第八十六話 彼の者獅子身中の虫となるや
ヴィレムは一人きりの部屋で机に向かいペンを紙に走らせていた。その顔はいつもの柔和な笑顔ではなく真剣で、どこか辛そうでもあった。
『ヴァイス王国の文化、そして技術の中心はやはりこのジオーネ領です。それらはセラムさんが領主の座に就いてから急速に発展したものです。また、王城内での発言力も最近更に増しており、彼女がいる限りヴァイス王国との友誼はゼイウン公国にとって必ず利をもたらすものであると――』
それはヴァイス王国の内情を記した、父リーンハルト銀翼公に向けた手紙だった。ヴィレムは定期的にこのような手紙をマトゥシュカ家に送っている。それこそが彼がこの国に遣わされたもう一つの目的だった。
ヴィレムはふとペンを置き誰もいない空間に向かって声を掛ける。
「居るのでしょう、ベルさん。どうぞこちらに来てください」
何も変化は無い。少しの間そのまま待っていたが、独り言となってしまったのを気にするでもなくもう一度ペンを持つ。
その直後扉をノックされて再びペンを置き、手紙を隠す事も無く返事をする。
「どうぞ」
扉から姿を現したのはやはりベルだった。いつもの冷静な顔のまま一礼し部屋の中に入る。一瞬手紙に視線を向け、ヴィレムの目を見て切り出した。
「何故私に気付いたのですか?」
「買いかぶらないで下さい、当てずっぽうですよ。もしかしたらどこかから見ているのかなあ、と思った時に大きな独り言を言ってみたまでです」
「名指しだったのは?」
「いやだなあ、意地の悪い」
はっはっはと笑ってみせるヴィレム。真意の読めない張り付いた笑いだとベルは思った。
「それで、要件はこのお手紙で?」
「……実家に宛てたその手紙、もし内容が不穏な物ならばセラム様に報告して今後検閲も検討しなければなりません」
「今迄何度も覗き見てるでしょうに、さっきのようにね。それでも僕は捕まっていない」
天井裏に、壁に開けた覗き穴にこの男は気付いていたのだろうか。大胆不敵なその態度は主人を守る刃たるメイド長を苛立たせる。
ベルは抑えるべき感情を呼気に乗せた。気持ちを切り替えていつもの礼節を弁えた態度を崩さないように続ける。
「貴方がセラム様に間接的にでも危害を加えるのならばそうもします。陰には私共がいるということをお忘れなく」
眼の奥の殺気を覆い隠すような胡乱な瞳。暗殺者の眼だった。その気になればいつでも殺す。主人の迷惑にならないような殺し方が出来る集団がいるのだと脅しているのだ。
ヴィレムの肘を掛けた机が小刻みに揺れた。抑えられない震えを自覚しつつ、それでも怯まずヴィレムが口を開いた。
「セラムさんには報告していないのですね。意外でした。セラムさんはとっくにご存じなのかと」
「あの方を見くびらない方が良いですよ。私共が言わずとも定期的にマトゥシュカ家への報告を行っている事くらいセラム様はお見通しでしょう。ただ……」
昏かったベルの眼が潤み、愛しの主人を慈しむように自身の体を抱く。
「その中身を詮索したりはしないでしょう。そういう方なのです。一度信用すると決めた人は最後まで信じぬく。それで例え騙され自分が痛い目に遭っても本望だと」
複雑なのだろう。そんな主人だからこそ愛おしいが、少しは自愛してほしい。そんな危なっかしい主人だからこそ仕え甲斐があるのだが、主人が傷つくのを見たくはない。ベルの伏せた目からはそんな心情が読み取れた。
「分かります」
「何が分かるもんですか!」
貴方如きに、という言葉はかろうじて飲み込んだ。
「分かりますとも。貴女が彼女に惹かれたように、僕も彼女に惹かれている。そんな純粋さに、どうしようもなく惹かれている。だからこそ!」
矢庭に立ち上がり腕を振り、宣誓するように右手を胸に、左手を手紙に向け言葉に力を込める。
「どうか信じていただきたい! 僕がセラムさんに危害を加える意思が無い事を。この手紙はマトゥシュカ家とジオーネ家の友好の懸け橋になるという事を」
「しかし貴方にも立場や職分がおありでしょう。もしマトゥシュカ家からの命がその約束を違えるものであった場合は?」
「双方にとって一番良い道を探します」
「納得できません。もしマトゥシュカ家がジオーネ家と対立する道を選んだ時は?」
「そうさせない為の僕です」
強い言葉だった。恐らくベルにとってはこの時が初めてだろう、このお坊ちゃんに確かな意志の強さを感じたのは。
最初はただ胡散臭い男だと思った。生家であるヤルナッハ家を滅ぼしたマトゥシュカ家の人間という先入観もあっただろうが、この男の笑顔はどことなく信用できないと感じた。何かを誤魔化す薄い作り笑いだと直感した。
それがどうだろう、今はこんなにも真っ直ぐな目で自分を見てくる。殺される位恨まれていてもおかしくない相手に信じろと。
以前の作り笑いでこんな言葉を発していたなら鼻で笑っていただろう。こんな男はセラム様には似つかわしくないと、あらゆる手段を使ってでも婚約を破棄させていたかもしれない。だが、今ベルはこの男を信じても良いかもと思い始めている。同じ人を、小さくも愛おしい我が主人を愛する同士として。
ベルはくるりと後ろを向いた。客人に背を向けるなどと、メイドにあるまじき礼を失した行為だと自覚しながらも、今の顔を見られたくはなかった。
「用を思い出しました。すみませんがこれで失礼致します」
「ベルさん!」
呼び止める言葉に振り返る事も出来ず、明確な返答は避けた。
「明日は晴れでしょうか。この分なら手紙が濡れる事もないでしょう」
その言葉に頭を下げる気配を感じながら、ベルは後ろ手で扉を閉めた。




