ならいつでもしたるからのう。召集には応じられんが」
セラムは覚束無い足取りで玄関に向かう。扉の前まで来た時漸く心配そうなベルに気付き、セラムは精一杯の虚勢を張った。
「グリエルモさん、色よい返事が貰えるまで何度も足を運ぶ事にします。やはり貴方は僕に必要なお人だ」
眉間に皺を寄せたままのセラムを見てベルは思う。
(確かにあの老人は軍に必要な人材かもしれない。けれどセラム様にとっては良い影響を与えると言えるかどうか……)
その考えが主の意に背くものであると思い至りベルはかぶりを振った。




