十五
「〈吸血鬼〉?」
リンゴにかじりついた蒼月は、咀嚼して飲み込み、そして冒頭の言葉を口にした。
場所はハコネ内の、様々な店が建ち並ぶ通りの曲がり角。通行と商売の邪魔にならない場所で壁にもたれかかり、リュートとリリアを前にして、彼は月華からの念話を受け取っていた。
『そう。その貴族の娘に目をつけた〈吸血鬼〉が、ハコネの周囲に来ているらしい。どうも、ここに来る途中で目に留まったみたい。何人かやられたらしいよ』
月華が言うには、街中で知り合った貴族が、ハコネ付近で〈吸血鬼〉に遭遇し、娘を狙われたそうだ。命からがらハコネにたどり着いたものの、今度はハコネから出られなくなってしまう。街の外に出れば、〈吸血鬼〉に襲われるからである。
〈吸血鬼〉。それは、〈エルダー・テイル〉時代にもいた、高レベルのモンスターである。個体にもよるが、全体的にレベルは高く、ダンジョンやクエストのボスになることも多々あった。ただし、設定上夜にしか現れなかったモンスターでもある。
また、他にも特異な能力がある。それは、吸血によるHPドレインと、回復魔法に対する脆弱性である。
つまり、吸血という技によってHPを回復し、その反面回復魔法でダメージを受けるのである。
後者の特性は、サブ職としての〈吸血鬼〉の特徴である。敵対エネミーだったモンスターとしての〈吸血鬼〉には、ゲーム時代、そもそも回復魔法を行使することはできなかった。
その〈吸血鬼〉が、ハコネの外にいる。蒼月の視線は自然、ハコネを囲む城壁に向けられた。
城壁は、昨日の夜と変わらず堅牢な姿を見せている。
「〈吸血鬼〉ってことは、今は活動してないか」
『と、思う。でも貴族達は飛行手段なんて持ってないし、そうなれば、モンスターを防ぐことができる街に日にあるうちにたどり着くなんて無理だ。確実に襲われる』
「そうなれば、貴族の娘は連れ去られ、他の〈大地人〉は殺される、か」
それは、ゲームの時のクエストのような流れだった。しかし、クエストであればやり直しが通じるが、現実である今はそれが通じない。
死んだ人間は生き返らない。この世界の自然の摂理を正しく体現しているのが、〈大地人〉だった。
「……普通なら、勝手に依頼を受けたことを怒るべきなんだろうな」
『ごめん……』
「いや、いいさ。その場にいたのが俺でもそうしただろう。待ってろ、今合流する。中央広場だな?」
『うん。じゃ、また後で』
「ああ」
蒼月の返事と同時に、念話は途絶えた。視線を上げると、戸惑った顔のリリアとリュートの視線とかち合う。それぞれの手にあったはず果物は、すでにない。
蒼月は簡潔に先程の話を説明した。
真っ先に反応したのはリリアだった。質問などを投げかけたわけではない。ただ、吸血鬼、と呟いて、うつむいてしまった。僅かに震える肩とやや青ざめた顔から、怯えているのが解った。
「悪い、リリア。怖くなったよな」
「え、いえ、あ、あ、あの、えっ、と……はい、こ、怖い、です」
こめんなさい、臆病でごめんなさい――謝罪を繰り返すリリアに、蒼月はどう言葉をかければいいか惑う。彼女が武装していなければ、いたいけな女性をいじめる男の図の完成だっただろう。いや、今でもそう見えるのだが、ましではあった。
「〈吸血鬼〉……レベルはどれくらいだい?」
対照的に、リュートは冷静だった。いつもの穏やかな笑みは引っ込んでいるものの、あくまで静かに尋ねる。この辺り、やはり最年長の面目躍如と言えるだろう。
「解りません。〈大地人〉は俺達みたいにタグを見れるわけじゃありませんから。けれど、何人かの犠牲は払ったものの、この街に逃げ込むことができたということは、そこまで強くはないかと思います」
これは、あくまで予想である。街の近くであったというのも幸いしたのだろうし、彼らの運そのものも、よかったのかもしれない。こればかりは、予想するしかなかった。
「とにかく、月華と合流しましょう。話はそれからだ」
蒼月の手の中で、芯だけになった林檎を指揮棒のようにくるりと回した。
―――
貴族の依頼は、護衛だった。〈吸血鬼〉から、自分達を守るための護衛である。
しかし、依頼は受けるがその内容は交渉で変えた方がいい、というのか、蒼月の考えだった。
「と、いうと、どういうことだい?」
リュートは首を傾げた。
場所は、待ち合わせの中央広場である。煉瓦で組まれた大きな噴水を中心とした、円形の場所だった。
日中、それも広場ということもあって、やはり人は多い。露店も数多く、買い物にいそしむ者が目の前を行き過ぎていった。
しかし、これだけ人が多いというのに、やはりというべきか、〈冒険者〉の姿はない。〈大地人〉ばかりである。
リュートの質問に、蒼月は眉間にしわを寄せた。
「今の俺達は、死角が多すぎます。ゲームの時は確認できたことが、今では確認できない。例えば、後ろを取られても、とっさに対応できません。もしもの時――〈吸血鬼〉がすぐ傍まで現れた時、即座に戦闘に移ることはできないでしょう」
問題はまだまだある。戦闘における自分達の経験の少なさ、暗闇においての戦闘の不利、死角があるゆえの反応の遅滞――あげ出したら切りがない。
今の自分達に、戦えない人間を気にする余裕は無いというのが、蒼月の認識だった。
「だったら……私達が気にせずいられる状況を考えないと。人質をとられたり、最悪殺されないような状況。まあ、〈大地人〉を連れていかなければいいんだけど、問題は……」
「俺達だけで、〈吸血鬼〉は現れるのか、だろう? 相手の目的は、貴族の娘らしいからな……かといって、その人を囮にするわけにもいかないし……」
全員、顔を見合わせる。誰もが困り顔で互いの様子をうかがっているような状態だった。
貴族は明日、出発すると言っていた。長いこと滞在していて、そろそろ帰らねばまずいのだという。聞けば、一ヶ月逗留していたようだった。もとよりそれぐらいの逗留期間を予定していたようだが、それ以上は伸ばせないらしい。そもそも、予定には〈吸血鬼〉の襲撃など想定しているはずもなく、それゆえに早く戻りたいと思っているようだった。
不安なのだろう、安全なはずのこの街にいてもまだ。それに、貴族といえど、無限にこの街に逗留し続けるだけの資金を持っているわけでもないだろう。
「……なあ、連中って徒歩で来たわけ?」
ぽつりと、ホムラの言葉が一同の間に落ちた。
それに最初に反応したのは、月華である。
「いや、従者はそうかもしれないが、少なくとも貴族は違うだろう。世界観を考えると、馬車かな。さすがに牛車はないだろうけど……あ」
月華が何か気付いたように、ホムラを改めて見た。ホムラはそれに対し、気だるげな表情のまま頷く。 そのやり取りを見ていた蒼月も、意図が解ったのかはっとしたように目を丸くした。
「そうか。そう、だよな。もうゲームじゃないんだから、この手も可能だよな」
「何だい?」
困惑した顔のリュートが尋ねると、三人は顔を見合わせて頷き合った。
代表して、蒼月が言う。
「囮を使うんですよ。ただの囮じゃ、ないですけどね」
―――
暗い夜だった。月も星も、黒い雲に覆われた夜。光源らしい光源も無い中、魔法の光を頼りに進む一行があった。
馬車が一つ、それを牽く馬が二頭、その周りを、従者達が馬に乗って付き従っている。武装しているのだろうが、詳しい装備は外套を羽織っているため解らない。
しかし、そんなことは彼には関係の無いことだった。
従者の数は五人。しかし、ただの人間が幾ら集まったところで何になるのだろう。
彼はただの魔物ではなかった。誇り高かったし、その誇りに見あうだけの力を持っていた。〈大地人〉の戦士など問題にならなかったし、その辺りにいる一山幾らの〈冒険者〉とも渡り合える自信があった。
しかし、と思う。
――もっと人数を集めてくると思ったのだが。
存外少ない。十人二十人はやって来るかと思ったのだが――あの街でそれだけの数を集めることは、無理だったのだろうか。
――まあ、いいか。
彼は木の上で霧に変異する。彼にとっては造作もないことである。そして霧の状態で一行の前へ移動し、実体へと戻った。
突如として現れた闖入者に、人間より先に反応したのは馬だった。彼が現れたとたん、甲高いいななきを上げたのである。馬車に繋がれた馬など、前足を振り上げて小さく暴れる。
しかし、従者の馬はいななくだけで特別動揺した素振りはなかった。武骨な馬に乗った従者も同じく、だ。
ふと疑問に思いつつも、彼は行動を控えることはしない。細長い五指を従者に向け、魔法を放った。
五つの指先からそれぞれ放たれたのは、拳大の火球だった。大きさこそ大したことはないが、当たればただではすまない代物である。
狙うは、頭。
火球は狂うことなくまっすぐ従者達めがけて空を疾走する。突然の攻撃に、彼らに防ぐ術は無い。
無い、はずだった。
「〈護法の障壁〉」
手前から三番目にいた従者が、ぽつりと呟いた。
直後、従者達の前に水色の、鏡に似た障壁が現れる。障壁は、迫った火球を受け止め、霧散させた。
自らの魔法を防がれ、呆然とする彼の目の前で、従者達は次々と外套を脱ぎ捨て、馬から飛び降りていく。
現れたのは、予想通り武装した人間だった。しかし、種族はばらばらで、おまけに明らかに騎士ではない。
――〈冒険者〉だ。瞬時に彼は悟った。
「リュートさん!」
初手の魔法を防いだ男――和装に部分鎧、刀を携えた青年だ――が声を張り上げる。それに答える代わりに杖を短杖を持ち上げたのは、眼鏡をかけたさえない男だ。そのさえない男は、しかし、放つ魔法は強烈だった。
「〈フロスト・スピア〉!」
杖から放出されたのは、先程の火球とは全く別種の、否、真逆の性質を持つ魔法。すなわち氷の魔法だった。
ただの氷の魔法ではない。肉を斬り裂き、骨すら貫く鋭さを持った。冷たき刃である。
それが、まっすぐ彼を狙い撃つ。
〈冒険者〉と違い、彼にそれを防ぐ術は無かった。あるはずもなかった。
回避することすら叶わず、せめてと身体を小さくさせた彼の腕を、脚を、胴を、抉っていく。流れる血を感じながら、彼は自身の迂闊さにぼぞを噛んだ。
―――
成功した、と月華は直感した。作戦は、見事はまったのだ。
目の前には、上等そうな黒い礼服とマントを無残にぼろぼろにされ、ざくざくに身体を斬り裂かれたひとりの人間の男――否、〈吸血鬼〉。姿こそ人間と大差無いが、現れ方といい、先程の強力な魔法といい、ただの人間でないことは確かである。
文字通りぼろ雑巾のようになった〈吸血鬼〉。これで終わってくれるならいいが、そううまくいくほど、この世界は甘くはないだろう。
事実、普通なら立っていられないだろうほどの傷を大量に負ったにも関わらず、彼は倒れなかった。
血まみれのまま、直立していた。
「まさか」
ぼそりと、男は低く呻いた。黒々とした、怨嗟の声だった。
「〈冒険者〉を雇うとは、思わなかったな……そうか、おまえらは昨夜ここに来た……それ以外の〈冒険者〉がいなかったから、完全に油断していたな」
ぐじゅぐじゅと。
肉の動く音がした。
顔をしかめる月華達の前で、男の傷が治癒していっているのである。
ものの数秒で、そこにはただの血まみれの男が立っていた。傷は、見る限り無い。
しかし、完全回復ではないはずである。リュートの魔法は、それほどやわではない。
しかし、自己回復するとは、レベルはいかほどなのだろう。
月華は吸血鬼のタグを確認して、目を見開いた。何と彼のレベルは、八十二である。おそらくはパーティーランクだろうから、強敵であることは疑いようがなかった。
「全員馬車を背に隊列、蒼月を先頭に! 蒼月、リュートさんのヘイト回収して!」
月華より先にタグ確認を行っていたであろうホムラは、素早く指示を出す。それに従った蒼月が〈武士の挑戦〉を使い、リュートに向いていただろう敵愾心を自分に向けさせる。そのことで、〈吸血鬼〉の射抜くような視線は、リュートから蒼月に向けられた。
「リリアは蒼月の補助、リュートさんは火力下げて! 蒼月、月華、攻撃頼んだっ」
ホムラの指示に従い、月華は吸血鬼に肉薄する。高レベルとはいえ、十近く下回る吸血鬼の反応速度より、月華の攻撃速度が速いのは、もはや当然と言える。
月華の黒き刀は、やすやすと吸血鬼の腹を裂いた。
「っ……!」
それによって顔をしかめるのは、しかし、月華の方だった。
戸惑いが、無いわけでは無いのだ。たとえモンスターと言えど、明確な殺意と敵意を向けているにしても、倒さねば倒されることが解っていても。
人の姿をした者を殺すのは、とても覚悟のいることだった。
死んでも生き返る〈冒険者〉とは、違うから。
「……っ、〈キーン・エッジ〉!」
それでも、月華は迷わない。
惑いと迷いは違うのだ。
戸惑いとためらいは違うのだ。
やるべきことを見失うほど、月華は今現在の状況に、絶望しているわけではない。
〈魔盗賊〉によって手に入れた〈付与術師〉の魔法で、月華は兄の攻撃を補助する。刃に魔法を宿らせた蒼月は、回転するかのような刀さばきを見せた。
剣先に、炎をまとって。
「〈火車の太刀〉!」
打刀と小太刀が赤い線を描いて旋回する。そのたびに治りかけていた男の身体を裂傷で多い尽くしていく。蒼月の攻め手が止んだ時には、先ほど以上に傷だらけな吸血鬼の姿があった。
レベル八十二とはいえ、これで六割がたの体力を削ったはずである。予想よりやや手間がかかったが、想定の範囲内でしかない。あとは、月華とリュートがそれぞれ攻撃をしかければ、討伐完了である。
しかし、高レベルのモンスター、〈吸血鬼〉。そこらのモンスターとは、やはり一線を画していた。
否、これは〈大災害〉――現実化した世界だからこそ起こりうることだった。
彼は、考えるのだ。思考し、理性的に行動するのだ。だから、本能のまま、無意味にあがくことをよしとしない。
「あ……!」
一同の目前で、〈吸血鬼〉はその形を失った。しかし、それは彼が敗北したからではない。そもそも、灰になって姿を失ったわけでもない。
彼は、霧に変じたのである。
「後方注意!」
蒼月の呼びかけに、後陣の三人は身構える。しかし、〈吸血鬼〉の方が速かった。
「! ああっ」
リリアが悲鳴を上げて吹き飛ばされた。障壁は無惨に砕け、無様に地に倒れ伏すことになる。
そして、リリアがいた場所には、血まみれの〈吸血鬼〉の姿。
「っの!」
ホムラはとっさに刀を振るうが、ひらりと回避されてしまう。そのまま攻撃に移るかと思われた〈吸血鬼〉は、予想に反して馬車に飛び乗った。誰もが硬直する中、〈吸血鬼〉は馬車の天井部分を拳で破壊する。
もとより、彼の目的は貴族の娘だった。彼女さえ手に入れればこの場を離脱してもいいのである。
〈吸血鬼〉は自らが空けた穴を覗き込んだ。中には、突然のことに怯えて震える貴族の娘とその父がいるはずだった。
父の方の血を吸い付くし、傷を癒して娘と共に霧となって消える算段を立てた〈吸血鬼〉の目に映ったのは。
「無駄ですよっ」
差し向けられた、杖だった。
「な、なっ!」
馬車の中には、貴族の父娘はいなかった。代わりにいたのは、緑の髪の少女である。武装した、ただの人間ではない気配を持った少女。
「馬車には、フィンしかしかいませんよっ」
少女は--フィンは、勝ち誇ったように言い切った。




