第五十九話 暗転
もう少しで森を抜けるという所まで来てからセラム隊は足を止め、野営の準備を始めた。もうすぐ夜になる。強行軍は危険が伴う事と、森を抜けてしまったら身を隠す場所が無くなるという理由からだ。何よりここまで逃げ続けてきた兵達には体力の限界がきていた。これ以上は落伍者が増える一方だろう。
セラムは地面に座ってチカと身の上話に花を咲かせていた。
「ほう、お主は親御さんの後を継いで軍人になったのか。何やら親近感を感じるの」
「はは、正直周りに付いていくのがやっとですよ。僕の周りは優秀な人が多いので何とかやってます」
「謙遜も程々にしておかぬと嫌味だぞ。あの穴だらけの陣地を考えたのもお主じゃろう? お主が台頭し始めてから計算が狂い始めた、と同僚も言っておったわ」
「それはそれは、同僚というのは隻眼の軍師殿ですか?」
「どうだったか、忘れてしまったな」
二人して白々しく笑う。此方を見くびってもらうように誘導しつつ、此方の情報はなるべく出さず、相手の情報を引き出す。そうしようとは思っているのだが、どうにもセラムはその手の駆け引きが苦手だった。
もういっそ開き直ってしまおう、セラムは思考を放り投げ切り出す。
「どうにも僕は腹芸というのは苦手ですね」
「お互いにな」
チカも同じ事を思っていたらしい。本質は素直なセラムと、直情型なチカでは狐にも狸にもなれそうにない。喉の奥から漏れ出る笑いを共有していると、つい敵味方の立場を忘れる。
「将軍は本当に自分の一族を大切に思っているんですね。大事なものがあり、それを命がけで守ろうとするその姿勢、好ましく思います」
「お主にはそういうものはないのか?」
「いえ、あります。この世界の、自分を大切に思ってくれている人に出会って、自分もその人達を守ろうと誓った。だから僕はここでは死ねない。だから戦場に行くんです」
チカは一瞬怪訝な顔をした。先程のセラムの言葉に若干の違和感を感じたのだが、その正体はついぞ掴めなかった。
「では尚の事我らは敵同士だな。私には守るべき一族がいる。私だけ裏切る事は有り得ない。お主にその大切な人達がいるようにな」
「では一族まるごとだったら此方側に来てもらえますか?」
セラムの言葉にチカの耳がピンと立つ。胡座をかいて縛られた両手のまま足を掴み、うーんと唸る。
「それは、考えてもみんかったな。確かに戦いの末破れ、一族ごと捕まるような事があれば筋は通るが……。はてさて、そんな事が起こり得るかの」
「どうでしょうね」
言っている本人ですらその状況が想像できない願望だ。だがまったく脈なしというわけではないと分かっただけでセラムは安心した。
「ところで、人狼族というのはやっぱり変身したりするのですか? 満月を見ると狼男になるみたいな」
「何故満月なのかはよく分からんが……。我らも人に混じり血が薄くなるにつれ変身出来る者は少なくなっていった。今では一部の者しか出来んよ。大抵は私のように耳や尻尾がある程度だの」
「いやいや、それはそれで萌えるのですが」
チカの揺れ動く尻尾を目で追いながら漏らすセラムであった。
「燃える? 闘争心でも湧く格好なのか?」
「気にしないでください。ところで肉球は無いのですか?」
「見れば分かるじゃろ、お主らと同じ手足だ」
「そうですか~。それでもいいから触らせてもらえませんか?」
「何でじゃ!?」
「駄目ですか?」
上目遣いで懇願するセラム。半年以上女をやっていて、初めて使う武器だった。
「いや、別に断る理由もないが」
「じゃあ手の平を出して下さい。ぷにぷにーっと」
「ん……何やらくすぐったいの」
チカの手はスベスベで白玉のように柔らかい。自分の手も似たようなものの筈だが、自分を触ってみてもこんな至福は得られないのだ。不思議なものである。
「頭撫でてもいいですか~?」
「何かお主さっきまでと性格違わんか? 私が捕虜だと思って……って有無を言わさんなお主!」
耳がへたっている頭に手を伸ばす。
(ああ、実家で飼っていた犬を思い出すなあ。こうやって頭をマッサージしてあげると気持ち良さそうに目を閉じていたっけ)
指全体を使って耳の間から後頭部にかけて優しく撫でる。耳がたまにピクピクと動く。尻尾がふぁさぁ、と音を立てて地面を撫でた。チカは手を振り払おうとはしなかった。
昔飼っていた犬もこんな風に大人しくしていた。今思えば落ち着いた性格の犬だったのだろう。昔を思い出し手が無意識に下に伸びる。首から背中を経て、腰に手が届こうかという時にチカが悲鳴と共に飛び退いた。
「お、おおおおお主、何をしようとしておるっ。まさか本当にそのケがっ」
「あいや失礼、そんなつもりは無かったんですが、撫でてるうちについ」
セラムは言ってから言い訳にもなっていない事に気がついた。
チカの毛が逆立ち、がるるーっと唸っている。
これはいかん、と慌ててその場を取り繕おうとする。手をばたつかせながら早口で捲し立てる。
「チカ将軍は鎧を着けないんですね、戦場で将が自ら突撃してくるだけでもとんでもないのに鎧も無しで危なくないんですか?」
「鎧なぞ着けていたら動きが制限されるじゃろ。重いし邪魔だ。我らの強みはその身体能力を活かした素早い動きだからな。防具は攻防一体の手甲で十分。人狼族は自己治癒能力も高いから少々の怪我はすぐに治るしな。それに」
チカは胸を張って続ける。眠そうだった目が爛々と輝いた。
「将は先陣を切ってこそ将! 私の一裂きで皆が奮い立つ。我ら人狼族はずっとそう戦ってきた。臆病な者に部下は付いてこん」
将は臆病だからこそ務まるとすら考えていたセラムとは全く正反対なタイプだった。
確かに武器や戦術が未成熟だった頃の戦争ならばそういった将が活躍もしていた。だがそれは古代の戦いだ。そうは思うが、獣人のあの樹から樹へと飛び移り、思わぬ角度から目にも留まらぬ攻撃を繰り出す様を目の当たりにすると、そうとも言い切れない。
個人の戦闘力の幅が広すぎるのだ。英雄や大魔法使い一人で一個中隊に匹敵すると言われたら納得してしまう。
チカも今は抵抗せずに捕まっているが、本気になれば正面からセラム隊を振りきって味方に合流するくらいの事はやってのけるだろう。
セラムは納得せざるを得なかった。
「そういう将の形もあるんですね」
「まあお主には無理じゃろ。いかにもひ弱そうだしの。気を落とすな、向き不向きというものがある」
かっかっかと笑いながら縛られた手でセラムの肩をポンポンと叩く。
「おい嬢ちゃん、いくらタイショーが許してるからって限度ってものが……」
「敵襲ーっ!」
我慢と辛抱の境界を越えかけたバッカスと、掠れた声を振り絞った兵士の声が重なった。
「おっおっお?」
直ぐ様フィリーネが馬の背にチカを縛り付ける。最早動く事も出来なくなったチカが窮屈そうにぐぅ、と呻いた。
「あなたには申し訳ありませんが、こうなった以上足一本動けぬよう拘束させていただきます」
「むう、見事な緊縛術よ。本当に動かぬ」
フィリーネが縄を操っている間にセラムも自分の馬に乗る。後方では既に悲鳴や戦闘音が聞こえていた。
「逃げるぞ!」
セラムの本隊が慌てて逃げ支度を始める。休息中だったためか、夜の森の暗さ故か、足が遅い。
それでも間もなく、馬が走れるくらいに樹々がまばらになってきた。森の出口が見えたのだ。
セラムが馬の腹を蹴ったその時だった。
馬が苦しそうに嘶き、倒れこんだ拍子にセラムは宙に放り出された。スローモーションのような光景の中、矢が刺さった馬の足が見える。
落馬した事に理解が及んだ瞬間、何とか衝撃を和らげようと身体を丸める。数瞬遅れてくる衝撃。視界が振れ、地面だけを映し出す。
「タイショオオオオオッ!」
バッカスの叫びがぼんやりと聞こえる。すぐに届く金属音。バッカスは遥か先で獣人達に足止めされていた。
地面についた耳から、味方の足音が止まる気配がする。
このままではいけない。自分を守ってここに留まれば全滅してしまう。頭ではそう分かっていても、身体がぴくりとも動かない。
全身を強く打った衝撃か、痺れだけがセラムを支配していて、末端にもセラムの意思が届かない。不思議と痛みだけは感じなかった。
セラムは息を吸おうとしたが、それすら出来なかった。肺に残った空気で必死に叫ぶ。
「ニゲロッ!」
何とか自由になった首を巡らすと、チカを乗せたフィリーネの馬が走りだすのが見えた。視線を動かし、敵三人を相手に踏みとどまるバッカスを睨む。
(お前もだ!)
敵の背の間から覗くバッカスの目が合った。セラムの意図を察したのだろう。バッカスが悔しそうに身体を震わすと、一転敵を振り払って遁走する。
それを見届けた後、セラムの視界は黒に閉ざされた。




