第八十八話 グリエルモ・ノヴィエロ
「着きました」
御者の言葉に姿勢を改める。
村を徒に刺激しないようにと村の外に留められた馬車からでも、百も歩数を数えれば目的の家まで辿り着いた。それでも道中の村人の視線が痛い。物珍しいというより厄介事を運んできやしないかという厳しい視線であるように思えた。
中央通りを真っ直ぐ見やれば出口から逆端の出口が見渡せる、そんな小さな村だ。いくら配慮しても余所者は目立ってしまう。
「なあベル、せめてメイド服は何とかならんかったか?」
「なりませんでしたね。これは私の尊厳そのものですから」
「ソウデスカ」
そう言うしかない。過ぎた事は仕方ない。そもそも今回の目的を果たせば望む望まぬに関わらずこの家に住む老人の穏やかな生活を破壊してしまうだろう。話す前から印象を悪くしたくはないが、どんな配慮も結果的には無意味である。
セラムは木製の扉を二回、二回と叩き、中にいるであろう人物に対し丁寧に話し掛ける。
「こんにちは、グリエルモ・ノヴィエロさんのお宅で間違いないでしょうか」
暫くすると木が軋む音がしてゆっくりと扉が開いた。中から現れたのは左程背が高くない、しかし背筋が伸び年齢の割に動きに力強さがある老人だった。
「どなたかな?」
「はじめまして、僕はセラム・ジオーネと申します。ヴァイス王国の軍人です。こちらはメイドのベルです」
「ベル・レンブラントと申します」
セラムの言葉にグリエルモの片眉が一瞬上がる。
「その軍人さんがこんな田舎の老人に何の用かね?」
「実はグリエルモさんにお願いがあって参りました。あ、こちら王都の菓子です。つまらないものですがよろしければどうぞ」
「あ、ああ、ありがとう」
張り付けた笑みと日本での処世術は会話の機先を制する事に役立ってくれた。一度握った主導権を相手に渡さぬように畳み掛ける。
「ところで一度中に入らせていただいても? あまり注目されるのは苦手でして。あ、お近づきの印にこちらもどうぞ。馴染みの酒蔵で造っている蜂蜜酒です」
「お、おう」
若い女性二人、しかも片方は子供というのが有利に働いたのだろう。訪問販売や宗教の勧誘に耐性が無いこの世界の住人の心の隙を突いてぐいぐいと家の中まで入り込む事に成功する。
ぱたりと扉を閉めた後、丁寧にお辞儀をして話し始める。
「改めまして、ヴァイス王国軍少将を務めさせて頂いております。セラムとお呼び下さい、グリエルモさん。それとも元ヴァイス王国軍百人長とお呼びした方が良いですか?」
「……そこまで調べてここに来るという事はあまり愉快な話じゃあなさそうじゃ」
「お願いと言いました。一方的に事を進めるつもりはありません。グリエルモさんにも相応の対価を用意させて頂きます。もっとも貴方がそれに魅力を感じるかどうかは別でしょうが。何にしても玄関先で話すような内容ではないので、家に入れてもらえて助かりました」
「それで?」
グリエルモは手に持った菓子折りを胡散臭げに覗き込みながら話を促す。
「単刀直入に申し上げます。どうか僕に力を貸して頂きたいのです」
「それは軍に戻れという事かな?」
セラムが小さい頭を縦に振る。
「おいおい冗談じゃろう? 儂ゃ退役した只のジジイじゃ。ここで余生を過ごすと決めとる。第一こんなジジイ、軍に戻っても何の役にも立たんじゃろ」
「僕は父が亡くなってから父の足跡を調べてきました」
冗談にしても質が悪い、と手を振るグリエルモにセラムは真剣な目で追いすがる。
「父は若い頃は目立った戦果も無くいくつかの部隊を渡り歩いています。軍規を守らない問題児だったという証言もあります。それが貴方の部隊に配属された後に活躍を始め、以後殆どの戦いで勝利しています。僕はそれが貴方のお陰であると推察しています」
「んん? そうか、ジオーネ……。あんたエルゲントの小僧の娘か」
グリエルモは漸く合点がいったと手を鳴らす。
「そうかそうか、あいつに子供が生まれたとは聞いておったが、こんな可愛らしい嬢ちゃんとは。しかしな嬢ちゃん、儂ゃ別にあやつになーんもしとらん。あやつが将軍にまで上り詰めたのはあやつ自身の努力によるものじゃ。しかも儂なんぞ只の百人長じゃぞ?」
「確かに百人長になってからの貴方にはあまり目立った戦果は無い。しかし敗戦の中でも貴方の隊は安定して損害が少ない。そして後に出世する多くの人が貴方の隊の出身だ。これは……」
「買いかぶりじゃよ。只の偶然じゃ。幾らなんでもこんな年寄りを現場復帰させる程人材不足じゃああるまいに」
「……実のところ先の敗戦で父をはじめ多くの者が亡くなり軍体制を一新しました。結果有能な佐官が足りないのが現状です。昔で言う筆頭百人長や千人長のあたりですね。こればかりは数がいれば良いというものではありませんから」
セラムは腰を九十度近く曲げ頭を下げる。ベルもまたそれに倣う。
「そこでお願いです。どうか教導官として指導に当たって欲しいのです。少佐の位を用意しております。当然給与も相応です。どうか!」
「きゃっ」
不意にベルが悲鳴を上げたので顔だけそちらに向けると、グリエルモがベルの尻を揉んでいた。ベルの手に叩かれる前にさっと手を除けたグリエルモが飄々と回答する。
「うむ、真摯なケツじゃ。こっちの姉ちゃんはええ体しとるのう。……しかしそんな事言っても儂ゃもうそんなに金もいらんし、確かに嬢ちゃんが言った通りあまり魅力的な話じゃあないのう。今更軍で働きとうないわい」
「そこを何とか! 望みがあれば先程提示した条件とは別に可能な限り叶えます。なんだったら教導官でなくとも、僕個人の師として協力して頂くだけでもいい。僕には僕の上から叱ってくれるような知恵者が必要なのです」
その言葉が意外なものだったのか、グリエルモは少し驚いた顔で「ふむ」と息を吐き、部屋をくるりと半周歩く。
そしておもむろにセラムの尻を揉んだ。
「こんのっ……! 私だけならともかくセラム様に不埒な真似をするなんて……」
「よせベル!」
セラムは微動だにせずグリエルモの言葉を待つ。主人の語気にベルもしぶしぶ姿勢を戻す。
「嬢ちゃんは小振りながら素直ないいケツをしておる。しかし他のところはまだまだ発育不足じゃのう」
そう言って手をわきわきと動かしながら、グリエルモは棚から何やら将棋盤のような物と小さい壺を取り出し、机に手招きする。
「嬢ちゃん、一局付き合ってくれんか。こんな田舎では打てるもんはおらんでな。昔はよくエルゲントの小僧とやりあったもんじゃ」
セラムが机まで歩くとグリエルモは壺をひっくり返し、中に入っていた駒を山にする。
「これは?」
「知らんか? 戦棋という。規定がちょいと複雑じゃが覚えられるかの?」
「やってみましょう」
セラムはグリエルモから戦棋についての説明を受ける。
聞けば聞くほど将棋に似ていた。盤のマスや基本的な駒の種類と動かし方は将棋と同じ。ルールに違いがあるが全く別のゲームというよりは変則将棋のようであった。
相違点として、まず駒の名称が違う。
歩は歩兵、だが駒の字は兵が省略されているので将棋と全く一緒だ。香車は槍、桂馬は騎馬、銀将は近衛、金将は将軍、飛車は戦車、角は竜騎、王将は王と呼称する。
ルールの大きな違いは六つ。
一つ、駒が方向転換出来る。これにより前進しか出来ない駒は事実上無くなる。しかし方向転換に一手消費する。余程の事がない限り意味の無いルールなのだが、次のルールで重要になる。
二つ、成りの仕様が違う。成る条件は敵陣にまで進むのではなく、相手の駒を落とした駒が成る事が出来る。そして成った駒は一手使わず自在に方向転換出来るようになる。また、それにより恩恵がない戦車と竜騎は代わりに王と同じ動きが出来るようになる。ただし王は成る事が出来ない。細かい点だが将棋とは違い成る事によるデメリットは全く無い。また、成った駒は裏返すと階級章が付いており、熟練某と呼称するようになる。
三つ、一番の大きな違いが最初の配置だ。これは自陣、つまり手前三列に限り自由に駒を配置出来る。先ずは先手が配置し、次に後手が配置する。
四つ、当然不利になる先手の救済措置として、最初の二手に限り先手は二回行動出来る。行動順としては先手、先手、後手、先手、先手と動き後は交代に一回ずつ動く。
五つ、持ち駒という制度が無い。落とした駒は使う事が出来ず、復活する事は無い。
六つ、ゲームは王を詰むか百手打ったらその時点で終了し、残りの駒数によって勝敗が決まる。
「理解しました」
セラムは将棋を多少指した事があるので、一通り説明を受けただけでゲーム可能だと判断した。将棋が強いわけではないが、別に強者を求めているわけではないだろうから構わないだろうという思いである。
「今ので覚えたのかね?」
「ええ、多分大丈夫です」
「驚いた。エルゲントの小僧も物覚えが良かったが、嬢ちゃんはそれ以上じゃな」
駒の動かし方を予め知っていたからに過ぎないが、説明しづらいので賞賛を受け取っておく。傍らで何故かベルが自慢げにしている。「どうです? これが我が主人ですよ!」と言わんばかりに鼻高々だ。
「さて、先手後手どちらにするね?」
セラムは少し悩んで後手を選んだ。いくら二回余分に行動出来るといっても相手の配置を見てから配置出来るというアドバンテージには及ばない気がした。まだゲームに慣れていないので相手の出方を見たいという考えもある。
「では」
グリエルモは迷いなく駒を並べていく。整然と並べられた将棋の一手目とは違い一見まるで出鱈目で、相手の思考を読むのが難しい。所謂「定跡」というものを確立しにくいと感じた。
「最初に言っておくが、この戦棋というものは模擬戦の代わりに創り出された思考遊戯でな。言ってみればこれは模擬戦と同様、つまり何が言いたいかは分かるな?」
グリエルモは駒を並べている最中にそう切り出した。今迄の気さくな雰囲気が一瞬引っ込み眼光が鋭くなる。軍人の顔になっていた。
軍人にとっての模擬戦、後に続く言葉は一つしかない。
「これを実戦と思え」




