第六十八話 援軍遠征終結
「かぁー、このタイミングでかあ」
ホウセンは空を仰ぎ額をぺちりと叩く。これからヴァイス軍を轢き潰すという時だけに、後ろを取られた事と瀕死のヴァイス軍が息を吹き返した事が辛い。
まさに間が悪いとしか言い様が無い。
「ゼイウン側の敵は二、三千というところかの。多くても五千いかんじゃろ。我らならば戦って勝てんわけじゃないが、さてどうする軍師殿」
数に幅があるのは虚を突かれ、高所も見張り台も無い状態で予測を立てているからだ。チカは網膜に映る情報と現在の状況、戦場での勘で敵の数を三千とアタリを付け、そこに悪い予想を踏まえた上で大まかな数を言っている。
「当然退く。次に繋がらない勝ちを拾っても仕方ないからな」
ホウセンは迷いもなくきっぱりと宣言した。体裁に拘らない彼らしい物言いである。
前後に挟まれる覚悟で戦うとなればどちらかを先に潰す事になるが、決死の覚悟を決めたヴァイス軍を全力で叩いてもある程度手こずるのは必至。その上ゼイウン軍が劣勢と見てゲルスベルグに退き守りを固められたら、消耗を重ねた軍で抜くのは難しい。
かといってゼイウン軍から先に叩こうとすれば背後のヴァイス軍がかなり鬱陶しい。こちらの被害は更に増えるだろう。そんな苦労の末ゲルスベルグに着いたとて、まさか防備を全てかなぐり捨てているとは考えられない。例え五百でも守備兵を残されていれば攻城戦は難しいものになる。
「ならば敵が来る前に退くとしようかの。死を覚悟した兵は強いからの。ましてやそれが軍ならば、おお怖や怖や」
損害を出してまで遠征してきた軍とは思えない淡白さでグラーフ軍は退却する。
ホウセンの恐ろしさは兵の損耗を必要経費と割り切る酷薄さと、被害を出した上で目の前に成果がぶら下がった状態でも目が曇らない冷静さにあった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「セラムさーん!」
ゼイウン軍の先頭にいたのは意外な事にヴィレムだった。争いが嫌いだと自分でも言っていた筈なのにまさか部隊に同行していたとは、一体どういう心境の変化だろうとセラムが不思議がる。
似合わぬ軍装に身を包んだヴィレムと、対照的に精悍な青年がセラムに近づいてくる。ヴィレムはセラムの前で下馬すると、横の青年を手で指し示して紹介する。
「こちらは僕の長兄でイングベルトといいます。兄上、こちらが婚約者のセラムさんです」
「初めましてセラム侯爵。本日は我が父リーンハルト銀翼公の名代として同盟者の要請に応えるべく推参いたしました。書簡では苦戦中のようでしたが間に合ったようで何より」
イングベルトと呼ばれた青年が下馬し、兜を脱いで一礼する。必要以上にへりくだりもしないが、礼は失しない態度だった。
同盟者といえど格上で更に目上の相手である。しかしこちらは援軍要請があったから来たのだ。難しい立場だが委縮する必要はないとセラムは判断した。
「初めまして、イングベルト殿。貴国の援軍要請に応える事ができたようでほっとしております。我が軍も少なくない犠牲を出してしまいましたが、見合った成果は上げました。彼らも浮かばれるでしょう」
胸に手を当てて深々と礼をする。丁寧に、しかし確実にヴァイス王国の存在感を示す。
外交とはかくも面倒くさい。まったく迂遠な事だと思うが、心の中で止めておく。敵の方が腹を割って話せるというのは皮肉なものだ。
「敵は一旦引いたとて、警戒は必要でしょう。我が軍はこれで失礼させていただく。貴殿らはゲルスベルグに入り休まれるが良いでしょう。ヴィレム、案内して差し上げなさい」
「は、はい。兄上」
イングベルトは兜を再び被り馬に乗る。
兄が少々苦手なのだろう、ヴィレムは緊張した面持ちで答える。
今更ながら戦場にヴィレムがいる事に違和感を感じる。この臆病者の公子様が精一杯の勇気を振り絞ってくれたのは想像に難くない。ゼイウンの兵が状況的にあまり成功率の高くない挟撃策を実行してくれたのも、ヴィレムが説得してくれたおかげなのだろう。
感謝すべきだ。だからこんな面倒事を押し付けるのは気が引ける。
「せっかくのお申し出ですが、遠慮させていただきます」
セラムの言葉にイングベルトが険しい、と思われる顔で振り向く。兜越しであまり表情が見えないのだ。
一方ヴィレムはあからさまに驚いた顔をしている。
「現在後方には我が隊の重傷者を集めております。しかも他にも頭の痛い案件を抱えておりますので、我々は一刻も早く本国に帰らねばなりません。重傷者は長い治療期間が必要だと見込まれますのでこちらに置いていくわけにもいかず。申し訳ありませんがこのまま帰国させていただきます」
「む、そうですか、わかりました。父上には私からそう報告しておきます。後は我が軍だけで大丈夫でしょう。今度会う時には宴の席を用意しておきます」
ヴィレムがセラムとイングベルトを交互に見る。自分はどうするべきか困っているようだ。
そんなヴィレムにセラムは目配せする。
「そこまでしていただくのは流石に忍びない。僕の代わりにヴィレム殿に報告を頼むとしましょう」
「え?」
呆けたヴィレムにセラムはウインクをモールス信号のようにして念を送る。
(何とかいい感じに恩を売って、ここで代価を支払わせるな!)
届けこの思い!
ヴィレムが何となく察したのかセラムにだけげんなりとした顔を見せる。
ここで下手に歓待を受けてしまうとせっかくの恩を高値で売れなくなる。しかし無下に断ると悪印象になるし、報告を人任せにしてしまうのは論外。そこで持て成しても仕方がない人物を使者に出して受け流そうというわけだ。
勿論セラムが言った事は本当の事だ。ノワール方面もヴィグエント方面も心配であるし、怪我人を少しでも早く本国で療養させたい。
ただヴィレムには厄介事を押し付けてしまった感がある。
二人の視線の間でヴィレムが顔を上げた。
「……わかりました。このヴィレム、セラムさんの頼みとあらばお引き受けいたしましょう。父上には僕から報告いたします。おまかせくだされ、はっはっは」
なんだか行間に「気が進まない」とたっぷり含まれた棒読みではあったが。
イングベルトと別れ、帷幕の中でヴィレムに届けてもらう書簡を用意する。日も落ち始め、セラム、ヴィレム、書記官の三人だけが蝋燭の灯りに照らされていた。書記官に書かせた文末にサインを入れ、封筒に垂らした蝋に押印する。封蝋というやつだ。
「ありがとう、下がっていいよ」
書記官を労って退出させる。セラムはキョロキョロと周りを見回した。といっても狭い帷幕の中、ヴィレム以外に誰の姿も見えよう筈もない。
「セラムさん? 何を」
「しーっ。こっちに来てしゃがんで」
手招きするセラムを訝しみながら、ヴィレムは言われた通りにする。
「今は二人きりというわけだ」
セラムは慈愛に満ちた顔でヴィレムを見つめ、見上げたヴィレムの頭を抱いた。
「ふぉ!?」
セラムは何か言いかけたヴィレムの口を胸で塞ぎ、その頭を撫でながら優しく囁いた。
「頑張ったね。ゼイウンの人達を説得してくれたんだろう?」
実際の年齢差から言えば年の離れた弟でも無理があるこの少年が、戦うのが嫌いだと言っていたこの少年が、自分を助ける為に父や兄を説得して、尚且つ自ら戦場に駆け付けたのだ。
その勇気を思えばこれくらいの褒美はあってもいいんじゃないか、そう思った。
その姿は、かつてセラムがそうありたいと願ったものに似ていたから、素直に好ましいと思えた。
「僕を助けようと必死に頑張ってくれたんだろう? 君のおかげで助かった命がここにある」
小刻みに震えるその頭を、セラムは優しく撫で続けた。




