第十二話 ヴィルフレド
それからの数日は忙しく過ぎた。地図を覚えたり鎧の着け方を教えてもらったり持っていく物を吟味したり。正直空回りしている感もあるが、何をしても不安は拭いきれなかった。
出発の日、セラムは集合時間より随分早くにアドルフォの元に向かった。初陣となれば聞くべき事も多いだろうし、想定外に備える時間も欲しかった。
アドルフォは日が昇ったばかりだというのに準備に余念がなかった。
「おはようございます。アドルフォ副将軍」
「おはようございます。おや、セラム殿、ご自分の馬は?」
ジオーネ邸には厩舎もあり数頭の馬がいた。だがセラムには乗馬の経験など無く、一日二日で乗れるようになるとは思えなかったので徒歩で付いて行くつもりだった。
「恥ずかしながら乗れませんので、歩いて行きます」
「それはいけませんな。彼に相乗りさせましょう。ヴィルフレド、こっちへ来てくれ!」
ヴィルフレドと呼ばれた青年は優しげな笑みで挨拶をする。
「気軽にヴィルとお呼びください」
「しかしご迷惑では」
「いえ、セラム様お一人にさせるわけにはいきませんしな。護衛をどうしようか考えておったところです。彼なら馬の扱いに長けていますし機転も利く、適任でしょう」
「ご好意感謝します。確かに僕の短い歩幅では足手まといかと思ってはいました」
「ではセラム様、一度乗ってみますか?」
ヴィルフレドは馬を連れて側に止まる。セラムが馬に乗るには胸の高さにある鐙に足を乗せねばならない。子供の身長には無理めに思えたが、ヴィルフレドが補助にまわりセラムの体を軽々と持ち上げる。
「っと、失礼」
ヴィルフレドのその言葉の意味をセラムはすぐには分からなかったが、尻を持ち上げたために発した謝罪だと思い至った。
(そういえば自分は今女の体だったな)
いやらしい手つきでなかったので全く気にならなかったが、次の瞬間軽やかにヴィルフレドが後ろに乗ると思ったより意識してしまう。
(結構身長差がある……。うわ、手大きい。僕の元の手はこのぐらいあっただろうか。あんまり思い出せないな。そこまで前の話じゃないのに)
馬に乗っているというのにそんな事ばかり考えてしまう。
「セラム様、下ばかり見ていないで、前を見てみてください」
ヴィルフレドの言葉に慌てて前を見て、息を呑む。
目の前に、空。遠くを見れば淡い青に鉛白の雲がたゆたっている。いつもの目線の少し下に地平線が見える。横から照らす太陽光が無限に広がる草原を碧く輝かせていた。
風がそよぐ度草花が笑うようにその体を揺らし、春の匂いをセラムに運ぶ。
「高いでしょう。私はここから見る景色が大好きなのです」
「すごい……綺麗」
元の世界では常に灰色掛かっていた外の色、それはこの世界に来た後もセラムに景色を見るということを忘れさせていた。
どこを見ても人工物のない自然の色。それがこんなに煌めいているなんて。
「歳相応の表情になりましたね」
いつの間にかヴィルフレドが器用に横から覗いていた。
「ずっと険しい顔をしていましたからね。この景色を見せたかったのです」
「そんな顔でしたか……?」
「そりゃあもう。無理が見え見えでした。今の顔の方が素敵ですよ」
ヴィルフレドが悪戯っぽく笑う。
「セラム様を見ていると田舎の妹を思い出します」
そう言った後、しまったとヴィルフレドが顔を引き締める。
「失言でした。将軍のご息女に失礼が過ぎました」
「いえ、かまいません。良ければもう少し話を聞いてもよろしいですか?」
「はい。私には歳の離れた妹がおりまして、これがまたよく懐いてくれる可愛い子なんですよ。畑の手伝いを率先してやるよく出来た妹でして。笑顔が可愛いんです」
「そうなのですか」
妹の事を話す時のヴィルフレドはその端正な相貌を崩す。実に嬉しそうなその顔を見て、セラムもまたつられて笑う。この人にも大事な人がいるのだな、と思う。
セラムはもう一度前を見て確かな決意を発する。
「生きて帰りましょう、ヴィル」
ヴィルフレドが右手を胸に引き寄せ握り拳をつくる。それはこの国の敬礼の形であった。
「当然です」