第八十四話 潜入
「久しぶり、かの」
「おう」
メルベルク砦内でチカとホウセンが顔を合わす。遊撃部隊が敵に突撃、離脱した後、間をおかずに森の中の抜け道を通ってメルベルク砦に帰還していた。疲弊していた部隊の入れ替えも勿論目的の一つだが、この行動は作戦の一環だった。
「お主の目論見通り敵はこの道を発見したぞ」
「こっちが気付いてるのはバレてないかい?」
「敵が自分の尾行能力に多大な自信を持つ愚か者だったらの。確かに見事に気配は消しておったが、人間より遥かに聴覚と嗅覚の優れた人狼族を出し抜けると本気で思っているのか? あやつらは」
「チカちゃんの部隊は主に北の方で活躍してたからな。ゼイウンの奴らは人狼族との戦闘に慣れてない。最後までのこのこと付いて来たなら大丈夫だろうよ」
どんなに音を巧みに消そうと、狼並みの聴覚と嗅覚を持つ人狼族にかかれば尾行などすぐに気付く。
「それで、本当に私はこのまま自分の判断で遊撃を続ければ良いのだな?」
「ああ、護衛はいらねえ。俺には虎の子の操術師部隊がいるからな」
そう言って笑うホウセンには確たる自信が窺い知れた。
ホウセンは魔法というものをずっと独自に研究していた。それはこの世界の人間とは違うアプローチの仕方、科学という観点で魔法を解明するというものだった。当然、科学者ではないホウセンには解らない事だらけと言えたが、他の魔法使いには真似出来ない考え方で一つの偉業を成していたのである。
それは「魔法とは魔力という物質を介して何かを操る力」という定義付け、そしてその定義の元、魔法を体系化した事である。
正直この定義付けには色々と無理がある。ホウセン自身もこれが正しいとは言えない。これは例えて言えば、物が燃える現象は「燃素」という物質によって起こるものとした、千六百六十六年にヨハン・ベッヒャーが提唱した「フロギストン説」のような、後年になれば荒唐無稽と言われる宿命の説なのかもしれない。
しかし、ことイメージが重要な魔法の訓練に於いてこの定義付けは非常に有効であり、上達速度を飛躍的に引き上げた。更に、魔法を昇華させた「操術」は力の使い方を限定的にする事によって、より扱い易いものとなったのである。
そうして彼が鍛え上げた魔法使いの中でも特に資質が高く、戦闘能力、作戦実行能力、生存能力の高い者達を選りすぐった五十名の精鋭中の精鋭がホウセン直轄の「操術師部隊」であった。
「そこまで言うならお主に任せる。砦内をこれだけ遊び場にしたんじゃ。相応の戦果は上げいよ」
「任せとけぃ」
そう二人は拳を突き合わせる。なんだかんだと言っても二人は信頼のおける戦友であった。
兵の入れ替えを終えチカは森に戻り、ホウセンは最後の仕上げをすべく広場に向かった。
冬の日没は早い。辺りの空気は既に蒼く、迅速に作業を終わらせなければならない。
「逢魔が時、か」
ホウセンは込み上げる笑いを押し殺した。今はその「魔」の子孫達が味方なのだ。そしてホウセン自身も魔の血を宿している。遭えるとしたら親か何かか? と思うと思わず吹き出してしまいそうだったのだ。
「俺はこの魔で勝利を積み上げるぜ。差し当たっては目の前の奴らだ。最終目標は……」
ホウセンは天を見上げた。
天、それは即ち神の住まう場所。積み上げた勝利で上るべき場所。
「それまでに誰かに阻まれちまうか、それともてめえが俺にツケを払う事になるか」
ホウセンはびしりと中指を天に突き上げてみせた。
「この最強の男と勝負だぜぃ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ゼイウン公国軍の三将は、密偵の報告により順調に事が進んでいると判断した。
実を言えば、尾行は非常に簡単なものだった。雨上がりの土には足跡がくっきりと残っており、敵の退却際に後をつけるという本来ならば難しい任務も、敵との距離を十分に離した状態から辿る事が可能であった。
「運はどうやらこちらに向いているようだな」
エーベルが不敵に口角を上げる。
「それで、入り口の様子はどうであった?」
「敵部隊が通った後暫く見張りが立っておりましたが、その後再び敵部隊が出てきた時には見張りも一緒に合流して去ってゆきました」
「見張りがいなくなっただと?」
「入り口は蔦と葉で巧妙に隠されており、部隊の入れ替え後に見張りが立っていても余計目立つだけだったかと」
「そうか」
首尾よく得たこの成果をどう扱うべきか、エーベルは今一度凝り固まった考えを忘れ、まっさらな状態に立ち返って勘案してみた。しかしどう考えてもジリ貧の現状を打破するには今を措いて他にない。
「エーベル殿、その抜け道が使えるのは兵の入れ替えが終わった今から敵が再度突撃してくる間しかない。それ以後は敵と鉢合わせるか、そうでなくとも敵に気取られる恐れが高くなる」
ドミニクの言葉に頷く。決断を鈍れば好機を逸する。幾度となく戦場で肝に銘じた事だ。
「よし、今夜作戦を決行する。潜入部隊を編制するぞ」
その夜、メルベルク砦に潜入し内側から門を開ける役目を負った十名が森の抜け道に足を踏み入れた。
入り口は特別扉のようなものがあるわけではなく、ただ穴が開いているだけのものだった。しかし上からは蔦が垂れさがり、人工物が無いだけに森に溶け込み見つけにくい。正攻法ではこの辺りを重点的に人海戦術で探さねば分からなかっただろう。
「どうやら地下水路に沿って作られたもののようだな」
水路沿いの通路としては広い。確かにこれならば数百人からなる部隊の入れ替えも現実味がある策だろう。
それからはただ黙々と出口を目指した。敵に出くわせば一溜まりもない。そんな彼らの緊張とは裏腹に、何のトラブルも無く出口と思しき所まで辿り着いた。
ただし、ここからはそんな期待は望めない。砦のどこに通じているかも分からず、頭上の蓋を開けた途端敵と目を合わせる事態になりかねない。
地獄の窯を開けるように慎重に蓋をずらす。幸いにも近くに敵はいないようだ。暗闇の中、辺りを窺い現在地に見当を付ける。どうやら防壁側の砦の端に出たようだ。ここからなら門の位置も分かる。
音を立てぬように、黒く塗りつぶされた世界で細心の注意を払い門に近づく。だからこそ気付いた、その空間の異様さ。
「何だこれは……?」
しかしそれは彼らの任務を妨げるものではない。男達は一先ず足元に広がるその奇抜を無視し、忍び足を止めず意識を門に集中させる。彼らの目的は内側からの開門。その障害になるもの以外に気を取られている場合ではない。
「ふぁあ、ねみい」
やがて静謐な空間を嫌うように気だるげな声が聞こえてきた。門の見張りの他愛もないおしゃべり。先頭の男が後列に止まるよう手で合図を送る。
「退屈だぜえ。こんな所に突っ立ってても意味ねえだろうに」
「そう言うなよ。一応何かあった時の為に俺達がいるんだからよ」
「つってもよう。外の奴らに門を破れるわけねえじゃんか。外の見張りは防壁の上の奴らがやってるし、この状況でいきなり門を開けろなんて命令ある筈ねえだろ」
「まあなあ」
門の見張り兵は二人、まだこちらに気付く様子はない。無言の合図で狙撃手が黒く塗った矢尻を毒液に沈み込ませ、矢を番える。
しなった木が軋む微かな音すら注意深く門兵の話し声に紛れ込ませる。
「へっへっへえ」
「何だよ、気持ちわりいな」
「交代前にちと拝借してきたんだよね。お前もやるか?」
「お前それ、酒か? でかしたぜ、くれくれ」
「焦んなって、ほら、これでお前も共犯な」
門兵の一人が空を見上げるように酒を呷る。その視界の端で相方の手から盛大に液体が零れるのが見えて、門兵はしぶしぶ命の水を流し込んでいた喉を発声する為に使う事にした。
「何だよ勿体ねえ、折角の酒が……」
振り返った時には相方は膝から崩れ落ちていた。喉に刺さった矢とそれに塗られた神経毒によって声を立てる事も出来ず、まるで鉄板の上で熱せられた蛆虫のように体を丸めた。
その様子が意味するところを正確に理解し、すべき行動に移す前にもう一人の門兵も毒矢に倒れる。
死亡を待つよりも早く潜入部隊が門に走り寄る。
「閂が無いぞ!」
「上下に開閉する門だ! 左右に開閉用の操作棒が有る筈だ!」
声帯を使わず息だけで音を伝える事によって意思を共有する。手分けして左右同時にレバーを回すと、繋がった縄が幾重にも組み合わせた滑車を伝い、その莫大な質量を持ち上げてゆく。
防壁上の兵が気付いた時には既に遅く、敵全てを滅さんと血気盛んなゼイウン兵が堅牢な防備の綻びに雪崩れ込んだ。




