第97話
季節は巡り、また巡る。
神がその気ままぐれな指先で、この地球という名の辺境の惑星に最初の奇跡の一滴を落としてから二年。その一滴は、もはやせせらぎではなかった。それは一つの巨大な大河となり、人類の歴史という名の固い岩盤を穿ち、その流れを永遠に、そして不可逆的に変えてしまっていた。
そして、その大河の源泉となった国、日本。
その国の風景は、もはや二年前のそれとは似ても似つかぬ、どこか非現実的な、そして奇妙なほどの輝きに満ち溢れていた。
だが、その輝かしい光の裏側で。
日本の国家中枢は、神が新たに与えたもうた、あまりにも巨大で、そしてあまりにも厄介な宿題を前にして、深い、深い苦悩の淵に沈んでいた。
魔法。
『意思の力で因果律を改変する能力』。
サイトアスカの地下深く、『セクター・グリモワール』では、日本の最高の頭脳たちと選び抜かれた超エリートの被験者たちによる魔法の習得と解析が、驚異的な速度で進展していた。
だが、その進展は、彼らに希望よりも遥かに大きな新たな問いを突きつけていた。
このあまりにも強大すぎる力を、どうするのか。
この世界の軍事バランス、経済、そして社会倫理の全てを根底から覆しかねない神の火を、いつまでもこの小さな島国だけで隠し通すことなど、本当に可能なのか。
官邸の地下深く、プロジェクト・キマイラの作戦司令室。
その空気は、ここ数ヶ月保たれていた奇妙な安定と自信に満ちたものではなかった。そこにあったのは、自らの知性の限界を突きつけられた者たちの、深い、深い困惑と、そして微かな、しかし抗いがたいほどの畏怖だった。
巨大な円卓を囲む宰善茂総理大臣、橘紗英理事官、綾小路俊輔官房長官、そして各省庁のトップたちの視線は、中央のホログラムスクリーンに映し出された一枚の、あまりにも奇妙な報告書に釘付けになっていた。
「…………限界ですな」
その重苦しい沈黙を最初に破ったのは、官房長官、綾小路俊輔の蛇のように冷たい、しかし今はどこか疲労の色を滲ませた声だった。
「……アメリカが、気づき始めております」
彼の言葉と共に、スクリーンに表示されたのは、サイトアスカで共同研究中のアメリカ側研究チームからホワイトハウスへと送られた極秘の通信を傍受した、その解析レポートだった。
レポートの内容は衝撃的だった。
『――日本側研究員の脳波パターンに、観測史上例のない異常な高周波ガンマ波の同期活動を検出。これは、人間の脳活動としては説明不可能。彼らは、我々の知らない未知のインターフェースを用い、何らかの高次元情報体にアクセスしている可能性が極めて高い。……彼らは、何かを隠している。……アーティファクトの解析以上の、『何か』を』
「……さすがは、アメリカの天才たち。……我々が魔法訓練中に発生する微弱な魔力の漏出を、完全に捉えておったわい」
綾小路は、心底うんざりしたというように溜め息をついた。
「……このままでは、彼らが我々の秘密を暴き出すのも時間の問題。……そうなれば、我々がこれまで築き上げてきた全ての信頼関係は崩壊し、日米同盟は史上最悪の危機を迎えることになるでしょうな」
そのあまりにも絶望的な報告。
司令室は、墓場のような静寂に包まれた。
誰もが、この膠着状態を打破するためのいかなる有効な手立ても思いつけずにいた。
神は沈黙している。
次なる御神託はない。
我々、矮小なる人間の手で、このあまりにも巨大すぎる難局を乗り切らねばならないのか。
そのあまりの重圧に誰もが押し潰されそうになっていた、まさにその時。
これまで黙って報告を聞いていたこの国の影の女王、橘紗英が、その氷のような声で静かに口を開いた。
「…………皆様」
彼女の声は静かだった。だが、その静けさこそが、その場にいた全ての男たちの背筋を凍りつかせた。
「……なぜ、我々は守りに入っているのですか? ……なぜ、我々が彼らの疑心暗鬼という土俵の上で、彼らのルールで戦ってやらねばならないのですか?」
彼女は立ち上がった。その氷のような瞳には、悪魔的なまでの、そしてどこまでも合理的な光が宿っていた。
「……彼らが、我々が何かを隠していると疑っている。……結構。……ならば、見せてやりましょう。……彼らのちっぽけな脳では到底処理しきれないほどの、巨大で、圧倒的で、そしてどこまでも『厄介な』真実をね」
彼女の口元に、微かな、しかし確かな冷たい笑みが浮かんだ。
「……これより、我々は攻勢に転じます。……我々が巫女王ホシミコの遺産を解析した結果、『魔法』、正確に言うと、『因果律改変能力』が使えるようになったと、世界に向けて公式に発表するのです」
「なっ…………!?」
そのあまりにも大胆不敵で、そしてあまりにも狂気じみた提案に、司令室はどよめきに包まれた。
「き、橘君! 君は正気か!」
外務大臣の古賀が、悲鳴に近い声を上げた。
「……そんなことをすれば、世界はパニックに陥るぞ! ……我が国は、悪魔の力を手にした危険な国家として、完全に孤立することになる!」
「ええ。……もちろん、ただ正直に発表するのではありませんわ」
橘は、こともなげに言った。
「……これもまた、我々の壮大な物語の新たな一章として、世界に提示するのです。……そして、その発表の場で、我々はこう宣言するのです。『このあまりにも強大で、そしてあまりにも危険な力は、我々日本一国だけで独占すべきものではない。……この人類史的事業の栄光と責任は、我々の最も信頼すべき友人、アメリカとこそ分ち合うべきである』……と」
そのあまりにも巧妙で、そしてどこまでも意地の悪い提案。
それは、甘美な毒薬だった。
アメリカは、決して断れない。
世界で最初に魔法を手にした国という歴史的な栄誉。
そして、その奇跡の力を共同で研究できるという神の如き権力。
そのあまりにも魅力的な餌を前にして、あの傲慢で、そしてどこまでも自信に満ち溢れた超大国が、尻尾を巻いて逃げ出すはずがない。
だが、その栄光の裏側には、巨大なリスクという鋭い棘が隠されている。
「……彼らは、我々の罠に喜んで飛び込んでくるでしょう」
橘は、冷たく言った。
「……そして、彼らが我々と『共犯関係』になったその瞬間から。……彼らは、もはや我々を疑う監視者ではなくなる。……我々と共に、この世界の他の国々からの嫉妬と疑念の矢面に立つ、運命共同体となるのです。……これ以上の完璧な封じ込め策が、他におありですか?」
その悪魔の如き外交戦略。
司令室にいた全ての人間が、もはや言葉を失っていた。
彼らは、改めて理解した。
目の前のこの鉄の女は、神さえも、そして世界最強の超大国さえも、自らの壮大な物語の駒として利用し尽くす、恐るべき、そして何よりも頼もしいこの国の守護女神なのだと。
◇
そして、運命の日。
官邸の定例記者会見場。
その壇上に立ったのは、もはや綾小路官房長官ではなかった。
そこにいたのは、白衣をまとったプロジェクト・プロメテウスの科学者チームリーダー、長谷川健吾教授、その人だった。
彼の顔には、いつもの狂信的な熱狂はなかった。そこにあるのは、人類の未知の領域の扉を開いた厳粛な求道者の静かな覚悟と、そしてどこか楽しげな興奮の色だった。
彼は、世界中のメディアを前に、静かに、しかしその言葉の一つ一つに揺るぎない確信を込めて語り始めた。
「……皆様。……本日、我々が皆様にご報告いたしますのは、もはや新たなアーティファクトの発見報告などという、矮小なものではありません。……本日、我々が皆様と分かち合うのは、一つの『認識の革命』、そのものです」
そのあまりにも思わせぶりな前置きに、会見場が静まり返る。
長谷川は、背後のスクリーンに一枚の画像を映し出した。
それは、あの安っぽい青い表紙の教科書、『サルでもわかる! 魔法入門』の写真だった。(もちろん、その表紙はプロジェクト・キマイラの美術スタッフによって、古代の神代文字が刻まれた荘厳な石板の写真へと、完璧に差し替えられていたが)
「……我々は、巫女王ホシミコの地下神殿、その最深部の書庫の中から、これを発見いたしました。……我々はこれを、『ホシミコの因果律法典』と仮称しております。……そして、この法典の解読を進めるうちに、我々は信じがたい、そして畏るべき結論に達しました。……古代の巫女王ホシミコは、我々が『物理法則』と呼ぶこの世界の絶対的な法則そのものに直接干渉し、それを書き換える『秘術』を、完全に体系化していたのです」
彼はそこで、一度言葉を切った。
そして、この茶番劇のクライマックスへと駒を進めた。
「……そして、我々は、その法典の記述に基づき、その秘術の一端を現代科学の下で再現することに、限定的ながら成功いたしました。……我々は、その現象をこう名付けました。『ホシミコ式・限定的因果律改変能力』と。……まあ、皆様に分かりやすく申し上げれば……」
彼はそこで、悪戯っぽく笑った。
「…………『魔法』と、言った方が早いかもしれませんな」
そのあまりにも衝撃的で、そしてどこまでも挑発的な一言。
会見場は、爆発した。
フラッシュの白い閃光が、嵐のように明滅する。
記者たちの怒号のような質問が、飛び交う。
長谷川は、その熱狂を手で制した。
「……まあ、落ち着きなさい。……言葉だけでは信じられぬでしょう。……お見せしましょう。……我々人類が、今日この日、新たなるステージへとその第一歩を踏み出した、その証を!」
彼の合図と共に、会見場の壇上に数名の白衣をまとった研究員たちが現れた。
彼らこそが、セクター・グリモワールで訓練を積んだ、日本初の魔導士たちだった。
そして、デモンストレーションが始まった。
それは、もはや科学発表会ではなかった。
魔法のショーだった。
一人の研究員が、厳重に施錠された巨大な金庫の前に立つ。彼は、その扉に軽く手を触れると、静かに、『開け』と呟いた。
次の瞬間、ガチャンという重々しい音と共に、何重もの複雑なロックが内側から弾け飛ぶように開錠された。
「おお……!」
どよめきが起こる。
次に、別の研究員が、わざと床に叩きつけて粉々に砕いた美しい陶器の壺の前に立つ。彼は、その破片に向かって手をかざし、『戻れ』と命じた。
すると、無数の破片が、まるで意思を持つかのようにひとりでに動き始め、空中で再結合し、数秒後には元の完璧な姿へと戻っていた。
「…………信じられない……!」
記者たちの間から、呻き声が漏れる。
そして、とどめ。
最後の研究員が、壇上の中央に進み出た。
彼は、天井に向かって手を突き上げると、叫んだ。
「――光よ!」
彼の掌からまばゆい光の球が迸り、会見場の全ての照明が色褪せて見えるほどの輝きで、ホール全体を照らし出した。
そして、彼はその光を、まるで粘土でもこねるかのように自在に操り、空中に光の鳥を、光の竜を、そして最後に日本の象徴である美しい桜の木を描き出してみせた。
そのあまりにも幻想的で、そしてあまりにも神々しい光景。
会見場は、もはや熱狂ではなかった。
一つの巨大な感動と、そして畏敬の念に包まれた神聖な静寂だけが、そこにあった。
記者たちは、もはや質問をすることも忘れ、ただ呆然と、その神の御業を見上げていた。
デモンストレーションが終わった後。
壇上に立ったのは、宰善総理自身だった。
彼は、その感動の余韻に浸る世界中の人々に向かって、静かに、しかし力強く語りかけた。
「……皆様、ご覧いただけたかと思います。……これこそが、我が国が掘り当てた古代の、そして未来の力です。……ですが」
彼は、その顔に深い、深い苦悩の色を浮かべた。
「……我々は、この力を前にして、喜びよりも遥かに大きな畏れを抱いております。……このあまりにも強大すぎる力を、我々日本一国だけで管理し、そして独占することが、果たして本当に人類のためになるのかと」
彼はそこで、一度言葉を切った。
そして、カメラの向こうにいるただ一人の男に向かって語りかけるかのように言った。
「……故に、我々はここに改めて、我々の最も信頼すべき友人、アメリカ合衆国に呼びかけたい。……この人類史的事業の栄光と、そして何よりもその重すぎる責任を、我々と共に分かち合ってはくれぬかと。……この神の火を、共に手を取り合い、平和の灯火として未来へと繋いでいこうではないかと」
そのあまりにも美しく、そしてどこまでも計算され尽くした外交的パフォーマンス。
ワシントンのホワイトハウス、シチュエーションルーム。
アメリカ合衆国大統領は、モニターに映るその光景を、苦虫を噛み潰したような、しかしその目の奥に抑えきれない興奮の炎を燃え上がらせながら見ていた。
「…………あの狐どもが……!」
彼は、低い声で唸った。
「……我々が気づき始めたのを察知して、先手を打ってきたか。……そして、またしても我々を、その壮大な茶番劇の共犯者へと引きずり込もうというわけだ。……断れば、世界中から非難を浴びる。……受ければ、彼らの掌の上で踊らされることになる。……なんとなんと、厄介な手を打ってきおるわ……!」
だが、彼に選択肢はなかった。
彼は、受話器を取った。
そして、その声に最大限の度量と、そして友愛の響きを込めて言った。
「…………宰善総理。……聞こえているかね。……君たちのその勇敢なる決断と、そして我々への揺るぎない友情の証……。……この私が、受け取らぬとでも思ったかね?」
その言葉が、世界に新たな時代の幕開けを告げた。
日米両国による魔法の共同研究。
そのニュースは世界中を駆け巡り、人々を新たな、そしてより巨大な希望と、そしてそれと同等の不安の渦へと叩き込んだ。
その壮大で、そしてどこまでも滑稽な神と人間の化かし合いの次なるステージの幕が、今、静かにその幕を開けようとしていた。




