第六十七話 捕虜交換
捕虜交換当日、両軍は平原にて睨み合っていた。あの戦いで両軍共に消耗しているとはいえ、合わせて一万五千近い兵が一箇所に集う光景は圧巻の一言だ。
「約束通り弓手はいないだろうな!」
「貴様らこそ、セラム少将以下捕虜全員の解放の準備は整ったか!?」
離れた場所から代表同士が確認しあう。
この捕虜交換に際して、両軍の条件を擦り合わせた妥協案は以下の通りであった。
一、両軍弓を用意しない。
これは受け渡し時の捕虜の身の安全を確保する為である。弓の性能はヴァイス王国軍が勝っている事からして若干不利な条件だ。
二、ヴァイス王国側はチカ将軍を、グラーフ王国側は捕虜全員を交換する。
こちらはヴァイス王国側に一方的に有利な条件。チカ将軍とセラム少将だけで価値が釣り合っているので破格と言える。
三、受け渡し場所は遮蔽物のない平野とする。
お互い伏兵等が潜めないようにとの配慮だ。あくまで条件は対等にと両軍一致で可決した。
四、両軍は動員可能な全軍を集結させる。
これも裏で暗躍出来ないように目に見える所に置いておく為の条件だ。但しこれに関しては条件次第で反故にされても文句は言えない。損耗しているとして兵数はいくらでもごまかしがきく。そう、ばれなければ文句も言いようがないのだ。
それにこれは有っても無くてもヴァイス王国側にとって不利な条件である。数の対比はおよそ十倍。策を練られても厄介だが、捕虜交換後に真っ向から潰しにかかられてもどうにもできない差がある。
できれば少人数で捕虜の受け渡しだけ済ませたいところであったが、それはホウセンが承諾しなかった。
五、受け渡し時はお互い百メートル以上離れ、同時に捕虜を歩かせる。
六、お互いの捕虜が全員渡るまで戦闘行為はしない。
五と六に関しては不可欠な条件だろう。この二項が無ければ交換が成立しない。
本来ならばヴァイス王国側としては非戦闘時間を一日、そうでなくとも出来るだけ伸ばしたいと粘ったが、元々圧倒的に不利な状況であるが為に交渉力が及ばず、グラーフ王国側が頑として譲らなかった。ヴァイス王国側に副官クラスがおらず、グラーフ王国側には指揮出来る将軍が健在。言うまでもなく最悪条件。しかし呑まざるを得なかったのである。
七、この戦時協定にチカ、セラム両名が署名し確約するものとする。
そうして両名の名のもとに戦時協定が結ばれた。どれか一項でも反故にすれば責任者たるチカ、もしくはセラムの信用が地に墜ちる。
今まさに両軍の命運を賭けた捕虜交換が行われようとしていた。
「おーおー集まってんな。緊張するぜぇ」
横のホウセンが気楽そうに呟く。ふと気になりセラムは大して意味の無い事を聞いてみた。
「こういう場に立ち会った事はあるんですか?」
「あるぜ、昔一度な。その時は何事もなく済んだが、戦友からその昔交換の途中で銃撃戦が始まったっていう話を聞いた事があってな。こっちも向こうも銃を持ってのもんだから緊張感が半端なかったぜ。それに比べりゃ随分ましだぁな」
「なるほど」
歩いている途中にいきなり撃たれる心配が無い分今回はセラムにとっても安心だろう。だが一触即発の空気には違いない。緊張で足が震える程だ。
セラムは寝不足の目を擦る。昨日は結局夜を徹してホウセンと話をしていた。敵だろうが立場や考え方が違おうが同じ日本人。この世界では貴重な存在だ。話したい事はいくらでもあった。
日本の事、この世界の事、これからの事。こんな目に遭ったのは自分だけではないという事実が「元の世界に戻るという可能性」を思い出させてくれた。正直昨日までは考えもしなかった事だが、日本に戻る方法が存在する可能性はゼロではない事を視野に入れておくべきだと思い至った。
何せ二人いるのだ。それ以上にいてもおかしくない。そして情報を共有すればもしかしたら、と思うのだ。
「まあ、思いがけず楽しい時間でしたよ」
「おっ? 名残惜しいかい?」
「まさか」
軽口に鼻で笑って返す。
「では太鼓の音を合図に捕虜を放す!」
グラーフ軍の兵士が声を上げる。セラムは思い出したようにホウセンを見上げて言った。
「昨日こちらにつかないかと言ってましたよね」
「うん?」
「やはりそれは有り得ません。貴方と僕はどこまでいっても敵同士ですよ。考え方がまるで違う。例え同じ国にいたとしても戦う事になっていたでしょう」
「あっちゃあ、フラれちまったかぁ。チカちゃんといい、どうも俺がアタックする女の子には好かれねえんだよな。どうでもいい娘にはモテるんだが」
それを聞いてセラムが渋面になる。
「あの、言うタイミングを逃しましたが僕は男ですよ」
「んん? でもどう見ても女の子だぜぇ」
「今はそうですけど元の世界じゃ男だったんです」
「ああ、なるほどねえ。んー、でもいいんでない? 今の体は女なんだろぉ? なら守備範囲内。育てば美人になるぜぇ?」
ホウセンはけらけらと笑い言う。
守備範囲内と言われる事がこんなに微妙な気持ちになるものだとは。しかしながら彼の言った事を再考する。
「いいんでない? 今の体は女なんだろぉ?」
彼は言った。それは全てを理解してなお受け入れてくれる人もいるという事。女として生きる道もあるという事。
(そんなもんだろうか。はたして僕は……)
セラムの考えを遮るように鼓の音が轟く。時間を無駄にはできない。この捕虜交換が終わったら十中八九戦闘になるからだ。
「ではお元気で」
「おう、またな」
セラムとホウセン、まるでコンビニ帰りに知り合いにでも遇ったかのような気安い挨拶をして別れる。
今度会う時は敵同士、それを感じさせない別れだった。ただ、振り返らない背中にだけはその意思が乗っていた。
セラムが平野を早足で真っ直ぐ歩く。一部の捕虜はわざと遅く歩いてグラーフ兵に急かされていた。彼らとは事前の打ち合わせも目配せも出来なかったが、彼らなりの状況判断で分かっていた。セラムが原隊に合流して方針を伝えるまで出来るだけ時間を稼ぐ必要がある事を。
彼らの行動を無駄にしない為にも最短距離で自陣中央まで歩く。だがチカの存在だけは無視できなかった。お互い近づくべく意識的に歩を進める。
チカの歩みは堂々としたものだった。セラムもまた胸を張り、姿勢を正す。
すれ違う間際、小さく言葉を交わす。
「また会おう。生き延びれば……の」
「ええ、また別の戦場で」
含み笑うチカに表情を変えず返答する。そのまま歩くセラムの背中に、チカが振り返って声を掛ける。
「そうそう、少数で突撃していったあの面白い男、バッカスといったか。彼奴は生き延びたぞ」
「!」
一瞬だけ歩が止まる。
「お主も彼奴のようにしぶとくあらねばな」
今度こそ遠のく足音を後ろにセラムはチカの言葉を噛み締める。
「そうか、バッカスめ」
指揮官はへぼだが、どうやら部下には恵まれたらしい。絶望の中にも、一粒の希望は残されているものだ。
心配事の一つはなくなった。あとはこの状況をいかにするかだが……。
昨日からずっと煩悶していたが、ついぞ良い解決策を見いだせぬままに自陣に着いてしまった。
フィリーネの出迎えに手で応え周りを見渡す。
「御無事で何よりです、セラム様。そのお怪我は」
「落馬時の怪我だ。大事ない」
目立つ怪我はあの見張りの突きで負ったものだが、今はそんな悶着をしている場合ではない。それよりカルロの代わりにまとめ役として連れてきた古参の少佐がいない。
「指揮官は誰だ」
「はっ、自分であります」
セラム隊の若い方の少佐である。指揮官が変わっているという事は、そういう事だろう。
「今の状況を簡潔に話せ」
「我隊は重傷者を山の麓に残し全戦力をここに集結させております。数は千」
「そうか。……バッカスはどうした」
「バッカス兵長は重傷とみなし麓に置いてきております」
「本当は『這ってでも行くぜ~』とかなんとか言ってましたが、医療兵が一服盛って眠らせました。自分の状態が分からないんですわ。馬鹿だから」
フィリーネが混ぜっ返す。セラム以外には気の強さが前面に出る女性だが、バッカスの事となると特にだ。
「分かった。しかし思案のしどころだな」
数は十倍以上。個の力さえ及ばず、だだっ広い平野で正面切って相対している。速攻で後ろに全力疾走してもワーウルフの脚力に勝てるとも思えない。
ここまでにセラムが考えてきた策は四つ。
全軍反転してとにかく逃げる。
バッカスを見倣い錐のように敵陣を突き抜け、ゲルスベルグへ向かう。
突き抜けた後、山や森に突っ込みゲリラ戦を仕掛ける。
徐々に隊を分けながら逃げ、生存確率を増やす。
これ以上の策も思いつかないが、どれを選んでも絶望には変わりない。しかしタイムリミットは迫っている。
どれを選ぶか頭を悩ませていると、先程の少佐が口を開いた。
「意見具申よろしいでしょうか、少将殿」
「うむ、策があるか」
セラムが鷹揚に答える。
「これより我ら全軍を以って敵を足止めします。少将殿におかれましてはフィリーネ殿と捕虜と共に麓の合流地点まで走り、ヴァイス王国にご帰還下さるよう伏してお願い申し上げます」
「な……何をっ」
それはセラムも考え、真っ先に履き捨てた案だった。確かに数人ならば逃げ切る事も可能だろう。だがそれは千人の死と引き換えだ。
少佐の声を聞いた筈の兵士達の顔には何の驚きも表れていなかった。全員が納得ずくらしい。
「フィリーネ、お前も同じ考えか」
「私の役目はセラム様をお守りする事、そして」
「少将さえ助かればこのいくさは我々の勝ちです」
周りの皆も頷き肯定する。最初からそのつもりでこの場に立っているのだった。
その態度にセラムはカッとなって怒鳴る。
「莫迦な! 僕一人が助かってもどうしようもない、僕だけでは何もできない! 皆がいてこそのセラム隊だ! それを何だ、諦めるのか!」
「我々は生きる事を諦めたのではありません。死を受け入れる価値のある人に巡り会えたのです。それに少将が生きてさえいればヴァイス王国軍は再起できます。国が負けたわけではありません。少将こそ、このような所で死してどうなさるおつもりか」
少佐は頑として意見を曲げない。
「だが……だがっ!」
「フィリーネ殿」
フィリーネがセラムの腕を掴む。場合によっては力ずくでもという意思が込められていた。
「待て! 考えさせろ! 皆が生き延びる確率が高まる方法が有る筈だ!」
セラムが足を踏ん張る。そうこうしている間に捕虜達が続々と戻ってきてしまう。
ああ、時間が、時間がない。
くそう、この世に神がいるというのならば奇跡を起こしてみろ!
さもなければ。
(一発ぶん殴らないと気が済まない!)
「残念ですが少将。そんな奇跡のような事は……」
「いえ、起きたかもしれませんよ」
唐突にフィリーネが呟いた。皆が何を言っているのか理解できなかった。
ただ、遠目が効くフィリーネだけが確信を持って言葉を紡いだ。
「敵の斜め後方から砂塵、あれはゲルスベルグからの援軍では?」
別働隊がゲルスベルグに到達したと報告があってから四日、鷹が移動する分の時差もあるだろうが、少なくともゼイウン公国の援軍がゲルスベルグに到着したとは考えにくい。という事はゲルスベルグの部隊が挟撃の為に防衛を捨てて打って出たのだ。
きっとヴィレムが説得してくれたのだろう。
「奇跡……」
それは考えうる限りの策を出し尽くし、出来うる限りの事をやり尽くし、持ちうる限りの力を絞り尽くした結果の、必然という名の奇跡だった。
さわさわと援軍到着の知らせが隊に伝わる。セラムはここぞとばかりに最大限の声量でもって号令した。
「ファラアアアアンクスッ!!」
セラム隊が陣形を整える。一糸乱れぬ動きで槍を構える。
「援軍来たり! このいくさ、勝ったぞ! 勝鬨を上げよ!」
「「「勝利! 勝利! 勝利!」」」
視界の奥で敵陣に動揺が走る。セラムの目にも砂塵が見える。
「セラム様、やはりあれはマトゥシュカ家の紋章、ヴィレム殿の御生家の軍です」
セラムは勝利を確信した。




