第八十話 攻防と策謀
ゼイウン公国軍四万がメルベルク砦を目指し一路北上する。平原を超え、谷を抜け冬の寒さをものともせず行進する。
「拍子抜けする程何も無いな」
「仕掛けるにはまだ遠いという事でしょう。もうすぐ川が見える筈です。定石ならばそこで渡河点の奪い合いになるかと」
イングベルトの補足にエーベルも頷く。冬の川を挟んだ陣は通常の陣の固さの十倍にはなるだろう。いくら兵数で勝ろうとも容易に抜けるものではない。
ゼイウン公国軍は付近で唯一の橋がある地点に辿り着いた。而して見えるは十メートルはある川幅の向こうに陣を敷くグラーフ王国軍。だが……。
「橋が落とされておらんな。何かの罠か、橋上で戦えば数の利を消せると踏んだのか、それとも奴らも橋を落とすのが勿体無かったのか?」
「これは罠です、エーベル殿。此方も慎重に陣を敷くべきです」
イングベルトの言葉は尤もだ。グラーフ王国軍は敵が見えても攻めてこようとしない。つまり守り勝つ算段なのに橋を残したままにする理由がどこにあるかという事だ。
「しかしそれは慎重に過ぎるな。数で圧倒しているのに初手からそれでは兵の士気を削ぐというものだぞ」
「ここは俺の部隊で探らせよう。なに、どんな罠であろうとも致命的な事にはなるまい」
ドミニクが一番槍を買って出る。罠を踏み抜いても尚敵の首に届く刃、その絶える事の無い勢いこそがゼイウンの兵の強さだった。
ドミニクの先鋒が雄叫びを上げながら橋に殺到する。陣を食い破らんばかりの迫力にグラーフ王国軍の兵士が怯む。
「く、崩せ!」
合図と共に頑丈な筈の石橋が崩れ落ち、ドミニクの兵が成す術なく極寒の川に墜落してゆく。
ホウセンは過去何度か橋の爆破作戦を決行した事がある。橋の構造上、崩しやすい箇所を熟知していた。それを事前の工作によって爆発物が無くても可能にしていたのだ。
しかし。
「橋の半ば過ぎの所で崩すとは、我らに怖気づいたか。恐らくあれはもっと引き付けて実行する策だったのだろうな。しかしそれでも四万の内の数十人でしかない」
お互い弓矢は使わない。この状況で放っても防がれるだけで矢の無駄だと悟っているのだ。しかし睨み合いを続けても詮無い。
「こうなるとどこかで渡河しなければならんが」
「少し先に水深が浅い所があります。そこからならば歩いて渡れるでしょう」
「ならば今度は俺が行こう」
イングベルトの渡河作戦にエーベルが名乗りを上げる。厳しい地での戦闘に慣れた兵士達は、過酷な環境下の作戦にもその闘志に些かの衰えも見せない。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「おおこええ、ちびっちまいそうだぜ」
ホウセンはわざとらしく身を震わせる。いつ如何なる時も余裕を崩さないこの男は、精強な敵を前にしてもニヒルな笑みを浮かべたままだ。
「良いのですか? 折角の橋をこんな使い方してしまって。敵を分断する好機だったのでは?」
部下の疑問に軽い口調でホウセンが答える。
「いいんだよ。敵に渡らせてから強引に橋を落とすってのは難しい。こっちにも相応の危険がある策だ。目一杯引き付けても敵さんにとっちゃ被害は大して変わりゃあしねえ。それに元々ああいう風に使う予定だったんだ」
「あんな中途半端に敵を落とす為、ですか? それならば最初から落としておいても変わりなかった気がしますが」
「いや、あの怯えた感じが丁度いい。敵は一度川を渡ろうとしちまった。今回は渡れなかったがあの調子なら渡っちまえば何とかなるだろう、そう思っちまったんだ。人間ってのは一度やろうとした事を邪魔されるとそれに固執しやすくなるもんでな。今頃渡河点を探しているだろぉな」
「はなっから睨み合いをするつもりではなかったと」
「ああ、数のぶつかり合いじゃあこっちが不利だし、ここでだらだらと長期戦やるのはめんどくせえしな。さっさと叩き潰してえだろ?」
部下が唸る。敵は間違いなく強兵だ。ぶつかり合いだと負けると言っているのにこの軽さ。そんなに簡単に勝てる相手とは思えないのだが。
「定石通りならばここで数を減らして籠城戦というところですが」
「この状況で籠城ってんなら援軍呼ばなきゃなんねえだろ。こっちも向こうも寒さ厳しさにゃ強いお国柄だ。冬になったら退却してくれるどころか、今が冬だ。攻めて来たってえ事は、糧秣の蓄えも十分な当てがあるってこった。おれぁ本国に泣きつくなんてヤだぜ?」
「ではどうするおつもりで」
「ここで数を減らすに越したこたぁねえ。敵さんは先行部隊で渡河を強行して此方の陣を崩しに掛かるだろうから、それなりに防ぐ。渡河を諦めちまわないように、あくまでそれなりにな。ま、この場は適当に戦って、敵全軍が本格的に渡河を始めたらケツまくろう。あ、何気なく俺の名前を出しといてくれや。敵にここを指揮してたのがホウセン・クダンだって分かるようにな」
はあ、と部下が気のない返事をする。
一体この人は何を考えているのか。
天幕に籠って寝始めたホウセンを見て、部下は理解するのを諦めた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
渡河点の激しい奪い合いは、ドミニクの強行によって均衡を崩した。突撃によって陣を崩し、矢雨の危険がなくなったところで全軍が渡河を始める。グラーフ王国軍はゼイウン公国の勢いを殺し切れず退却を余儀なくされる。
「はっはっはあ! 見ると聞くでは全く違うではないか! 音に聞こえし隻眼の軍師ホウセン何するものぞ!」
「然り! 見ろ、我々に恐れをなして逃げてゆくぞ!」
勢いに乗るエーベルとドミニクは後ろを振り返らず敵を追いかける。その猛追はまさしく悪鬼羅刹の如く、逃げ遅れたグラーフ王国兵を踏み潰していった。
その快進撃とは裏腹にイングベルトの表情は優れない。
(おかしい。確かにこの二人の強さは本物だ。しかしこの軍はホウセン・クダンが率いていたと報告があった。奴が率いる軍がこんなに脆いとは思えない。それにこの……)
イングベルトは濡れた足を見つめた。馬の背に乗った状態でも渡河時に足が濡れる水位だったのだ。
(騎馬はそれ程問題は無い。だがこの水位の冷たい川を渡った歩兵はどうだ? この分では皆胸まで濡れているだろう)
イングベルトの危惧通り、後方では筋肉が硬直しがたがたと震えながらついてくる歩兵が増えていた。だが今はまだ興奮で左程意識していない者が多い。行軍にはあまり影響は見られなかった。
「エーベル殿、ドミニク殿、歩兵は渡河により疲弊しています。ここは一旦足を止めて暖をとらせるべきでは」
イングベルトの讒言を両将は弱気ととった。激しい叱責の声が辺りを震わす馬蹄の音に混じる。
「何を言うか! 今が敵を掃討する絶好の機会だろうが!」
「然り! 徒に士気を削ぐ発言だ! やる気が無いなら後方で見物していても構わんぞ、若造!」
やはりというか、若輩者のイングベルトでは熟練の将である二人を止められはしない。そして掃討戦こそ一番の戦果の稼ぎどころであり、敵に打撃を与えられる機会である事は間違いない。
今軍の勢いを止めてまでこの猛将二人を制止するだけの理由を、イングベルトは持ち合わせてはいなかった。
(これが父上の望んだ形なのか? それだけで済めば良いのだが)
首の後ろから滲み出る嫌な予感は拭い去る事敵わず、魔の追撃戦へと移行してゆく。




