選択
それはあまりにも決定的な瞬間だった。
瞬間というよりも、永遠と表現したほうがいいのか。
その日俺はまた勝利広場の地下に来ていた。
目的は無かったが、一人で家に居るのが怖かったのが理由だ。
前回行った時は奇妙な体験の事を考えなかった訳ではないが、家に一人で居ると、先日のスリが襲ってくるかも知れないという考えが頭から離れなかった。
人ごみにまぎれた方が安全だし、気もまぎれると思ったからだ。
その日は少し暖かく、分厚いコートではなく、少し薄手のコートでも十分寒さはしのげた。
天気もよく、外に出て、歩き始めると嫌が気分も忘れてしまった。
いつも行っている常連のDVD屋は地下4階にある。
日本のDVDが豊富においてあり、日本人の客が多い。
その店は俺の会社の部下に教えてもらった店で、地下のさらに地下にあって、普通なら誰も近寄らないような、薄暗く、狭い通路をくだり、これまた怪しい部屋の一室に店を構えている。
アダルトビデオも置いてあり、何度か買っては見たが、満足な品ではなかったため、それ以降は買わないことにしている。
新作が出ていたため、2枚ほど適当に選び、定員に渡す。
45元だ。
日本円にすると大体560円位だ。
日本で買うのが馬鹿らしいと思う。
ま、中には再生できないような不良品も混じっているが、わざわざ交換には行かない。
再見(zaijen)と挨拶し俺はその店を出た。
今日はどういうわけか前回みたいな込み具合は無く、人もまばらだ。
広大な地下の商店なので人がまばらだと寂し気持ちにもなる。
前みたいな変な体験もしたくないため、出来るだけ人が通らない道を選び、地上に向かうことにした。
地下2階へ向かう階段にさしかかった時、俺のすぐ後ろに何人か居ることに気がついた。
ここはあまり人が通らないはずなのだが、まったく通らないわけではなし、1階から降りてくる人も居たため、気にはしなかった。
ちょうど地下2階のフロアに着いた時だった。
上から降りてくる人もちょうど居なくなり、俺の周りには俺と、俺の後ろに居る人間だけとなった。
次の瞬間だ。
先日の奇妙な感覚がよみがえってきた。
誰も居ないため、人の動きが遅くなったのが見えたわけではないが、まったく音がしなくなり、空気が変わったのを感じたのである。
俺は階段を上るのを止めた。
前の体験の時は、人がごった返していた場所で起こったが、今回は俺の周りには後ろを歩いている人間だけだ。
俺は急に心臓がバクバクとなるのを感じ全身から汗が湧き出てきた。
額からも滝のような汗が滴り落ちる。
俺はゆっくりと後ろを振返った。
そこには先ほど俺の後ろを歩いていた人間がいたのだが、なんと、その全員の動きが止まっているのである。
俺は目の錯覚かと思い、しばらくそのまま見ていたが、やはりまったく動いていないように見える。
よく見るとほんの少しずつ動いているようだが、見た目にはほとんど分からない。
前の体験のときは、ほんの少しだけ周りの動きが遅くなったように感じた程度だったが、今回は明らかに動きが止まっている様に見える。
「何だこれ・・・」
俺はつぶやき、額から流れる汗を手の甲で拭い振り払った。
汗の雫が俺の手の甲から離れた瞬間、空中で静止したままになった。
いや、正確に言うとやはり少しづつ動いているようだ。
止まっているのでは無く動きが極端に遅くなっているのだ。
俺は目を見開きその汗の粒越しに後ろの男を見た。
その手に握っているものを見た瞬間、俺はぞっとし、腰が砕けてしまった。
実際に腰を抜かした事は無かったが、本当に腰が抜けるとはこのことかと後になって分かった。
見事にその場にへたり込んでしまったのだ。
その男の右手には銃が握られており、俺に向けられていた。
その男の顔を見て俺は又、後ろに後ずさりした。
黄 麗美から財布を盗もうとしていた、その男だったのだ。
その目は、あの時とは違い、何の感情も感じ取れない、冷たい目をしていた。
人を殺そうとする時に、こんなにも冷静で冷たい目が出来るものなのか。
怒りに満ち、憎悪にゆがんだ顔になっている方が、まだ人間としては正しいように思えるが、逆に何も感じ取る事が出来ないその表情を見たことで恐怖が更に増した。
この目を見れば、人を殺すことなど、なんとも思わないであろう事は想像できた。
しばらく足がいう事をきかなかったが、いつまでこのままの状態が続くのかもわからなかった為、のそのそと立ち上がり、階段を上り始めた。
地下1階に着いた時、俺以外の人間が目に入ったが、その人間の動きもやはり極端に遅くなっていた。
俺は頭がおかしくなりそうになった。
そんなに走ったわけでもないのに息が上がり、今にも発狂しそうになっている自分が分かる。
俺は全力で地上に向かって走り始めた。
地上に出ても、やはりすべてが同じ状態だった。
音もまったく聞こえない。
まるでこの世の全てが無くなり、俺一人だけが存在しているかのような、そんな錯覚すら覚える。
俺はついに泣き出してしまった。
発狂したように大声で喚きながら走り続けた。
何度も転び、その度にガクガクする膝を押さえながら何とか立ち上がり、まるで酒にでも酔っているかのようにふらふらになりながら、取りあえず家の方向に向かった。
頭の中で何度も繰り返す。
これは何かの罰なのか。
こんなことが実際にありうるのか。
これは夢だろう。
気がつけば「なにこれ。なにこれ」とずっとつぶやきながら、とにかく走り続けた。
というよりよたよたと歩いているといった方がいいだろう。
しばらく進み、済んでいる自分のマンションが見え始めたところで、急に全てが動き始めた。
同時に全ての音も聞こえ始めた。
急に全ての音が聞こえ始めたため、耳鳴りに近く、大音量として俺の耳に届いた。
おれは立ち止まって前かがみになり、耳を塞いだ。
それは、俺を含め、新たな世界が動き始めた音でもあった。
やっとの思いで部屋にたどりつく事ができた。
すっかり疲れ果て、何も考えられない。
ベッドまでたどり着く事さえ出来なかった。
玄関を空け、リビングに置いてあるソファーに倒れこむように寝転び、そのまま意識が遠くなっていくのを感じながら、黄 麗美の言葉を思い出していた。
「しばらく気をつけて下さい。ありがとうございました。」
その時は「うん」と返事をするのが精一杯だった。
少しも嬉しくなかったな・・・
心でそう呟きながら、深い眠りについた。
目を覚ますと外は明るかった。
一瞬、ドキッとした。
遅刻してしまったかと思ったのだ。
慌てて携帯を手探りで探し、画面を見てほっとした。
今日はまだ日曜日だ。
取りあえず、のどが以上に渇いていたので冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを出して、一気に半分ほど飲み干した。
中国の水道水は飲めない。
来る前からそう聞いていたので飲んだ事は無いが、中国人ですら絶対に飲まないというほど、危険らしい。
ペットボトルを手に持ちながら、ソファーに座った。
やはり頭に浮かんでくるのは昨日の出来事の事だ。
先日、黄 麗美が財布を取られようとしているところを未然に防いだ。
その時の男が昨日俺を殺そうとしていた。その瞬間、俺以外の全てが止まった?いや、正確には極端に遅くなった。
そのせいで、いやおかげと言ったほうがいいか、俺は命が助かった。
ま、そもそも殺すつもりだったかどうかまではわからないが。
始めておかしな現象を体験したのも同じ勝利広場の地下だった。
あの時は昨日ほど、明らかな変化はなかった。
俺は今回の現象を自分なりに考え始めていた。
最初の変化の時は少し動きが遅くなった様に見てただけだ。
自分の勘違いかと思うほど、些細な変化だった。
だが昨日は勘違いでは済まされない。
白昼夢という言葉を聞いた事があるが、その可能性はあるが、夢ではないし、幻覚でもないはずだ。
最初と昨日では何が違うのか。
最初の変化の時、俺の周りには沢山の人がいた。
だが昨日は俺の周りには俺を含め4人程度しかいなかった。
共通しているのは全ての動きが遅くなた事と、誰もいないところでは起きていないということか。
極端にの違いはあったが、完全に止まったわけでは無く、動きが遅くなった。
二回目は、一回目と違い、俺の身が危険にさらされていた。
動きが遅くなった事で助かった。
いや、助かるために、遅くなったのか。
どちらにしろ結果は変わらない。
時計を見ると12:00をさしていた。
ふと俺は黄 麗美の事が気になった。
彼女は大丈夫なのか?
俺は勢いよくソファーから立ち上がり、携帯に手を伸ばした。
この間黄 麗美から来ていたメールを履歴から探し、発信ボタンを押した。
しばらくコールがなった後、彼女が電話に出た。
俺の番号も登録してあるのだろう、「お疲れ様です」と俺からの電話であることはわかっていたみたいだ。
「今いいですか?」
あくまで業務的に話すことにした。
「はい、大丈夫です。どうかしましたか?」
彼女と会社以外で話すのはこれが始めてた。
デートに誘うわけではないので、変な緊張はしなかった。
俺があの時余計なことをしたせいで、本当に彼女が危険な目にあっていないか心配だった。
彼女の事も心配だったが、同時に、もし本当に事が起こってしまった場合、その後のことが面倒になるといった、自分への心配でもあった。
何から切り出そうかと悩んでいるうちに、彼女からしゃべり始めた。
「加藤さん、この間の件で何かありましたか?」
俺からの電話といったらそれくらいしか思いつかないのだろう、彼女のひょっとして何かあったのかも知れないと思った。
「何でわかったの?ひょっとして何かあった?」
「いえ、何もありませんが、加藤さんは何かあったのですか?」
俺は本当の事を言おうかどうか迷った。
俺が襲われたと聞いて彼女はどう思うだろうか。
すごく怖がるんじゃないか・・・
迷ったが、ほんとの事を話すことにした。
「実は昨日襲われた。」
「というか襲われそうになったという事だけど」
「ええーーーー」
想像していた神妙な反応ではなかった。
怖がっているというより、どちらかというと、恋愛の馴れ初めを聞いた時に出てくる驚きの声に近かった。
「うん、結局大丈夫だったんだけど、黄さんは大丈夫かなと、心配になって。」
「大丈夫?、何もなかった?」
「はい、私は大丈夫でしたけど・・・加藤さんこそ大丈夫だったですか」
「うん、俺は何とかなるからいいけど、もし俺のせいで黄さんになにかあると取り返しがつかないから・・・」
そういいながら、なぜか彼女を守りたいと本気で思っている自分に気がついた。
ただ、この場面でいきなり、君の事は俺が守ると言い出したら多分彼女は引くだろう。
しかし、実際彼女の身に何かあってからでは遅い。
どうしようかと迷っている内に、彼女から話かけてきた。
「あのー、加藤さん心配してくださってありがとうございます。」
「とても嬉しいです」
この時点では、彼女が俺に好意があるのかも知れないという事は思わなかった。
誰でも同じだと思うが、外国語を話す場合、普段なら使わないような、丁寧な言葉使いや、単語を話してしまうものではないか。
だが次の言葉で、ひょっとするとと思ってしまった。
「助けていただいた時、あまりうまくお礼がいえなかったのですが、本当はとても嬉しかったです。」
「加藤さんはとても勇気があります。えーと、男らしいです」
そこまで言われて完全に舞い上がってしまった。
逆に何も