一
まるで雲の中にいるようだった。上下ははっきりとせず、足元は泥沼を踏んでいるようにしっかりとしない。意識はあるようで無く、無いようである、そんな境界線を漂うようなものだった。
全てが曖昧模糊の中、確実なことは一つだけ。何かが変わる感覚。
変わるのは何なのか、それは解らない。考えるまでもなく、意識は濃霧にも似た闇に溶け込んでしまう。
目覚めた時、一体何が変わるのか。何が変わってしまうのか。解らなかったし、解りたくもなかった。
避けられることではないと、頭の片隅で漠然と理解していたけれど。
―――
手が動く。足が動く。首が動く。目が動く。口が動く。四肢全てが問題無く動くことを認識して、月華の意識はようやくクリアになった。
「……あ、れ?」
口をついて出た言葉は、戸惑いの声。それは、意識と同じく明瞭になった視界に映った景色が原因だった。
そこは、月華がいたはずの見慣れた自室ではなかった。そもそも広さに限界がある部屋に、景色などという上等な言葉が使われるはずがない。
目の前に広がっていたのは、見たことはない、しかし見慣れている、そんな矛盾を月華に感じさせる風景だった。
廃墟となったビル、そこに巻き付くように生える植物、現代都市に置いては珍しい、澄んだ青空。
〈エルダーテイル〉の世界が、そこにあった。
「え、え、え? うそ、嘘、何で……」
どうしてゲームの世界が、と呟くこともできずによろめいた月華の腰から、がちゃりと金属音が上がった。恐る恐る視線を落とすと、風景同様、見たことは無いが見慣れてはいる二振りの刀が腰の左右に佩かれていた。
刀と言っても、その形状は日本刀と西洋の刺突剣を混合したようなものである。鞘に収まった刃はやや広刃ではあるものの、反り返り、刀特有の片刃造りのようだ。しかし鍔は無く、代わりに装飾の美しい銀の護拳が付属していた。柄も同じく芸術品のような見た目の柄で、柄と護拳だけなら洋刀と言っても通るだろう。その刀身が黒曜石のように黒いことを、月華はよく知っている。
月華は慌てて自身の服装を確認した。
黒のゴシックドレスを動きやすく、もっと言うと戦闘用に改造したような装束。胸元の大きな青いリボンやウエスト部分のコルセット、ふんわり広がったスカート、レースの付いたタートルネック――全て、着たことは無いが見覚えは過ぎるほどあった。
当然と言えば当然で、そのゴスロリめいた服は、彼女がゲームのプレイキャラクターに着せた装備なのだ。見覚えが無い方がおかしい。
「……冗談じゃない……」
月華は剥き出しの肩を、レース生地が広がる袖と金属籠手で飾られた腕でさすった。
信じたくもないが、どうやら自分はゲームの世界に入り込んだらしい。遠くなる意識の中、とりあえず彼女は結論に至ることはできた。
何の解決にもなっていないことは、言うまでもない。
―――
しばらく呆然としていた月華だったが、しかし冷静になるのは早かった。
周りには自分と同じような人間がいたのが、理由の一つだ。
自分と同じ人間。つまり、MMORPG〈エルダーテイル〉の世界に飛ばされたらしいプレイヤー――〈冒険者〉である。皆鎧甲冑であったりローブ姿であったり、剣を帯びていたり杖を手にしていたりしている。まさに〈エルダーテイル〉のコンセプト、剣と魔法の世界にふさわしい様子だ。
種族も、ヒューマンだけではなく、エルフやドワーフなどファンタジーらしい者達のオンパレードだった。〈エルダーテイル〉独特の種族である猫人族や狐尾族、法儀族もいる。ハーフアルヴや月華と同じ狼牙族はヒューマンと見分けが難しいため判別できないが、おそらくいくらでもいるだろう。
しかし、中身は平和な現代を生きる日本人だ。突然のことに皆紛糾していた。
「な、何だよこれぇ!?」
「嘘だろ……何でゲームのキャラに?」
「おい、夢だよな? 俺、部屋でゲームしてただけだろ!?」
「ミナミの街? 〈守護騎士〉って……ふざけんなよ!」
うずくまり、うつむき、頭をかかえ、弱々しい叫びを繰り返す〈冒険者〉達に、同じく〈冒険者〉である月華は内心怯える。しかし、どちらかと言えば肝の据わった人間である彼女は、すぐさま頭を切り替えた。
まずは、現状。身体が問題無く動くのはすでに確認済みだ。装備も、見る限り欠如は無い。何度も見た――〈エルダーテイル〉における己のプレイヤーキャラ、狼牙族の〈盗剣士〉月華だった。
本当にゲームの世界に来たんだ――月華は一瞬塞ぎ込む。しかし頭を振り、次にステータスを確認することにした。
「……って、どうするんだろ」
月華は困惑したように眉根を寄せた。実際、困ってしまう。何せ、パソコンを前にした時とは違ってマウスもキーボードも無いのだ。
しばらく考え込んでいた月華だったが、唐突に視界にステータス画面が浮かび上がった。
本当に突然だった。あまりにあっさり出てくるものだから、月華は面食らってしまう。彼女がしたことと言えば、ステータス画面をイメージしただけなのだ。
とりあえず視界に浮かぶ自身のステータス画面を見たものの、変化は無いように思えた。能力数値を完全に覚えているわけではないが、少なくとも目に見えた変化は無い。
装備も、ゲームの時と同じである。月華が着ている戦闘用ゴシックドレス――〈黒姫のパーティドレス〉も、洋刀のような二振りの太刀――〈双刀・夜刀神〉も、何ら変化は無い。
苦労して手に入れた幻想級アイテムが無くならなかったのは嬉しいが、問題はそこではない。月華は更にメニューを開いた。
視線を下ろしていき、目的の項目を探す。しかし目的の項目――ログアウトとGMコールの項目は、無くなっていた。
ログアウトも運営連絡も無理か、と、月華は顔をしかめ、次にフレンドリストを開いた。こちらは問題無く作動しそうである。
探すのは、直前まで一緒にいた仲間だ。一番上にある名前を見、念話をかけた。
数秒の間の後、念話が繋がる。相手は、月華の兄である蒼月だった。
『月華? 月華かっ。よかった、無事か』
「うん、まあ無事っていうか何というか……兄さん、ひとり?」
『ああ。ホムラもリリアもいない。多分ばらばらだな。けどさっき確認したら、ふたりともミナミにいるみたいだ。月華もミナミに?』
「うん。そうなると……一番最後に訪れたプレイヤータウンにいるのかな、みんな」
『だろうな。それより、合流しよう。トランスポート・ゲート前はどうだ?』
「解った。リリアには私から連絡するから、兄さんはホムラをお願い」
『おう。じゃ、また後でな』
ふつりと念話が途切れる。月華は安堵のため息をついた。
仲間が全員無事で、しかも同じプレイヤータウンにいるというのはありがたい。
「……よしっ」
月華は一つ頷くと、リリアに連絡を入れるべく彼女の名前を探した。
―――
MMORPG〈エルダーテイル〉。二十年の歴史を持つ老舗オンラインゲームは、十二回目の拡張パックの導入が予定されていた。
〈ノウアスフィアの開墾〉と呼ばれる拡張パックは、月華の間違いではなければ今日導入されたはずである。もっとも、時差の関係で導入されたのは日本のみだ。
もしかしたら、それが関係で今回のことが起きたのではないか、というのが月華の予想だった。
しかし、走りながらでは考えはまとまらないし、何より仲間と話し合いたい。月華は黒いポニーテールをたなびかせ、目的地へ急いだ。
〈冒険者〉の身体は頑強で、全力疾走程度では息切れすることも無い。だから月華は安心して脚を急かした。
見えてきたのは、ゲーム時代でも馴染み深い建造物。プレイヤータウン同士を繋ぐトランスポート・ゲートだ。
そこでも〈冒険者〉達はあちこちにうずくまっており、その無気力な様に月華は顔をしかめるしかない。とにかく彼らを視界から追いやって、仲間を探した。
「月華ぁ、こっちこっち」
気の抜けた、その割に大きい声に、月華は顔を上げる。首をせわしなく動かすと、茶色がかった金髪の青年が見えた。
「ホォムラぁ! よかったぁ、会えたぁ」
月華は感極まって、周りの視線も無視して青年に抱き付く。嫌がられるかと思いきや、抱き返されてしまった。
彼の名はホムラ。ハーフアルヴの〈神祇官〉で、月華が兄の次に信頼するプレイヤーだ。同じギルドに所属する仲間でもある。彼とは、蒼月も含めて共にパーティーを組むことも多かった。本来の年齢は、月華より二つ年下の十七歳の高校生である。
その高校生は、やはり月華と同様〈エルダーテイル〉のプレイキャラクター、ホムラだった。
腰まである長い後ろ髪を無造作に束ね、ルビーにも似た紅い大きな瞳が印象的な美青年である。
白い狩衣に似た上衣の上から胴体のみを覆う紅い金属鎧を身に付け、黒い袴と黒い脛当てを付けた様は一見すると〈神祇官〉ではなく〈武士〉にも見える。太刀を帯びているせいで余計そう見えた。
実際、ステータスを見なければ〈武士〉と間違えられるのはしょっちゅうだった。本人は特に気にした様子は無かったが。
「おいおい兄貴の前でいちゃいちゃすんなよー」
揶揄するような口調に、月華は慌ててホムラから離れる。少し不機嫌な顔になった彼の後ろに目をやると、にやにや笑う蒼月がいた。
月華と同じ蒼がかった黒髪を肩上まで伸ばし、刃の切っ先のような鋭い切れ長の目の青年こそ、正真正銘の〈武士〉である。
漆黒の鎧の上に青い外套を身にまとい、青い柄の打刀と小太刀を帯びた姿は文字通り侍という感じだ。中性的な顔立ちも、思ったより鎧と違和感が無い。
その隣には、くるぶしまで伸ばした黒髪の狐尾族の少女がいた。彼女はリリア。職業は〈吟遊詩人〉で、この中では唯一レベル上限者ではない。レベルは58で、リアルでは月華の高校時代からの友人だ。同じギルドの仲間でもある。
ワンピースのようなピンクの皮鎧をまとって薙刀に似た槍を携えた姿は、〈吟遊詩人〉というより女戦士だ。もっとも、リリアの性格は戦士と言うにはほど遠い気弱なのだが。
「リリア、先に来てたんだ」
「うん……ごめんね、先に来ちゃって、ごめんね……」
「え……いや、そこで謝られても……」
これである。ロールプレイでも何でも無く、正真正銘の素だった。
ともあれ、直前まで一緒にゲームをしていた仲間が集まったのだ。月華は安心して自然と笑顔になった。
「みんな無事でよかった。身体は平気?」
「平気だけど……もう完全にゲームキャラの姿だよな」
ホムラは刀の柄頭を叩いた。
確かに全員、その髪の色や瞳の色、髪型などは完全にプレイキャラクターの姿だ。しかし顔立ちを見る限り、それだけではないようである。
「でもリリアの顔、リリアだ。キャラじゃなくて、中身の顔。そりゃ、ゲームキャラの影響も勿論あるみたいだけど」
月華はリリアの顔を覗き込んだ。
プレイヤーキャラだったころのリリアは妖艶な狐尾族だったのだが、今のリリアは下がった眉や儚げな面差しなど、現実の彼女と呼応しているようだった。
「兄さんも、現実の顔と同じだ。ゲームキャラは、もっと男臭い感じだったのに」
ゲームだった頃の蒼月は、精悍な顔立ちの戦士だった。しかし今は、本人のコンプレックスでもあったやや女性的な顔立ちである。そう指摘すると、蒼月は嫌そうな顔をした。
かと言って全く同じというわけではなく、ゲームのキャラの影響か、現実のそれより整っているようだった。
「それよか、身体に違和感は無いか? 現実との身長の差とか」
「私はそんなに無い。現実の身体とゲームキャラは、差は一センチも無かったと思うし。兄さんは?」
「俺も無い。けどリリアは五センチぐらいこの身体の方がでかいから、ちょっと動きにくいんだって。な」
「は、はい。ごめんなさい、心配かけて、ごめんなさい……」
リリアはうつむいた。リリアは基本的に猫背で自分に自信が無いため、そうするのが常だった。
「気にすることじゃない。慣れればいいんだし。ホムラは?」
「俺も平気。それよか大変なことになってるぞ」
「? 何が?」
「俺と蒼月が先にここに着いたんだけどさ……ゲート、動かないんだってさ」
「え……? トランスポート・ゲートが?」
月華は目を見開いた。
トランスポート・ゲートが動かない。それはつまり、別のプレイヤータウンに直接移動することができないということだ。移動するとなると、外のフィールドを移動しなければならない。しかし、アキバとミナミの間には、何十というゾーンが存在した。
「……ギルドの本拠地、アキバにあるのに」
四人はたまたま、ミナミ周辺のクエストを受けるためにミナミに来たに過ぎない。主な活動地はアキバであり、ギルドもアキバにあるのだ。できることならアキバに移動したいが、そうするには広大なフィールドを横断することになる。
〈妖精の輪〉を使えば容易かもしれないが、あれは時間や月の満ち欠けによって移動する場所が変わる。攻略サイトを見れない今、それはあまりにも無謀だった。下手をすれば、日本サーバーから弾き出されかねない。
「……どうする?」
「どうするも何も、行くしか無いだろ」
不安げなリリアと対照的に、あっけらかんと答えたのは蒼月だった。腕を組み、肩をすくめる動作は、何の気負いもない。
「さっき大将に念話で話したんだ。ここに来る前かな。そしたら何て言ったと思う?」
「……もしかして、自力でこっちに来るようにとか?」
「おう」
「……あの鬼畜眼鏡め」
ホムラはぼそりと毒づいた。しかし表情は、ややあきれ気味だ。
「んじゃあ、ギルマスのおっしゃる通り、ヤマト横断敢行しますか」
「けど、すぐじゃないぞ。まずこの身体に慣れねぇと」
「私も、槍の練習したい……」
「じゃあまずフィールド出る?」
あまりにもあっさり決まった方針は、周りのプレイヤーからは奇異な目で見られていた。あまりに明るい様は、彼らにとってありえない様子だったのである。
先の見えない現在、月華達のように『いつも通り』でいられる人間は、少なくともこの場にはいなかった。
初めましてましての方もそうでない方も(おそらく大半が前者でしょう)、こんにちは、沙伊と申します。
『アキバへの旅程』を読んでいただき、ありがとうございます。粗筋にもお書きした通り、この作品は橙乃ままれ先生の『ログ・ホライズン』の二次創作です。
私の基本的な活動は自身のオリジナル小説重視ですのでおそらくこの作品は更新が遅くなるでしょうが、ゆるーくながーくお付き合いいただきたいです。
一応この後二話連続投稿をする予定ですので、気が向いたら続きを読んでいただきたいです。
では。