第五十六話 的中勝負
結局端材で二つ的を作っての射撃勝負となってしまった。休憩中の兵達が取り囲んで完全に見世物になっている。
セラムは最初止めようとしたが、二人のギラギラと燃えるような目を見て諦めた。二人共この状況下に於いて、中央で待機しているというのは相当鬱憤が溜まるものだったのだろう。
「まあ兵達のガス抜きにもなってるようだし、いいだろう」
兵達には丁度良い余興のようで、どちらが勝つかと賭けをする輩もいる。最早咎める気力も失せたセラムである。
「じゃあ的から二十五メートル離れて順番に射つ。三射勝負だ」
現代の弓道であれば所謂近的は、的までの距離が二十八メートルと定められている。三メートル近いといってもこの世界の弓は現代の和弓ほど性能は良くない。普通は二十メートル先の的に当てられたら上等である。
「いいけれど、どちらも全射的中したらどうするの?」
当てて当然という態度のフィリーネ。あくまで強気だ。
「その時は矢が中央に近いほうが勝ちって事にしようじゃねえか」
「いいわ、どちらが先に射つ? 私はどちらでも良いけど」
「じゃあ俺から射たせてもらうぜえ。タイショー、合図をお願いします!」
バッカスはロングボウを片手に定位置につくとまるで猛牛のように足で地面を蹴る。
セラムは半ば呆れながらも指揮棒を振る。
バッカスが矢をつがえた瞬間、まるで稲妻が走ったかのような錯覚を覚えた。無造作に見えて安定した重心、力強い引き、そしてその気迫がそう見せたのである。
まるで銃声のような乾いた音、気付いた時には矢が的の真ん中を射抜いていた。
たった一射で騒ぐ兵達を黙らせる剛の弓。今まで呆れ気味だったセラムでさえもそれに呑まれた。一人を除いては。
「言うだけのことはあるようね。次は私の番」
フィリーネはメイド服の上に胸当てに弓懸に装甲を着けたような特殊な籠手、鉢金を着けていた。「これがないと胸が邪魔で弓を射られません」とフィリーネは胸当てを引き上げる。これで袴姿なら完璧だと思うのだが、常在メイド服はベルに限った事ではないらしい。
彼女は自分の荷物袋からやたらと大きい布の塊を取り出した。巻き付いた布を丁寧に外してゆく。中から出てきたのは二メートルを優に超す大弓だった。
「あれは和弓じゃないか」
セラムが驚く。この世界では見た事がない。芯となる木材を竹で挟んで作る複合弓で、バッカスやセラム隊が使っている一本の木でできた単弓とは造りの複雑さがまるで違う。
また、弓の中心ではなく、下三分の一程の部分を持ち手とするのが特徴で、その独特な形状は世界に類を見ない。
「予め弦は張っておきました」
和弓は弓を逆に反らして弦を張るため支度に少々時間がかかる。ここは既に戦場なので準備はしていたのだろう。
「そんな事より、その弓はどこの……ゼイウン公国では一般的なのかい?」
「いえ、これは行商人から買いました。異国の弓との触れ込みでしたが、その姿に一目惚れしまして。名を小笠原ちゃんといいます」
フィリーネはうっとりと弓に頬ずりする。どうやら彼女は弓に偏執するきらいがあるようだ。
その変態性はともかく、彼女の立ち姿は美しかった。
的の中心を見据えて、一直線上に「足踏み」する。体幹が中央に安定するように「胴造り」、落ち着いた動作で「弓構え」、腹式呼吸で軽く空気を吸い込みながら煙が立ち昇るように「打起こし」、体を引いても押し手は全く振れのない「引き分け」、震えのない流れるような「会」、その動作の中で当然あるがごとく起こった「離れ」、矢が的に当たった後でもその切れ長の目は矢所を捕らえ、姿勢を崩すこともない見事な「残心」。
それは射法八節の体現のような流麗な射だった。
ふぅー、とフィリーネが細く息を吐く。
「どうやら矢の違いで少しズレが生じたようですね。次は修正してみせます」
そこにいた全員がフィリーネに見惚れていたため、その言葉に初めて的を確認する。矢は確かにほんの少しだけ中心からずれていた。
対戦相手のバッカスでさえ「お、おう」という言葉を残すのみである。バッカスがその場にいる全員が活目せざるを得ない動の弓だとしたら、フィリーネは周りの空気すらも動きを忘れる静の弓だった。
次のバッカスの射もまた豪快だった。その目の前にあるもの全てを粉砕するような威力で放たれた矢は、的すれすれを掠って彼方へ消えてゆく。
「っかあー! 惜しいっ!」
そんなバッカスを「五月蝿い男です」と切り捨てながらフィリーネが二射目に入る。ゆったりとした動作に見えるが、気付いた時には既に矢が放たれている。
ストーン、と綺麗な音を立てて矢は中央に突き刺さる。確と有言を実行してみせた。
バッカスも負けじと弓を引く。相手がどうであれ全く動じないのが彼の強みだった。動作が崩れることはなく、更に豪快に放たれた矢は的の上辺を貫き、その衝撃で端材で作った的そのものを二つに割る。
「信じられない剛弓だな……」
これ程までの威力を持った射を小さな的に当てるところに彼の技術の確かさがある。しかし度肝を抜くという点ではフィリーネは更に上をいっていた。
枝を踏み折るような音を立てて彼女の矢が割ったのは、先程的を射抜いた矢そのものだった。
信じられない神業を見せた後も、彼女は涼し気な目をしたまま構えを解くのみ。切り揃えられた黒髪がさらりと揺れる。
「勝負ありましたね」
バッカスが表情筋を上げ下げしながら悔しそうに詰め寄る。
「的をぶっ壊したんだから俺のほうがすげえだろうが!」
「これは的中勝負でしょう。そもそも貴方二回目外してるじゃないですか」
「弓ってのは敵を倒してなんぼなの! 当たれば確実に倒れる俺のほうが強え!」
「当たらなければ意味は無いし、当たれば敵は止まるわ。それに私なら確実に急所を射抜いてみせます」
「くあーっ、ああ言えばこう言う!」
「いや、それはお前もだと思うぞ」
セラムが思わず突っ込む。
しかしバッカスも相当な手練だと思ってはいたが、予想以上。それにも増してフィリーネの弓の腕は至極だった。当初の心配も、この女性に限ってはまさしく的外れというものだろう。
「お前の負けだバッカス」
セラムの宣言を聞いて今まで無言だった観客共が興奮に湧く。たちまち二人は熱を帯びた兵達に囲まれてしまった。
「すげえよ姐さん! あんなの見たことねえ!」
「バッカス兵長もとんでもねえ! あんたがいればどんな敵だろうが怖くねえぜ!」
バッカスはもみくちゃにされ、フィリーネは顔を赤らめた兵士に詰め寄られている。
「おいバカやめろてめえら、痛えじゃねえか」
「あの、あまり近寄らないで下さい。射抜きますよ?」
こうして明るく馬鹿騒ぎが出来るのもいつまでか。明日は今日より戦況が厳しくなるだろう。セラムは願わずにいられない。
どうかこの者達が皆無事で帰れますように。
「当たる」の表記について。
通常弓道では「中る」と書きますが、この勝負は弓道ではないので、馴染みやすい「当たる」に統一しました。




