始まり
それはなんとなく気がついた小さな変化から始まった。
最初、特に人が多い場所で感じた変化だった。
今俺は中国の大連に住んでいる。
もともとは日本の大手通信機器販売の会社に営業として入ったのだが、入社後、二年たった頃に自分から海外事業部への転籍を申し出た。
同じグループ会社だが、日本で販売した通信機器のカスタマーサポートを請け負う子会社だ。そこのコールセンターで客からの通信機器の障害やその他の苦情、問い合わせに電話口で受け答えをする仕事だ。
ちょうど中国が世界第二位の経済大国になった年だった。
日本の不景気に嫌気と不安を感じ、若いうちに海外の暮らしを経験するのも悪くないとおもい、軽い気持ちで転籍の希望をだしのだが、想像以上に過酷な仕事だった。
日本の不景気に嫌気と不安を感じ、若いうちに海外の暮らしを経験するのも悪くないとおもい、軽い気持ちで転籍の希望をだしのだが、想像以上に過酷な仕事だった。
朝から晩まで顧客のクレームや営業のストレス発散の対応をし、土日、祝日も十分休めない。ストレスが相当たまる仕事のため、離職率も高く、もって一年で皆辞めてしまう。
この仕事に就いて半年だが、二度とこの仕事はしたくない。誰もがそう思うだろう。
その頃の中国はすさまじいスピードで発達してた。
もともと日本軍が統治していた町で、それなりの仕事をしていたため、中国の中では一部の人間を除き、比較的日本人に対してやさしい町といえる。
日本人も多く住んでおり、日本語教育も盛んなため日本語が話せる中国人も多い。
日本でおなじみのマイカルやユニクロ、その他、見たことや聞いたことがある飲食店も多い。
人口は約５８０万人ほどで、かなり大きな町といえる。
中心部ではほぼ日本と変わらない暮らしが出来るだろう。
俺が住んでいるマンションは月４千元、日本円にして約五万円だ。
日本では考えられないほど便利な立地で広いマンションに住める。
すぐ向かいに勝利広場という繁華街があり、休日ともなると若者でごった返す。
俺もたまの休みはそこに出かけて、散策することがある。
その日は３月だというのにまだ最高気温が氷点下で、体感気温はマイナス十五度という、とても外に出かけてストレスを発散できるような日ではなかった。
携帯電話の残高が無くなったため、チャージをする必要があったため気持ちを奮い立たせ外出することにした。
当然店員とのやり取りはすべて中国語だが、俺はまったく話せない。
ただし、買い物程度は指差しと数量で何とかできる。
携帯の課金チャージも携帯を指差して店員に見せればなんとなく理解してもらえる。
しかしたいてい買い物の時は緊張して汗をいまだにかいてしまう始末だ。
そのため買い物をするのにもかなりの気を使っているのだ。
本当は家にこもってインターネットで動画でも見ていたいところだ。
大連は北緯三十八でほぼ日本の仙台と同じだが、仙台よりもかなり寒い。風が強いせいもあるのかも知れないが、専門家ではないため詳しくはわからない。
かなり分厚いコートを着込み勝利広場に向かって歩き出した。
勝利広場の地下はかなり広く、最初に来た人はどこをどう歩いているのかわからなくなるだろう。その昔防空壕だったのか、通路は迷路みたいに入り組んでおり、その狭い通路の両端に個人で出している露天の店がところ狭しと並んでいる。
変化に気がついたのは地下４階に降り、一番混み合っている携帯電話を販売している商店がひしめき合っている区画に着いた時だ。
何かがおかしいと感じたが、最初は何がおかしいのか分からなかった。
その時、俺の目の前を歩いていた子供が手に持っていたソフトクリームがポロリと床に向かって落ちるのが見えた。
普段なら考える間もなく床に落ちるのを見るだけだが、その時俺はその物体が床に落ちるまでの間をかなり観察する事が出来た。
俺ははっと気づいた。地下四階に降りてきてから感じていた違和感の原因が分かったのである。
俺は改めて周囲を見渡した。
俺の周りにはざっと見て十人以上の人間がいた。
その全員の動きがほんの少しだが遅くなっていることに気がついた。
意識してみないと気がつかないほどの変化のため最初は気のせいかとも思ったが、マフラーやかにの毛の揺れを観察することが出来ている。
普通そんな些細な揺れや動きなど、目に追えるはずは無いが、間違いなく観察できるのである。
今度は少し目線を遠くに移し、少しはなれたところにいる人間を見てみた。
やはり動きが遅いように見える。
「なんだこれ・・・」
誰に言うでもなく、当然言っても通じないが、独り言をつぶやいた。
どっと汗が出てきて、急に不安がこみ上げてくる。
これは何かの病気なのか・・・
こんな病気は聞いたことが無いが、頭がおかしくなってしまったのかと思った。
目を閉じて頭を振ってみた。
ゆっくりと目を開けてもう一度あたりを見渡したが、やはり症状は変わらない。
とにかく何にせよ携帯を課金しないことには・・・万が一何かが起こっても連絡が誰とも取れなくなる事のほうがまずいと思い、とりあえず携帯電話の売店に歩き出した。
店の前に着いたとき、その店の周りには余り人がいなかった。
と、急に今までの妙な感化が無くなった。
やはり疲れているだけか・・・そう思い、さっさとチャージを済ませ、来た道を歩き始めた。前を見ると先ほど妙な現象が起きたあたりが混み合っているのが見えた。そこはちょうど十字路になっていて近くにエスカレーターがあるため、人が一番集まる場所だ。
先ほどの不安がよみがえってくる。
大丈夫だと自分に言い聞かせ人ごみに入っていった。
そのとたん、先ほどよりももっとはっきりとした症状が出現れた。
勘違いや気のせいではなく、あきらかに人の動きがいつもより遅いのだ。
「なんだこれ・・・」
恐怖がこみ上げてくる。とりあえずこの場を離れよう・・・
俺は人ごみの中を走って通りぬけた。
その俺の動きはいつもと変わらないスピードだ。
ただ、周りが遅く見えるため通常よりも簡単に人の間をすり抜けることが出来る。
その時はそれが便利だとか快適だという気持ちはまったく無かった。
ただ、不安と恐怖でいっぱいだった。
何とか家にたどり着いたときは使えれ果てていた。
コートを脱ぎ捨て、ベッドに横たわる。
疲れているだけだ・・・心の中でつぶやいた。
ふと、二日くらい前か・・・奇妙な夢を見たことを眠りにつく寸前に思い出した。
