第八十七話 冬に溶ける雪
セラムはベルを伴って馬車でとある村に向かっていた。
窓の外を見れば茶や灰の枝木を銀白が覆い、清浄な空気の静けさが肺を洗い流してくれる。この世界でも冬の神聖さは同じなんだなと実感する。
雪が残る自然の景色は幻想的ですらある。心なしか静かな車輪の音だけが人が生きる証を刻む。
「この音にも慣れたな。最初は五月蠅いと思ったもんだが……。あっベル、あそこに青い鳥が止まってるよ」
「セラム様」
何気ない会話を楽しむつもりだったが、ベルは目を瞑り窘めるような口調で断ち切る。何か責められる様な事をしただろうか、セラムは思い返してみるが心当たりは無い。
「元日にルチアの仕立てたドレスを着たそうですね」
一瞬誰の事かと思ったが、ルチアとは四か月程前に雇った新人メイドだ。あの時に着たドレスは彼女の作だったのかとそこで初めて知る。策とか裂くと言った方が相応しい気もする。
それが何だろうとセラムがベルに意識を戻すと、ベルは手で口を隠し大粒の涙を頬に伝わせた。
「何故に、何故に私共に嘘を吐いて一人で着たのですかっ。私の居ないところでえうえうえっ」
目の前で泣き崩れる女性というのは途轍もない破壊力がある。セラムは戦場でもそう無い程焦って言い訳を探す。
「いや、あの時は急に休みが取れて……ほんとに仕事だったんだよ! 嘘じゃなくてね……」
「その場に私が居れば半裸のセラム様を思うさま堪能できましたのに……」
「そこ!?」
ベルの愛がおかしい。
「っていうか何でそこまで知ってるのさ」
「プリシッラが偶然見ておりました」
プリシッラはメイド隊の一人で、諜報部門の統括をしているメイドだ。少々おしゃべりなきらいがあるが漏らしてはいけない情報は弁えている。だがどうやら今回の件は彼女の中で漏らして良い情報にカテゴライズされたらしい。
「帰ったらあの金髪の上に林檎を乗せてナイフ投げの的にしてやる」
「彼女ならゼイウン方面を調べてくると言って昨晩館を出ました」
「ちっ逃げられたか」
確かに今一番欲しい情報ではあるのだが。なまじ有能なだけに言い訳にならないギリギリのラインを突いてくる。
「まあこの埋め合わせは『セラム様お着替えショー一位から十位まで決めるまで返しまセン』をやるという事で良しとして」
「よかない」
何でテレビ番組チックなんだよ、と心の中でツッコむ。
「ヴィレム様とはどうするおつもりですか?」
唐突な質問の変わり様に不意を突かれる。
なぜどうしてそうか見ていたというより尾行してやがったのかと考えが頭を駆け巡り景色を歪ませる。
「どどどどうすると言いますとっ!? あたくしは別にどうもこうも!」
「セラム様、口調がブレています」
セラムは一つ咳払いをし気持ちを落ち着けると、膝に肘を乗せ組んだ手を頭に押し付けて考えてみる。
彼の事をどう思っているか。
セラムは纏まらないままの考えを言葉にしてゆく。
「彼はいい奴だ。それは間違いない。どうすると言っても政略結婚の類だ。結果は僕にはどうにも出来ない。けれどベルが言ってるのはそういう事じゃないんだろう? 僕が彼をどう思っているか、どうなりたいか」
ベルが頷く。
「人間的には好ましい人物だと思う。ただこれが恋愛感情かと言われると……。そもそも僕に恋愛感情が芽生えるのか疑問なんだが」
恋した人は沙耶唯一人。彼女を喪って以来自分には恋だの愛だのといった感情はもう持てないのだと、そう思っていた。それ程までに鮮烈に恋し、深厚に愛した。あれから何人かと付き合いはしたが恋愛をしているとは思えなかった。
「……多分これは恋じゃないんだろう。ただ彼の事は憎からず思っている。……いや、正直に言おう。彼に愛されて満ち足りた気分になる自分がいる。こういう生き方もいい、そう思う自分がいるんだ」
そして同時に罪悪感に苛まれる。沙耶を守ると誓いながらいつの間にか距離を離し、挙句の果てに約束を果たす事が出来なくなった男に、人に愛される資格があるのかと。
沙耶は事故死だった。だがそれは死に別れと言えるような気持ちの良いものではなかった。
最後の会話は電話越しの今度会うと言った時の自分の気の無い返事と、「約束ね」と言った沙耶の嬉しそうな声。思い出す度心に黒く澱んだものが溜まるばかりだ。
沙耶は自分が殺したようなものだといつも思う。何故僕はあの時もっと沙耶に寄り添ってやらなかったんだろうと何度となく悔いる。
だから僕には愛される資格なんて無い。
けれど本当にそうなんだろうか、最近セラムは考えるようになっていた。本当は愛される資格なんて無いと思いたいだけなんじゃないか、自分を罰して今は亡き沙耶に、いや、自分に許しを乞うているだけじゃないんだろうかと。
セラムの表情に何かを察したのだろうか、ベルが目を伏せ優しい声音で語りかける。
「複雑な想いのようですね。正直私としては純粋に賛成し難いのが本音ではあります。ですがセラム様はもっと単純に幸せを求めても良いと思います。そしてセラム様には幸せになって欲しい、これが私の純然たる願いです」
許された気が、した。
ただただ自分の幸せを願ってくれる人、ベルの顔が沙耶と重なって見えた。
馬車の中で少女の歔欷が冬の空気を震わす。
少女の心に一足早い雪解けが訪れたのだった。
「……村が見えてきましたね」
静かにしていたベルが言葉を掛ける。目的地が近い。
セラムは流れ出た雫を袖で拭い顔を上げる。心のつっかえが取れてすっきりとした顔を一瞬見せたが、すぐに頭を切り替え平静になる。
本当の意味で幸せを掴むのは平和になってからで良い。今は周りの皆を守り戦争を終結させる事だけを考えるべきだ。
「本当にこんな所に住んでいらっしゃるのでしょうか」
「自分達で集めた情報だろう、そこはベルが言うなよ。何にせよ僕には必要な人物なんだ。田舎で隠遁してようが、何とか知恵を貸してもらおう」
長閑なだけが取り柄の村が広がっている。人口にして三十人程の小さな村、そこに住むある老人が今回の目的だ。父の事を調べている内に辿り着いた人物である。その老人ならば今のセラムに足りないものを補ってくれる筈だとセラムは期待している。
ただしどんな人物かは会ってみないと分からない。少なくとも、こうして静居しているところに軍関係者が訪れるのだから、歓迎されるとは思えない。
セラムは少し緊張を感じながら馬車の停止を待った。




