第八十五話 戦場を支配するもの
メルベルク砦の防壁は強固で、簡単には乗り越えられないものだった。高さは五メートルもない程だがすぐに坂になっており、実際の高さはその倍にも感じられる。攻め手からすれば急な上り坂を駆け上がらなければならない為、破城鎚は効果が薄く梯子も掛けづらい。開き戸ではない門扉の構造上押し引きの力に強く、門扉自体も木と鉄を組み合わせた頑丈な素材で作られた物だった。
正面から崩すのは難しく、疲弊した兵では制圧は絶望的とすら思えた。が、それも過去の事。今や門扉は開け放たれ、夜の帳が下ろされた広間には兵の気配が無い。完全な奇襲が成功したのだ。
「突入! 本丸まで一気に駆けよ!」
先駆けが防壁の内側の階段を駆け上り、防壁上の見張りを根切りにする。同時に直線的に走って本丸を目指した兵の姿が悲鳴と共に消えた。
「落とし穴か!?」
「いや、違う! これは……」
穴と言えば穴だった。それは通路のような堀になっており、底に水が張ってある。いや、連日の雨で水が溜まっているだけかもしれない。まるで畑の畝のように地面が掘られており、広場はまるで迷路のような造りになっていた。
「落ち着け! よく見れば底はそれほどの深さはない! 落ち着いて前進せよ! 嵌った者は無理に上がろうとするな! 上を行く者の邪魔になる!」
エーベルが門の傍で指示を飛ばす。奇襲は迅速な行動こそが大事。今はとにかく兵を速やかに前進させる事が肝要だ。
そんなエーベルを嘲笑うかのように頭上から星の光を遮る程の矢が降り注いだ。
先程まで静謐だった空間に悲鳴がこだまする。
「はあーはっはぁ! 楽しんで頂けているかねこの迷路は。んーン? ゼイウンの諸君」
「ホウセン・クダン……!」
聞き覚えの無い声ではあった。しかし今迄の敵の攻め方と、底意地が悪そうな声がイメージと合致して、声の主が誰かすぐに知れた。
「見事この障害を乗り越えてこの本丸まで来られたなら俺自らがお相手しよう!」
まるでゲームを楽しむようなホウセンの声が広場に響く。これが挑発だとしたら、それはとても効果的な煽り文句だ。
「ふざけやがって……。門は確保してある! 全員、盾を掲げつつ前進! 防壁の上からも進み奴の首を取れ!」
広間の大きさは学校のグラウンド位だろうか。多く見積もっても一キロは無い。その数百メートルが遠い。メルベルク砦の防衛部隊は高所からの曲射によって面で制圧してくる。その痛烈な雨を盾で凌ぎながらの進軍。しかも足元が見えないような漆黒の中うねった道から踏み外さないように歩く必要がある。例え落ちても死ぬ程ではない高さと言えど、一度落ちれば脱落と同義である。エーベルが言ったように進軍中の味方が犇めき、上がる事が出来ないのだ。頭上と足元を同時に気を配りながらの進軍は必然速度が著しく落ちる。
片や防壁上を伝って行く兵も道半ばで足止めを食らう。西側はそのまま切り立った崖に繋がっており、それ以上進む事が出来ない。東側は中程にある門の所で二メートル程の高所が設けられており、陣取った防衛部隊によってそれ以上進む事を許されずにいた。普段は梯子が掛けてあるのだが、この策に合わせて当然南側だけ外されている。結局途中で防壁を下り、同じように死の迷宮を歩くしかなかった。
「恐れるな! 進めい! 我らの刃は必ず敵の首に届く!」
例え堀に落ちても死ぬわけではない。精々が背の高さ程度なので、怪我すらしない移動障害でしかない。堀を進んでいけば多少は前進する事が出来るので、ゼイウン公国の兵は少しずつ落ちる事を恐れず前進するようになっていった。
だがここぞとばかりに乱れ打つ矢に倒れる者は多く、戦場は過酷さを増してゆく。少しずつ、少しずつゼイウンの波が押し始め、グラーフの雨が前方の兵に集中し始める。
「俺も行く! 皆、進めい!」
エーベルが進軍に混じり兵を鼓舞する。率先して前線で指揮する古い考えの将、しかし一兵卒と共に戦場を駆けるからこそ兵の信頼は厚い。その姿に弥が上にも士気が上がり、将が隘路を駆ける事により否が応でも前進しなければならない。勝負所と見たエーベルの覚悟が前列を押し上げた。
そんな時だった。篠突く雨のような矢を避けた為か、猛然と進む味方に押されてか、堀に落ちた兵士の一人が底に溜まった水の違和感に気付いた。
どろりとしている。
下の方は確かに水だったと思う。しかし今この体を纏うモノは……。
「油だ! 堀に油が張ってある!」
その声に、エーベルは取り返しようのない失策に気付いた。進むは地獄、さりとて戻る事能わず。最早この流れは逆流する事は無い。
「落とせ!」
ホウセンの声が、肉声ではあり得ない音量で砦に響き渡る。マイク代わりに操術で音波を増幅させたものだった。
その命令の意味を、門を守るゼイウン公国兵は気付けなかった。その意味を知ったのは門扉が地面に落ちた後だった。一面壁だと思っていた所に隠し部屋があったのだ。外からは容易に分からないようカムフラージュされた隠し部屋に待機していたグラーフ王国兵が、合図と共に門扉を持ち上げていた縄を切ったのだ。
重厚な門扉が尚も押し入らんとしていた兵を潰し外界と隔離する。縄を切った兵はいつの間にか姿を消していた。
「着火」
さっきとは打って変わって小さな、そして冷徹な声が、後方からの轟音の後でひと時静かになったゼイウン公国兵の耳に届いた。
何百、何千という火矢が流星の如く降り注いだ。紅蓮の炎が辺りを包み、雄叫びは一瞬にして悲鳴に変わった。
門近くの堀と本丸近くの堀には確かに水が張ってあった。しかしそれ以外の堀には油が混じっていた。水の上を奔る様に炎が広がってゆく。それらは、存分に突き立った矢を巻き込み戦場を紅く支配してゆく。
「操術師部隊、炎と風を操れ」
ホウセンの合図で操術師部隊が本丸上に姿を現す。その能力で炎を腕のように操り、戦場に紅を満遍なく行き渡らせる。
それだけではなかった。風が渦巻き状に吹き込むと、火炎が旋風と共に巻き上がり人間の命を悉く捻じ切る。
「東京大空襲の時はこんな火災旋風が起こったらしいなぁ。確かにこれはどうにも出来んな。巻き込まれたら最後だわ」
それはまさに人間界に開いた地獄の窯。炎に巻かれた兵が水を求め油堀に飛び込み、前後不覚になった兵が同士討ちを始める。恐怖に駆られ逆行する兵が続出し、あちらこちらで落とし落とされ、火炎旋風によって宙を舞った。
ホウセンは五メートル程の高さを飛び降り、五点着地で自身が創り出した阿鼻叫喚の地獄絵図に降り立つ。
「ホウセン殿、危険です!」
「そうは言ってもよぉ、ここまで来たら俺自ら相手するって言っちゃったしなぁ」
とは言っても生きてる奴いるのかぁ? これ。とホウセンがぼやく。何せ炎で奥が見えず、人間だったものが上から降ってくる虐殺場と化している。本丸まで辿り着ける者がいるとは思えなかった。
しかし。
「ホウセン・クダンンンンッ!」
炎の渦の中を突破してくる影がある。
エーベルであった。体の半分を炭化させて尚その足が減速する事は無い。
「おおぅ、こいつは予想以上」
ホウセンの口角が上がる。魔力が背後の堀から水を巻き上げ魔方陣のような形を描く。
「オオオオオオッ!」
鋭い突きがホウセンを襲う。それを身を捻り手でいなしながら水の魔方陣の前方に誘導する。
「だが想定内だ」
魔方陣から放たれた何発もの水弾がその体を貫く。ゆっくりと倒れ込むエーベルを見届けホウセンが構えを解かぬまま言う。
「欲しがってた水だぜ」
「ホウセン殿! 怪我はありませぬか!?」
部下の声にひらひらと右手を振る。
「軽い火傷程度だ、問題ない。あとは均せ」
だから戦場は面白い、とホウセンは吹き出る冷や汗を悟られぬように拭った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
砦内から火炎旋風が立ち昇った時、ドミニクは敗北を悟った。折り悪く遊撃隊の突撃が始まったと報告を受ける。
「我が隊は混乱し、潰走を始めています!」
「部隊をまとめ上げ後退せよ!」
混沌の中ドミニクの指示が飛ぶ。そこにイングベルトが息を切らせながら合流した。
「もうすぐここにも敵が来ます! ここは我らに任せてドミニク殿は早くお逃げを!」
「何を言うか。将たるものここで踏ん張らねば」
「貴方のような将こそ生きねばならないのです。この命を懸けても良い、そう思ったのです」
「イングベルト殿……」
ドミニクが言葉を詰まらせる。流れる涙を拭わずに震える声を絞り出す。
「やはり貴殿のような若い者があたら命を投げ出す事はない。ここは……」
「聞く耳は持ちませんぞ。皆、頼む」
「はっ。こちらへ」
半ば引きずるようにしてイングベルトの部下達がドミニクを連れ出し馬に乗せる。
「っぐう、イングベルト殿! 必ず生きて……っ……!」
馬の尻を叩き強引に走らせた為に最後の方はよく聞き取れなかった。だがその意は分かる。それを受けてイングベルトは、悲しそうに表情を変えた。
「ええ、私は生きますよ」
それは怒りとも悲しみともつかない、複雑な感情の吐露だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ドミニクとイングベルトの部下は誰も通らない森へ分け入っていく。これ以上は馬では難しいという場所まで進んだところで初めてその足を止めた。
「これ以上どう進む? おい、お前達、道は分かっているか?」
ドミニクの質問に誰一人答えず、兵が目配せを始める。
「おい、大丈夫かと聞いている」
「そろそろいいか」
「なに? ……っ」
返答の代わりに返ってきたのはボウガンの矢だった。喉を貫通したそれを味方が撃った物だと認識するのにかなりの時間を要した。
「……お……ま」
喉から漏れる空気で必死に疑問を投げかけようとするドミニクにある種の答えを返したのは、霞む視界の奥から馬に乗って現れたイングベルトだった。
「っな……ぜ」
「あなた方がいけないのですよ。負けてしまったから」
イングベルトは馬を下り部下から装填済みのボウガンを受け取る。
「しかもあの負け方はよろしくない。あれでは私の隠密が敵の罠を見抜けずむざむざと計略にかかってしまった、戦犯はマトゥシュカ家だと言われかねない」
身体が酸素を求め呼吸が荒くなるドミニクに近寄り、その頭にボウガンを突きつけるイングベルト。
「苦しいでしょう。私自ら貴方を殺す事がせめてもの贖罪です。先程言った言葉、嘘ではありません。貴方は命を懸ける価値のある将だと、生き残るのは貴方のような人であるべきだと今でも思っています」
イングベルトが引き金を引いた。頭を地面に縫い付けられたドミニクは一度大きく全身を震わせ、そして動かなくなった。
頭蓋を貫く音が生々しく耳に残る。
「……あなた方の兵はありがたく使わせていただきます。それでは、さようなら」
イングベルトとその部下は未だ混乱の渦中にある戦場に戻っていった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
戦いは終わった。
戦果は数千のゼイウン公国兵の死体とゼイウン公国兵に植え付けた恐怖。グラーフ王国兵の実戦経験、そしてホウセンの名声。
対価は大量の矢と油、少々の資材、そして百数十の兵の命と貴重な二名の操術師。……いや、どうやら一名で済んだようだ。
「よう、帰ってきたな。あと一人は死んじまったようだが」
荒い呼吸を整えつつ合流したその操術師をホウセンが労う。
「おいおい睨むなよ、こええなあ。あのタイミングで門の縄を切る重要な任務はそこらの奴には任せられなかった。俺だって貴重な操術師部隊を使い潰したくはねえんだ。一人でも帰ってきてくれてほっとしてるぜぇ」
あの戦場で隠し部屋に潜んでいたグラーフ王国兵は二人いた。それぞれが門扉に繋がる左右の縄を切り、混乱と闇に乗じてゼイウン公国軍も使った砦の抜け道で離脱したのだ。その途中で一人は殺され、彼だけが生き残った。
彼の名は。
「ま、これでお前も名実共に操術師部隊の一員ってわけだ。信頼に足ると認めるぜぇ、ダリオ」
元ヴァイス王国副将軍、ダリオ・アバッティーニ。




