第八十二話 将の器
森に入ってからというもの、ゼイウン公国軍の行軍速度は明らかに落ちていた。左右を警戒しながらの行軍。疲労を回復する暇も与えられぬまま常に気を張る中、病に倒れる者が続出。渡河後の強行軍のツケは利子を含んでのしかかっていた。
その上。
「ウオオオオオーーーン」
「ひっ」
狼の遠吠えが聞こえる。また隊列のどこかが襲われるのだと皆戦々恐々となる。
チカの人狼部隊は必ず遠吠えの後に襲撃をした。時には襲撃がない事もある。だが恐怖心は兵士に根付いてしまっていた。遠吠えが聞こえるだけで警戒を要し、心休まる時を与えてはくれない。特に暖をとろうと火を焚いた時には即座に襲われるので、体を温める事が出来ないという事も病気を誘発している原因だ。
地形も悪い。森を横断する目的で作られた道である為、否応なく細長い隊列にならざるを得ない。陣を厚くしようにも、此方は森に分け入る事すら危険なのに、相手はまるで庭のように縦横無尽に森の中を闊歩する。本格的に森を切り拓いて陣を構えようとすれば、前にいると思われるホウセンの部隊と連携して包囲を完成させてしまうだろう。それにこんな途上で陣を構えてもその場しのぎ以上の意味が無い。敵に無為に時間を与えるのはリスクでしかなかった。
「ぐっ、またか」
エーベルが遠吠えに苦々しく悪態を吐く。噂に聞く人狼将軍がこんなに厄介だとは思わなかった。遠吠え一つで我が軍の士気が削られてしまう。しかも襲撃時に深追いもしない。層の薄い部分を貫いて通過してゆくだけで確実に兵の気力体力を奪ってゆく。
厳しい地形での戦闘に慣れている筈の強兵達が次々と倒れていく。此方の土俵であった筈の地の利が、今では完全に敵に味方して牙を剥いていた。
「諸兄らに伺いたい。今後どうすべきか」
エーベルがドミニク、イングベルトに初めて意見を促した。それは猛将の意地としては避けたいものだったのだろうが、頑なに意を通して徒に兵を消耗させる程彼は短慮でもなかった。
「俺は強行させるべきだと思う」
「それでは被害が増えるでしょう。ここは前後で二隊に分けても守りを固め火を焚き、兵を休息させるべきでは」
「それは敵の思うつぼだ。ここで時間をかければかける程敵に有利になっていくぞ」
強行と休息、真っ向から意見が対立する二人。エーベルが自分の考えを述べる。
「敵は間違いなくここで勝負を賭けてきている。連日続く間をおかぬ強襲がその証だ。ならばこそ砦に取り付き包囲すれば相手は成す術もないだろう。森の中の伏兵が遊撃部隊となっても出来る事は精々嫌がらせ程度のものだ」
「砦の周りなら森も無いしな」
「しかしこのままではそれまで士気が持つかどうかも危ぶまれます。辿り着いても罠が無い保障もありません」
イングベルトにはホウセンが我々をわざと砦まで急がせているように思えていた。この必死の連続強襲の向こうで、まるで「こっちの水は甘いぞ」と言わんばかりに手招きしているようにすら感じるのだ。
「一理ある。しかしここで敵に時間を与える利点はあるか」
「それは、ありません」
「こうして判断を迷わせる事こそ敵の罠だとは思えないか」
ドミニクの言葉にイングベルトはぐうの音も出なかった。
エーベルが目を閉じ、確かめるように二人に問いかける。
「我々ゼイウン兵の強き所以は何だ」
「こと切れる瞬間まで持続する士気」
「ゼイウン兵の恐ろしき所以は」
「何があろうと敵の喉笛まで届く殺気」
それらはゼイウン魂とも言うべきゼイウン公国で生まれ育った男達の根源に住まう気構えだった。兵の末端まで行き届いたそれがある限りゼイウン公国の心は折れない。それは壮年のエーベルやドミニクも、青年のイングベルトも関係なく持ち合わせている心意気だった。
「ならばこそここが正念場。乗り切ってこそゼイウン兵と心得るが如何に」
そう言われてしまえばイングベルトには反論の余地はない。あとはどのようにして乗り切るかが問題だ。
「方法は二つある。落伍者を置いてこの戦域から疾く離脱する強行策。このまま小方陣を維持し確実に前進する現状維持」
「俺は強行策を支持する」
「私は兵の状態から見て多くの落伍が出る方策は危険かと存じます。精神は折れずとも兵の体は限界がきています」
「俺としてはイングベルト殿が言う暖を取るというのも正しいと思う」
「しかしエーベル殿。この場に留まれば全力の敵に潰される、それはご自身が言った事でしょう?」
「まあ待て。本格的に火を焚く事は出来ずとも、松明を掲げる事くらいはできよう。どうせ我が軍の居場所は割れているのだ。そこで森での活動が得意な者に左右を任せ早期警戒網を作る。松明は交代で持ち歩きながら暖を取らせる」
イングベルトは唸った。確かにこれなら幾分か兵の負担は減るだろう。行軍速度は落とさず、それでいて兵の体力はぎりぎり保てる妙案だ。猛将ではあるが、やはり一軍の将。決して短絡な猪突猛進型ではないというわけだ。
「異論ありません」
「……ここはエーベル殿に従おう」
ドミニクは少々納得いかないようだったが、反論は無い。
「さて、あとは……」
エーベルが落ちている小枝を三本おもむろに拾う。それを適当な長さに折って手の中に半分隠し、先を揃える。
「長い順に前、中、後列ということで」
「まあ将が三人いますからな。当然エーベル殿も前列狙いなのでしょう?」
「おうとも。貴殿に取られそうな時は手の中で折ってやろうか」
くじで配置を決めようという事らしい。エーベルとドミニクは前列狙い。歳を取ろうと将になろうと一番槍の誉れを目指す、ゼイウンの漢らしい姿勢だった。
清々しさすら感じるその生き様をイングベルトは羨ましく思う。何も迷いなく功を争い、敵の首を追えれば、それは何と気持ちの良いものだろうか。しかしイングベルトはその誉れを掴んではならない。父からの密命がイングベルトに暗い影を落とした。
理想通り、と言えるのだろう。前列はエーベル、中列はドミニク、そして後列がイングベルトに決まった。
「うぬぬ、本当に折ってないのですな?」
「しつこいぞドミニク殿。我らが敵の首を取るところを見ているがいい。なあっはっはっ」
前を行くエーベルと踵を返すドミニク、イングベルト。去り際にエーベルとドミニクがイングベルトに告げた。
「後列が一番重要だ。大過なく兵どもを砦まで届けておくれよ」
「途上で敵にやられるなよ」
二人共厳つい顔をくしゃりと歪めると意外に愛嬌がある。
イングベルトは今更ながら悟った。この二人は将なのだ。大事なのは兵の命と戦いの行方だけで、三名家の思惑などまるで意に介さない。家が云々などとは露程の拘りも無いのだと。
「はっ。命に代えましても」
自分がもし兵ならばこの二人になら従っても良い、そうイングベルトは思った。
かくして行軍は続けられた。そしてゼイウン兵は胸の内に敵を殺す刃を秘め、それを曇らす事無く苦難を耐えた。
そして先頭集団が砦に辿り着いた時、これ見よがしにホウセンの部隊の殿を通した門が地響きと共に下りた。




