第五十四話 衝突
足音が濁った。異変にいち早く気付いたのは最前の塹壕に身を潜めていた兵士だった。
「お、おい! 奴らこっちに向かって来るぞ!」
前列が騒ぎ出したと同時にセラムが即座に指示を飛ばす。
「落ち着け! 第二案に移行! 射撃用意!」
最早隠れても無駄とゆっくり立ち上がる。態度だけは泰然としつつ、口元を手で覆い隠した。
何故だ。何故こうなった。およそ見えるような状況ではなかった筈。
作戦は失敗だ。いや、まだ第一案が潰れただけ、このまま続行だ。
だがこれで背後を突いて敵の隊伍を乱すことも、距離を稼ぐ事も出来ない。稼げる時間が一日分は短くなってしまった。挟撃まであと何日持ちこたえればいい?
「くそっ」
誰にも聞かれないように小さく毒づく。幾重にも張られた塹壕の結界、その奥でセラムは今出来る事を思索していた。
「塹壕に槍を立て掛けて並べろ。見せかけだけでも障害になる。突出してきた奴には集中砲火を浴びせろ」
「はっ、集中……?」
伝令兵の聞き直しをセラムは咎めなかった。この世界、砲がまだ無い。正確にはセラムが作った五門しかないのだから砲火などと言っても通じるはずがない。
「そいつに一斉射撃をして敵の戦意を削げ。勇んで向かってきたらこうなるぞと思い知らせてやれ」
「はっ」
伝令兵が走り去ったのを見届け、セラムが地図に視線を落とす。
塹壕による陣地は緩やかな曲線を描きながら迷路のように複雑な多重構造になっている。迂回しようとすれば次の陣から射撃が浴びせられる。ちょっとした高台になっている所為もあって弓の効果は絶大だ。半円状に覆っているから簡単には回りこむ事も出来ない。
この穴蔵に籠っていれば暫くは持つ。少なくとも補給が滞らなければ、矢と糧秣さえ尽きなければ。
「今のうちに輜重兵に糧秣を調達させろ。狩り、採集、買い付け、出来る事は全てやれ。矢を買い付けられるならそれもだ。手が空いた者は前線の兵に矢を運んでこい。カル……」
カルロ、と言いかけて気付く。彼は遠くノワールの地にいる。
(こんな時にカルロがいてくれたら僕の作戦の穴を埋めてくれるんだが)
目の粗い網のような作戦を補完し、セラムの指示を現場に適合するように調整してくれる副官がいない。
彼がいたならばこんな事にはならなかった、そう思えてならない。人狼将軍、そう聞いてワーウルフの特性を指摘し、もう少しましなやり方を提案してくれたかもしれない。
だが火蓋は切られてしまった。
(現実を見ろセラム、ここは既に戦場だ。副官は不在、敵に先制を許し、こちらの陣地は構築されている。やれる事は、やるべき事はここで拮抗状態を維持しゲルスベルクからの増援を待つ)
「タイショー、大丈夫ですかい?」
バッカスが心配そうな声をかけてくる。いつの間にか顔が強張っていたようだ。
セラムは口角を吊り上げ言った。
「大丈夫だ、心配ない」
闇が晴れ、戦況が確認できるようになると兵士達は皆安堵の息を吐いた。
いつの間にか敵は引いていた。一日目を持ちこたえたのだ、そう言って喜び合う兵達。それに混じる贅沢はセラムには許されていない。
これからの敵の動向が確定できない。無視してゲルスベルクに向かったのか、そう見せかけて釣り上げる罠なのか、態勢を整えて再び押し寄せてくるのか。
少なくとも今視界内にはいない。それが逆に不安を呼び起こす。
「兵達に休息をとらせろ。飯を食ったら見張りを残して今のうちに眠るように」
こんな時に現代であればどうするだろうか。航空偵察機を飛ばすか、それ以前に軍事衛星からの映像で丸見えだろうか、何にせよこんな状態にはならないだろう。
例え陸路で偵察部隊を送っても帰ってくる公算は低い。こんな平野で警戒する敵を肉眼で確認して無事で済むわけはないのだ。無駄に兵を損耗する誘惑は振り払わねばならない。
敵の増援部隊が追い付いてくるにはまだ何十日も猶予がある。敵がそれを待っているならばゼイウン側の増援も交えた大戦になりかねず、お互い消耗戦の様相を呈すだろう。戦略的に見てそれはない。恐らく敵の増援部隊は都市を制圧した後の抑えの部隊。都市の攻略自体は現状の戦力でやるつもりの筈だ。
ならば敵将チカは先に此方を潰しに来るだろう。ゲーム上での彼女の性格から考えても、突撃し粉砕する勝ち気な、悪く言えば猪突猛進タイプだった。
セラムはここで待ち構えることに決めた。常識的に考えて背後を脅かされるリスクを放置して攻略目標に向かう筈がない。
果たしてそれは正しかった。
夕焼けが地平線を朱く染める。溶けるように落ちてゆく太陽が全てを燃やしてしまうようだ。
「あの炎が敵を全て焼き尽くしてしまえばいいんですがね」
詩的な気分もバッカスがいると殺伐とするな、と苦笑する。あの日が落ちる方向に敵がいる。
「奴らは来ると思うか?」
「当然来るでしょう」
バッカスが断言する。
「随分と自信があるんだな。何故そう思う」
「匂いで分かります」
「ほう、お前がワーウルフだったとは知らなかった。確かに野獣のような顔をしているものな」
「どっちかってえと金の鬣のワーライオンの方が俺らしいですねえ。そうじゃなくて戦場の匂いがするんですよ」
「成る程、勘というやつか」
セラムが西に目を凝らす。日の朱に黒が混じって見える。敵が夕日を背に進軍してきたのだ。
「確かに、お前の勘はよく当たる」
戦鼓が打ち鳴らされる。兵士達が飛び起きて戦闘準備を始める。
セラムは己の不利を悟った。逆光、そして日が落ちきってしまえば再び闇が降りる。弓の効果は著しく減少してしまうだろう。
「敵将は戦術というものをよく理解している。畜生め」
戦場が矢羽の風切り音に包まれる。近づく敵をひたすらに射落とす。それでも敵の勢いは衰えることがない。敵兵にはたった一つの命令が下されているのだろう。「突撃せよ」と。
敵が段々と戦場を侵食してゆく。
敵はあまり弓を射ってこない。弓を重要視していない部隊という事もあるのだろうが、弓の性能が違うのだろう。散発的に射ってくる時の様子を見るに、此方の弓に比べて相手の弓は射程距離が短い。ひたすらに弓を重要視したセラムとは対照的だ。結局弓を引き絞る時間を走ることにあてた方がいいと判断したのだろう。途中からは全く弓を射ってこなくなった。
それでも塹壕に取り付いてくる。入り込んだ敵を味方が短剣で応戦する。その頻度はじわじわと多くなっていった。
「最前列が敵と接触しました!」
「事前に伝えた通り損耗率が三割超えたら各部隊長の判断で退却を開始しろ」
「敵が迂回してきます!」
「それらの敵はぐるりと囲んだ次の塹壕線に阻まれる。落ち着いて対処しろ」
続々と届く報せに指示を返す。何時間が過ぎただろう、月が天に昇り、傾き始めた頃に漸く朗報が届いた。
「敵が退却してゆきます!」
やっとか、これで一息つけるとセラムが肩の力を抜いたその時、別の兵士が駆け込んできた。
「敵第二波を確認!」
「そう上手くはいかんか」
思わず愚痴がこぼれ出る。
最前線は立て直しもままならぬ状態で交戦する。飛び交う報告の中でセラムが歯噛みする。
「持たんか……。仕方ない、第一線を放棄、第二線に援護させろ」
そこで初めて気付く。今の塹壕の形状はただ穴を掘り繋げただけ。入りやすいように内側が少し斜めになっているものの、内側から前方の塹壕に弓を射っても障害になる程に角度が深い。これでは敵に塹壕を利用されてしまう。
まずい! セラムは口元を手で覆った。
「全工兵に伝達、前線から順に内側の角度が浅くなるように掘り直せ! 第一線は作業が終わるまで死守、重要度高、手が空いている者は全員手伝え!」
言ってからしまったと思う。つい大声を出してしまったが、指揮官に焦りは禁物だ。居合わせた兵から危機感が伝わってしまう。それは伝播していくほどに強くなり、末端の兵は恐怖に晒されるだろう。
「待て」
急いで出ていこうとする伝令兵を呼び止め、セラムは口端だけ引いて歯を見せた。軽く深呼吸をして可能な限り落ち着いた声音を発する。
「工兵も必要とあらばスコップで敵を撃退しながら落ち着いて作業を進めろ。ただし兵の四割が混戦状態に陥ったと判断したら第二線から部隊長の指示で退却の合図を出せ。その時は作業が途中でも構わん、全力で退却し、第二線はこれを援護しろ」
短く返事をした伝令兵が走ってゆくのを確認した後、セラムは自分の手を見つめた。細かい震え、それは寒さのせいではなかった。




