序章
俺は常にどこかさめていた。
理由は人間が生きている最終的な“目的”のせいだ。
よくある台詞で、「人間はどこから来てどこに行こうとしているのか」
この台詞がぴったり当てはまる。
あの世?があることが前提となり、すべてが救われているのだと考えている。
その前提があるからこそ生きてけるのではないか。
あの世を信じている人もそうでない人も、実は心の奥底ではその事を信じているからこそ、もっと言えば、人類の潜在意識の中にその事が初めから刷り込まれているからこそ、生きて行けるのではないだろうか。
しかし、もしその前提が崩れたとしたら、どうなるのか。
あの世は存在せず、人が死ぬと言うことはまるでテレビの電源を切られたかのように、今までテレビとして画像を映していたことも、そもそも電源を切られたことすら意識できない。
そういったものが人間の死ではないのか・・・
たとえそうだとしても、人生を楽しく過ごせた人はまだましだ。
生まれたときから死ぬ寸前まで苦しみ続け、一度も楽しさを知らないまま死んでしまう人もいるだろう。
あの世や魂がないとすると、その人が生きていたことに何の意味があるのか・・・
俺は、宇宙は歯車の集合体だと思っている。
風が吹けば桶屋が儲かる(俗にバタフライエフェクトと呼ばれているもの)のと同じ理屈だ。
原子を含めすべての物質は宇宙全体を動かす歯車に過ぎず、自分自身は歯車であることすら認識できない。
その宇宙全体ですら、ひとつの歯車に過ぎず、もっと大きな宇宙を動かしている一つの歯車であることを認識できない。
歯車が壊れれば(死ねば)ただ単に補充されるだけ。
本当の意味での神はこの途方もない大きさの歯車、誰も止めることの出来ない大きな”うねり”を指すのではないか。
もしそうだとしたら、神はなんと非情なのか。
神は善も悪も判断しない。
善も悪も歯車の一つにしか過ぎないからだ。
善を救うことをせず、悪を罰することもない。
当然その逆もしかりだ。
そもそも善と悪など、神にとってはどちらも関係はない。
歯車が回ればいいのだから。
もっと言えば神からみて善と悪の区別は存在せず、歯車が回ればそれはすべて善なのだ。
本当の悪とは歯車をとめてしまう存在の事だ。
いろいろな意見がある。
人は死んだら終わりだが、子孫やその思想を受け継ぐ人がいる限り、魂は引き継がれていく。
それを輪廻転生というと。
確かにその考えもある。
紙が燃え、炭素になり、地面に埋もれ、やがて植物の糧となる。
地球上にあるすべの質量は不変であり、永遠に循環されている。
確かにすばらしいシステムであり輪廻転生と呼ぶにふさわしいとも思える。
しかし、俺は唯一であり、死んで植物の一部として生まれ変わったとして、以前の私と植物の栄養となった俺の違いを認識することは出来ない。
生前、苦しかったことを思い出すこともないし、当然植物の一部に生まれ変わったことを認識することも出来ない。
結果、電源を切られてしまったテレビと同じ状態なのだ。
例えばこのような考えもあるだろう。
俺には子供がいるが、少なからず俺の思想や考え、癖を受け継ぎ、その事で俺の子供が将来接する物や人に少なからず影響を与える。
それが間違いなく俺が生きていたことの証であり、意味であると。
また、生前の俺の思い出話を誰かが聞き、そのことで影響を受け、世界を動かす人が生まれるかも知れない。
そういったことが人生の意味であり、俺自身ガが生きている目的だと。
確かにこのように考えることも出来る。
しかし、それは、例えば俺が、毎日死にたいと思うようなつらい人生を送り、死んでしまった場合でも同じことが言えるのだろうか。
その俺の不幸な人生を聞いた人にとっては意味がり、それも輪廻転生といえるのかもしれないが、それにより苦しみの人生を送った俺自身が救われるわけではない。
死は誰にでも平等に訪れる。
一生を笑って過ごすことが出来た人にも、その逆の人にもだ。
なんと不公平な。
神はなんと非情なのか。
それもこれも死後の世界が在るのか、無いのか。
その答えで変わってくる。
死後の世界があれば、すべての苦しみにも耐えられるかも知れない。
なんとも儚く、愚かしい事だろうか。