第五十七話 逃げるに如かず
昼夜を問わぬ突撃は五日間続いた。残る塹壕線も最終ラインを残すのみ、兵は皆疲れ果て、矢の残数も糧秣も心許ない。防衛は限界を迎えていた。
「何故だ、何故敵はあの巨体で兵站を維持できる?」
お互い異国の地への遠征、条件が同じなら規模が小さい此方の方が兵站管理は楽な筈だった。そう、条件が同じなら。セラムはその事実に気付こうとしない。いや、気付きたくなかった。
「そりゃああちらさんにとってここは敵国ですからねえ」
バッカスの言葉が容赦無く突き刺さる。敵にとってここは侵略すべき土地。戦後の復興統治を見据えた戦略でもなければ略奪し放題である。
加えて人数の差。密集隊形で戦場に投入できる人数が二千人として、単純計算で十回は突撃できる。略奪した食糧に十分な交代要員で気力、体力共に充実した状態で再び突撃してくる。
しかも此方は追い込まれれば追い込まれる程人員の余裕がなくなり、糧秣の確保は難しくなる。結果は火を見るより明らかだった。
――いや、それどころか。
セラムは考える。敵国から人を攫い、財を奪い、土地を収奪する事によって国体を維持する戦争経済こそがグラーフ王国の大戦略なのでは。だとすると今の状態はまずい。最低でも拮抗しなければ。もしかしたら負けなければいずれ敵の息の音が止まる? いや、戦争状態こそが敵の心臓を動かしている元だ。だとすると……
「……ショー、タイショー!」
バッカスの声に現実に返る。いかんいかんとセラムは首を振る。机上の戦略より今は現状の戦術だ。
「セラム様、鷹が戻ってまいりました」
フィリーネが腕に鷹を乗せて陣幕に入ってくる。鷹の足に括りつけていた手紙を机の上に広げる。
「ヴィレム殿一行は無事ゲルスベルクに到着したそうです。此方の手紙は如何致しましょう」
やっと来たか、セラムは目を瞑る。何もかもが遅すぎた。いや、此方が崩れるのが早すぎた。
今から援軍が来てもこの陣地は持ちはしない。かといって援軍を送らせなければ此方は完全に瓦解する。それは足止めもできず敵に攻城戦を許す事になる。
「事実のみ端的に書け。交戦して五日目になり、押されているこの現状をだ。要望や希望、推測や展望は書かなくていい」
それは判断をゼイウン側に委ねるという事だ。どのような判断をされても恨みませんが此方は援軍の役割を果たしましたよ、と暗に記しているのだ。
後は残された手札でどうにかするしかない。
兵は疲弊しているものの損耗は少ない。近接武器はあるものの矢は殆ど使いきってしまいそれぞれの兵の手持ち分位しかない。防御陣地はほぼ崩壊。馬やその他の備品は無傷。
相手には大分打撃を与えたと思うが攻城を諦めさせるには至らない。敵の死体は人間ばかりで、人狼部隊は来なかった。将軍が率いる虎の子の部隊を引き出す事は出来なかったわけだ。そして今セラム隊を三日月状に包囲しかけている。
まるで釣られているようで気分が悪いがここは乗るしかない。
「敵の包囲が薄い森に逃げこむ。隊を百人ずつに分け各個に逃げるぞ。山の手前を合流地点とし、各々の判断でそこを目指せ。一度引き、戦力を再集結させ挟撃作戦に備える」
兵法三十六計の走為上、勝てそうにない時は逃げの一手である。
「ただでは逃げん。次の一手に繋がるよう兵の損失は避けるぞ」
「タイショー、我々は先に……」
バッカスの言葉を手で遮る。
「相互に援護して最後の一兵まで見捨てない。僕らも援護に加わるぞ」
「それじゃあ逆に損害が増えますぜ。それにタイショーに何かあったらこっちの負けなんですよ」
「黙れ!」
戦略としてはバッカスの言う事は正しいのかもしれない。だがダリオに見捨てられたヴィグエント退却戦の兵と自分の兵が重なる。過去に抱いた嫌悪感がそっくりそのまま自分に返ってくる。
なんて厄介なんだ。過去と自分のエゴが嬉々として足を引っ張るなんて。
「真っ先に将が逃げれば兵の士気は崩れる。見捨てられた兵は僕を恨み、それを見た兵は次は自分の番かと嘆くだろう。全員一丸となって逃げる兵を助ける。ましてや僕らが一番元気なんだ。だから僕らも援護に加わり、誰も見捨てない。これは厳命だ」
きっと僕は甘いのだろうな、セラムは思う。
そのうち足元を掬われるぞ、もう一人の自分が言う。
けれど。
「もう約束は破らないよ。沙耶」
かつて沙耶とした「守る」という約束。二度と果たされることのないその約束は自分の周りの人間全てを対象に広がり、呪いとなって歪にセラムの心を縛っていた。
穴だらけの地面を一組の男女が興味深そうに眺める。
男の方は、隻眼の軍師ホウセン。軍服をだらしなく着崩し、とても偉いようには見えない。だがその眼光は鋭く、痩せ型ながら筋肉質なその体と重心の安定した佇まいはまるで隙がない。
女の方は人狼将軍チカ。通り名が示すように人狼族であり、小さい体に狼の耳と尻尾が生えている。その気怠げな目は感情の起伏が小さいように見えるが、戦闘となると人が変わったように激しい性格になる。
ホウセンは塹壕をしゃがみこんで覗き見、無精髭の生えた顎を擦る。
「こいつぁ興味深いな。是非敵の大将の顔を拝んでみてえ」
「ふむ、この防衛には苦労させられたからな。敵は森に逃げ込んだようだし、私はこれから奴らを追うが」
「おう、チカちゃん自ら行くのかい? まあ今更心配はしねえがあんたもよくやるね」
「当然だ。森の中ならば我ら人狼族の本領であり、我が部族を動かすならば族長の私が先陣を切るのが人狼族の流儀」
表情は変わっていないが、尻尾がふぁさふぁさと揺れている。感情がどうしても表れてしまうのだ。
「ならできれば敵の大将は生け捕ってきてくれよ。こいつを作った奴と話がしてみてえ」
「うむ、承知した。私も気になるしな」
そう言って走り、跳び、あっと言う間にチカの姿が見えなくなってしまう。
ホウセンは軽く口笛を吹きその動きに感嘆すると、立ち上がって敵が逃げ去ったという方向を向いて呟く。
「さて、俺の予定を狂わせた張本人、セラム・ジオーネとやらは今どんな奴かねえ。俺の記憶が確かならそんなバケモンみたいに有能ってわけじゃなかったんだが、いやはや楽しみだねえ」
その呟きは風に消え、誰の耳にも届く事はなかった。
森の中を兵達が駈ける。セラム達は中隊規模に分かれて逃げていた。馬はセラム率いる本隊に全て集め、バッカスとフィリーネがセラムの護衛をしながら追手を追い払ってきた。
逃げはじめて初めての夜。
夜の森を行軍するのはあまりに危険というのと、兵達の疲労が限界を迎え、足を止めて休息する事になった。
火が焚けないので各自持ってきた携帯糧秣を頬張る。セラムは周りの兵士に持っていてもらったそれを広げると、その粗末さに辟易する。
(そういえば今まで保存食に手を付けるような行軍はしてこなかったな)
初めて食べる軍の携帯糧秣。まずはクラッカーらしい黒い塊を手に取り口に入れる。
ガキッという音がした。
「硬っ! 何これ噛めにゃい……」
岩のように硬いそれを、なおもガジガジと歯を立てるセラムに苦笑しながら隣の兵士がセラムに話しかける。
「少将、これは水に浸してふやかして食べるんです。そのまま噛んでも歯が欠けるだけですよ」
兵士が実際に食べてみせる。セラムもそれにならって口に含むと、漸く味らしいものが舌に染み渡ってきた。
……不味い。
栄養がありそうなものを適当にぶち込んで粉状から混ぜ固めたようなそれは、苦い上に様々な物が混ざって黒になったような味をしており、泥を食べた方がマシに思える。硬すぎて噛まずに飲み込む事すらできないのが更に地獄だ。
うえー、という表情が面に出ていたのだろう。兵士が笑う。
「不味いでしょう。これは誰にも不評でしてね、こちらの干し肉は結構いけますよ」
そう言ってセラムに何枚か重ねた干し肉を渡す兵士。
確かに干し肉は塩気が効いていて美味かった。だが携行食の中でも人気という事は貴重な物に違いない。セラムが兵士の方を見ると、彼の広げた布の上に干し肉はなかった。
「これは君の分も入っているのだろう?」
「気にしないで食べて下さい。俺の分は要りません」
「莫迦を言うな。将だろうが兵だろうが食べる物に差は要らん。しかも君の方が体も大きく肉体労働だ。君の分は君が食え」
なおも遠慮する兵士に干し肉を押し付ける。セラムには身分の差という意識がない。それどころか自分なぞ底辺の労働者だったのだから気持ち的には寧ろ兵士側だとさえ思っている。
そんなセラムだからこそ兵士達は命の賭け甲斐があると思うのだろう。バッカスとフィリーネは温かい目でその光景を眺める。
「ところで戦闘糧食は改良しなきゃならんな。もうちょっと美味くないと疲れた体では食う気力も湧かん」
確か欧米の軍隊にはフィールドキッチンというものがあったな、自衛隊では野外炊具と言ったか。今度糧食調理馬車とか考えてみようか、などとセラムが思索する。
極限状態に於いて食事の問題は一番重要だとセラムは思う。前線の補給優先順位も武器より上に糧秣を置いている。だが届けられた糧食の味がこれでは兵士の精神が折れてしまうだろう。
まあ拘り過ぎてイタリアのように食事に偏執するのもどうかとは思うが。
彼の国の軍隊は弾薬よりワインの方が貯蔵が多いとか、砂漠でパスタ茹でた挙句水不足で投降とか、捕虜にもフルコースの食事をだしてあげたとか色々なジョークが多い。これらはあくまで話半分の都市伝説として聞いておいた方が良いとは思うが、一方で美味しい戦闘糧食の為にフリーズドライ製法を開発したという変態的技術のジョークもある。もっとも、本当にその技術を開発したのはアメリカらしいが。
何やっても怒らないが食の事に関してだけは怒ると言われる現代日本人にも、多少分かるところもあるのだ。
食欲が満たされれば次は睡眠欲だ。しかしその前に風呂に入りたい、セラムは思う。
この前水浴びしたのはいつだったか、村の宿に泊まった時だから一週間程前だろうか、流石にここまでくると鼻が慣れてしまい臭いかどうかすら分からない。髭が伸び放題のバッカスの顔を見て、女で子供だったから多少はマシだろうかとセラムは顎を擦る。
しかし風呂はまだ我慢するとはいえ、森の中で野宿というのは嫌なものだ。寝ようとしても耳元で虫がガサガサいっているのを聞くと背筋がぞわぞわしてくる。ハンモックでもあれば少しは不快感も軽減されるだろうか、と持ってきた投網を探すが、兵を地面に寝かせ一人だけ特別扱いにするのは気が引けた。今度から山林を行軍する場合には野戦道具に網も追加しておこうかと本気で考える。
仕方ない、今日のところは我慢だ、と寝袋に入り込む。本当の戦場の辛さを垣間見たセラムであった。




