第六十一話 逃避行
ゼイウン公国では、バッカス達が悔し涙を飲み込みながらひた走っていた。
道中の追手はバッカスの青龍偃月刀が斬り伏せ、フィリーネの和弓が射殺した。だが敵は大部隊でなおも追撃してくる。
後退中に別の一個中隊が合流し、退却時より大所帯になっていた。だが計二個中隊の生き残りは四分の三にも満たない。その事実が激しい戦闘を物語っていた。
「畜生、ちっくしょうっ!」
部隊全員に聞こえるような大声でバッカスが吼える。
「何で俺は護れなかった!? タイショーを護るのが俺の役目だってのに!」
「バッカス殿とて理解しているのでしょう? あの場で戦っても全員殺されチカ将軍が奪い返されていました。このままチカ将軍を確保し人質交換に臨むのが最良だということは」
「分かってんよ! でも俺は俺を許せねえ! こればっかりはどうしようもねえ!」
窘めるフィリーネも切れ長の目を吊り上げ、歯を食いしばっている。彼女とてセラムが赤子の頃から護り、慕ってきたメイド隊の一員だ。バッカスの言葉に一番同意したいのは彼女なのだ。
フィリーネは目の前の狼耳を見やって冷静さを保つ。チカがいる限り望みはあるのだ。
「ともかく今は追手を振りきって山へ辿り着き身を隠すべきです……が、どうやら囲まれつつあるようですね」
フィリーネの目には遠く左右に砂塵が見えていた。
「あんた随分目が良いんだな。俺にはちっとも見えねえが、まあ敵がそう来るのは当然か」
バッカスが長い息を吐く。遠くを見ながら考えを巡らせ、やがて覚悟を決める。
「全軍、この先の茂みに着いたら一旦停止! ちいとばかし話がある!」
バッカスの言葉に従い、総勢約百五十名が木と背の高い草に囲まれた茂みで停止する。この状況で足を止めるというのだ。皆バッカスに何か考えがある事も、それが大変な痛みを伴うであろう事も分かっている。
「それでバッカス殿、話とは」
「ああ、俺達は絶対にこの犬娘を敵に奪われちゃなんねえ。だが状況は最悪だ。俺達が敵の将軍を運んでるのはバレてるし、追ってきやがる敵は三、四千はいやがる。今そいつらが左右に散開して俺達を囲もうとしている。包囲が完成すれば俺達は終わりだ。そこで……」
バッカスが兵の目を見回す。皆覚悟の決まった良い目だ。
「フィリーネの嬢ちゃん達を逃がすために決死隊を募ろうと思う。隊長はこの俺だ」
「おばかですか貴方は。そんな後味の悪い事、させられるわけないでしょう」
「バカはあんただ。そこの犬娘を守り通さなきゃタイショーの命がないと言ったのはあんただろうが。その為にあんたには絶対逃げてもらわなきゃならねえ」
フィリーネは歯痒い思いをどこにぶつける事もできず、ただただ拳を握りしめる。気の合わない男だが、セラムを護る為に命を賭ける覚悟を持つ戦友だ。死地に赴かんとする彼をどうする事もできない。共に並び立つ自己満足さえ許されない。それが、悔しい。
「おーし、じゃあ志願者は」
皆、我が我がと手を挙げる。約百五十人の生き残り、その全員だった。
「多過ぎだバカ共が」
――こいつらみんなキラキラしてんなあ。ああ、死なせたくねえなあ。
バッカスの胸にこみ上げるものがある。
「この中で妻子ある奴、守るべき家族がいる奴は嬢ちゃんらと一緒に行け。大事な任務だ」
「私は元気な父しかいません!」
「俺は天涯孤独です、お供します!」
それでも志願者が多い。
「お前らの中で馬に乗れる奴は。よーし、いい感じの人数になったじゃねえか」
残った者から馬の数に合わせて二十八名を選ぶ。
「じゃあ嬢ちゃん、残りの馬は貰ってくぜ」
「貴方正気ですか? この人数であんな大軍止められるわけないでしょう。これでは自殺です」
「何もここに留まって盾になろうってわけじゃねえよ。馬の機動力で敵陣をかき乱してまんまと逃げる」
「逃げるってどこから」
「そりゃあおめえ、これから敵の層が薄くなるところからさ」
そういって真後ろを指す。フィリーネは空いた口が塞がらないとばかりに頭に手を当てる。その方向からは今も雲霞の如く敵が迫っているのだ。
「そう呆れるもんでもないぜ。覚悟した奴ってのは強いもんだ。やるかもしれねえぜ、この『死』願者どもは」
フィリーネの馬に括りつけられたチカが顔だけをバッカスに向けニヤつく。
「なかなか面白い男よの。生き残ったらまた戦場で会いたいものだ。顔を覚えといてやる、筋肉ダルマの髭もじゃ類人猿ロリコン」
「そりゃどうも。ついでに名前も覚えてもらえると嬉しいがね。そら、もう行け」
フィリーネが最後に勇敢な男達の顔を見る。言いたい事は確かにあるのに、掛ける言葉は何も見当たらなかった。
これ以上は状況が許さない。結局、去り際に言えたのはたった一言だった。
「集合地点で待つ!」
フィリーネの馬が嘶き駆け出す。名残惜しそうに兵士達がそれに続いた。
「さあてお前ら、やる事は分かってんな?」
「敵のど真ん中を突っ切り反転して集合地点に向かう事です!」
威勢の良い声の主は数日前のフィリーネとの的中勝負でバッカスをもみくちゃにした男だ。
「よおく分かってんじゃねえか。そうだ。お前らに死ぬ事は許されてない! 死にたきゃ敵を百人殺してから死ね!」
「当たりめえだ! 少将をこれからもお護りする為にもこんな所で死ねるか!」
そう言ったのはセラムの親衛隊の一人。セラムを本心から敬愛している男だ。
「一人百殺か、追手もいなくなりますね」
この男とは昔一緒に酒を飲んだ事をバッカスは覚えている。
「セラム少将は兵も将も食事に差はいらないと仰ってくれました。今までそんな事を言う貴族はいなかった。私は少将の為なら捨て石になっても構わない」
この兵士は先日セラムと一緒に携帯糧食を食べていた兵士だ。
「揃いも揃って、このバカ共が」
バッカスは青龍偃月刀を担ぎ直してニカリと笑う。
追手は肉眼で見える程に迫っていた。
「じゃあ行くかロリコン共」
「行きましょうかねロリコン隊長」
のたまった戦友を遠慮なしに小突いて咳払いする。二十九名が騎乗し、バッカスを先頭に鋒矢陣を組み、敵の軍勢と相対する。
バッカスが切っ先を正面に向けて号令する。
「野郎ども! 敵陣正面に向かって、全力退却!!」
騎馬が弦から解き放たれた矢のように疾駆する。
バッカスは迎え撃つ敵を一刀両断すると、返す刀で瞬く間に二人を地に沈める。迫る剣戟を石突きで跳ね返し撫で斬る。
敵陣を稲妻のように斬り裂き、二十九名の軍勢は敵を混乱に陥れる。離れる敵に固執はせず、とにかく足を止めぬように前へ出る。
その先頭でバッカスは小さい子程もある重量の青龍偃月刀を馬上で振り回す。それはまさしく刃の結界のようで、敵の集団を鎧袖一触に突き進む。
決死隊はそんなバッカスに遅れまいと必死で縋りつくが、次第にその背が見えなくなってゆく。騎馬の勢いが落ち始め、囲む敵の数が多くなってゆく。
「ああ、俺達は隊長に付いていく事すら出来ないのか。」
「これでは見限られても仕方ない。なんという我が身の不甲斐なさよ」
嘆き声が上がる。
だがその時、視界の奥から赤い噴水と共に敵の悲鳴が近づいてくる。敵の包囲が緩み、その先から返り血に染まったバッカスが現れる。
「わりーわりー。速く行き過ぎたわ」
息一つ乱さず軽い口調で掛けられた声を聞いて、決死隊に沸々と闘志が湧き上がる。
敵の只中だというのに、死ぬ気は全く起こらなかった。




