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第9話

 黒猫が喋った。

 そのあまりにも単純で、あまりにもありえない事実は、その場にいた日本の国家運営を担うトップエリートたちの、百戦錬磨の精神を赤子のそれのように無力なものへと変えてしまった。

 SATの隊員たちは、スコープ越しにただ呆然と、小さな獣の口が動くのを見ているだけ。

 長谷川教授は、腰を抜かしたまま感動と畏怖の涙を流している。

 そして、橘 紗英でさえ、その完璧に磨き上げられた鉄の仮面のような表情のすぐ裏側で、自らの常識という名の足場がガラガラと崩れ落ちていく音を聞いていた。


「……なるほど」

 橘は、賢者を名乗るその黒猫が語った途方もない物語を咀嚼しながら、かろうじてそう呟いた。

 様々な世界を旅する賢者。

 我々が奇跡と呼ぶ物質は、彼にとっては道端の石ころ。

 そのスケールの違い。

 理解を拒絶しようとする脳を叱咤し、彼女は交渉の主導権を手放すまいと必死に思考を巡らせた。

 だが、その彼女のちっぽけな抵抗を嘲笑うかのように。

 賢者は、次の行動を起こした。


 黒猫が、ふわりと宙に浮いたのだ。

 音もなく。

 空気の流れを、一切乱すこともなく。

 まるで、そこだけ重力の法則がねじ曲げられたかのように、滑らかに地上数十センチの高さまで浮き上がった。

 そして、そのエメラルドグリーンの瞳で橘をじっと見つめた。


「さて。立ち話もなんじゃろう。汝らの長のいる場所へ、案内せい」


 その光景に、長谷川教授が再び絶叫に近い声を上げた。

「ひ、飛行……!? いや違う! これはレビテーションなどという単純な魔法ではない! 空間そのものに干渉している……!? まさにあの反重力特性を持つ石と同じ原理……いや、あれを現象として自在にコントロールしているとでもいうのか!?」

 科学者としての探究心が恐怖を凌駕し、彼は目を爛々と輝かせながら、浮遊する猫を観察し始めた。


 橘は、もはや驚くことに疲れていた。

 猫が喋る。猫が浮く。

 もう、何が起きても不思議ではない。

 彼女は、自らの役割を思い出した。

 この超越的な存在をもてなし、そして交渉のテーブルに着かせること。

 彼女は背筋を伸ばし、完璧な礼をしてみせた。

「……承知いたしました、賢者様。こちらへどうぞ。交渉の席を設けております」


 そこから始まったのは、日本の憲政史上、最も奇妙で、そして最も荘厳な行列だった。

 先頭を行くのは、宙を滑るように進む一匹の黒猫。

 その斜め後ろを、国家の全権代理人である橘 紗英が恭しく歩く。

 さらにその後ろを、腰が抜けて立てない長谷川教授を、部下たちが両脇から抱えるようにしてついていく。

 そして、その全てを遠巻きに守るように、SATの隊員たちが銃を構えたままじりじりと後退していく。


 彼らは、ヘリポートから特別エレベーターへと向かった。

 通常は、総理大臣と国賓しか使用することのない特別なエレベーター。

 その鏡張りの豪華な箱の中に、浮遊する猫と日本のトップエリートたちが乗り込む。

 扉が静かに閉まると、そこには気まずい沈黙が流れた。

 猫は、興味深そうにエレベーターの内装を眺めている。

 橘は、鏡に映る自分の引きつった顔を見ないように俯いていた。

 長谷川は、ぶつぶつと何か物理法則に関する独り言を呟き続けている。


 目的の階に着き、扉が開く。

 そこは、この超高層ビルの最上階に位置する特別応接室へと続く、長い廊下だった。

 分厚い絨毯が足音を全て吸い込み、壁には日本画の大家が描いた山水画が飾られている。

 廊下で警備をしていたSPの職員たちが、浮遊する猫とその一行を見て、直立不動のまま完全に凍り付いていた。

 彼らの表情は、「俺は今、何を見ているんだ?」と雄弁に物語っていた。


 やがて一行は、重厚なマホガニーの両開きの扉の前に辿り着いた。

 橘が扉を開けると、そこにはこの交渉のために特別に用意された空間が広がっていた。

 部屋の中心には、一枚板で作られた巨大な円卓。

 それを囲むように設えられた、最高級の革張りの椅子。

 窓の外には、東京の摩天楼がまるでミニチュアのように広がっている。

 部屋の隅には、総理代理として同席する数名の閣僚と、プロジェクト・プロメテウスの各分野の専門家たちが既に到着しており、緊張した面持ちで立ち上がった。

 彼らもまた、入室してきたありえない光景に、言葉を失っている。


 橘は、その異様な静寂の中で静かに告げた。

「賢者様。こちらが、会見の場でございます」


 第二部:賢者の要求

 賢者・猫は、部屋の様子を一瞥すると、満足げに頷いた。

 そして、ふわりと浮遊高度を上げると、巨大な円卓のちょうど真ん中に音もなく降り立った。

 小さな黒猫が、巨大なテーブルの中心にちょこんと座る。

 その周囲を、日本の政治、科学、安全保障を司るトップたちが、緊張した面持ちで囲む。

 あまりにもシュールで、滑稽な構図。

 だが、その場の誰も笑う者はいなかった。

 その小さな獣から放たれるプレッシャーは、この部屋の空気を鉛のように重く支配していたからだ。


「うむ。悪くない設えじゃ」

 賢者はそう言うと、前足をぺろりと舐めた。

 そのあまりにも猫らしい仕草と、尊大な言葉とのギャップが、逆にこの存在の底知れなさを際立たせていた。


 橘は、ゆっくりと席に着くと、対話の口火を切った。

「賢者様。本日は我々の呼びかけに応じていただき、誠にありがとうございます。早速ですが、本題に入らせていただいてもよろしいでしょうか。貴方様が我々に望まれることは、一体何でございましょうか」


 賢者は毛づくろいをやめると、その翠色の瞳で集まった人間たちをゆっくりと見回した。

 そして、告げた。

「うむ。ワシからの要求は、一つではない。いくつかある」

 ゴクリと、誰かが唾を飲む音がやけに大きく響いた。


「まず、一つ」

 賢者は、右の前足をちょこんと上げた。

「この世界の通貨を、ワシに寄進せよ。日本円で10億。そして、暗号通貨とやらで10億。合計20億じゃ」


 その言葉に、部屋がざわついた。

 特に、財務省から派遣された官僚の顔が引きつっている。

 橘は、そのざわめきを手で制した。

 金額そのものは、問題ではなかった。国家予算からすれば、20億など誤差の範囲内だ。

 問題は、その内訳。

「……賢者様。差し支えなければ、お伺いしても? なぜ、暗号通貨をご所望なのでしょうか」

 橘の問いに、賢者はふんと鼻を鳴らした。

「ワシは、様々な世界を渡る。国家や権力に縛られぬ、普遍的な価値を持つ通貨は何かと都合が良いのじゃよ。お主たちの世界の金融システムも、なかなか面白いことを考えるものよのう」

 橘は、戦慄した。

 この存在は、我々の世界の表層的な文化だけでなく、ブロックチェーン技術のような最先端の金融システムまで完全に理解している。

 その知性は、我々の想像を遥かに超えている。


「承知いたしました。すぐに手配させます。して、二つ目の要求とは?」

「うむ」

 賢者は、続けた。

「異世界で需要のありそうな物品を、ありったけ用意して欲しい」

「……と、申しますと?」

「例えば、香辛料なんかや塩、砂糖。様々な種類が欲しいのう。ワシが時折立ち寄るある世界ではな、胡椒一粒が金一粒と同じ価値を持つのじゃ。塩や砂糖も、王侯貴族しか口にできぬ贅沢品でな」

 その言葉に、歴史学者が息を飲んだ。まるで、中世ヨーロッパの地球史を語っているかのようだ。

「皿、陶器類も高値で売れる。特に、お主たちの国の『ワビサビ』とやらを体現した器は、ある世界の審美眼の高い種族にえらく人気でな。宝石の類も、沢山欲しいのう。装飾品としても、魔力の触媒としても使い道は多い」


 橘は、賢者の言葉を一言一句聞き漏らすまいと神経を集中させた。

 これは、ただの要求ではない。

 彼が接触している異世界の文明レベルや文化に関する、極めて重要な情報だ。

 彼女の頭脳は高速で回転し、得られた情報を分析していく。

 複数の、異なる文明レベルの世界と彼は同時に接触している……。


「そして、三つ目じゃ」

 賢者の声が、部屋に響く。

「これが、最も重要な要求やもしれん」

 誰もが、固唾をのんで次の言葉を待った。

「そちらで、異世界で価値のありそうな地球の物質や素材をたんまり欲しい。これも、利用価値がある物があるやもしれんからのう。これは、そちらで考えて欲しい」


 その要求に、橘は目を見開いた。

 考えろと? 我々に?

 それは、あまりにも漠然とした、そしてあまりにも残酷な問いかけだった。

 それは、テストだ。

 橘は、瞬時に理解した。

 この賢者は、我々の知性、創造性、そしてこの未知の取引に対する誠意を試しているのだ。

 我々が、どれだけの価値を自ら提示できるのかを。


 その要求は、すぐにプロジェクト・プロメテウスの科学者チームに伝えられた。

 官邸の地下にある彼らの拠点では、即座に緊急のブレインストーミングが始まった。

「何を渡すべきだ!?」

 長谷川が、ホワイトボードに殴り書きしながら叫ぶ。

「まず、レアアースだ! ジスプロシウムやテルビウム! これらは、強力な磁性材料の元となる! 魔法の触媒として使えるかもしれん!」

「いや、教授! もっと根源的な物質を考えるべきです! 例えば、プラスチック! ポリエチレンやポリプロピレンといった高分子化合物は、自然界には決して存在しない人工物です! 異世界では、魔法の素材として重宝されるかもしれません!」

「ダイヤモンドは、どうだね!? 地球上で最も硬い炭素の結晶だ! これ以上の物理的な価値を持つ物質はない!」

「馬鹿を言え! 水だ! ただのH2Oこそ、奇跡の物質だ! これほど普遍的で、生命にとって不可欠な液体は、宇宙広しといえどもそうザラにはないかもしれんぞ!」

 科学者たちの議論は、白熱した。

 彼らはこの問いかけを通じて、生まれて初めて、自分たちが住むこの地球という惑星が、いかに奇跡的で価値のある物質に満ち溢れているかを思い知らされていた。

 それは、賢者が与えた最初の宿題だった。



 特別応接室に、再び静寂が戻る。

 橘は、ゆっくりと口を開いた。

「……賢者様。貴方様のご要求三点、確かに承りました。最大限の誠意をもって、ご用意させていただきます。つきましては、我々がそれらをご用意した場合の対価について、お聞かせ願えますでしょうか」

 ビジネスだ。

 橘は、あくまで冷静に交渉を進めようと努めた。

「『資料を供給してやろう』と伺っておりますが、その『資料』とは、具体的にどのようなものでしょうか。どのような形で、どの程度の量を、どのような頻度でご提供いただけるのか、お示しいただきたく存じます」


 そのあまりにもビジネスライクな橘の問いかけに。

 賢者・猫は、心底楽しそうに喉をグルグルと鳴らした。

「ふっふっふ。矮小なる身でありながら、なかなか抜け目ないのう、娘。気に入ったぞ」

 そして、こう言った。

「対価は、ワシの気まぐれ次第じゃ」

 その答えに、経済担当の官僚が椅子からずり落ちそうになる。

 それでは、契約が成立しない。

 だが、橘は動じなかった。

「……と、申しますと?」

「言葉通りじゃ。ワシが価値ありと認めた物品を寄進してきた時、ワシはその誠意に見合うだけの土産物をくれてやろう。ワシがつまらぬと感じれば、それまでじゃ。全ては、お主たちの働き次第よ」

 あまりにも一方的で、理不尽な契約条件。

 だが、日本側に拒否権などなかった。

 橘が、さらに食い下がろうとしたその時。


 賢者は、「まあ、待て」と言った。

「手ぶらで帰すのも、無粋というもの。最初の挨拶代わりじゃ。受け取るが良い」

 賢者がそう呟くと。

 彼の目の前の空間が、ぐにゃりと歪んだ。

 そして、その何もない空間から、いくつかの物体がごろり、ごろりとテーブルの上に転がり出てきた。


 一つは、象牙のように白く滑らかで、しかし明らかにどんな象の牙よりも巨大で鋭い、湾曲した牙。

 一つは、手のひらほどの大きさの奇妙なキノコ。その傘からは、真珠のように美しい液体がぽたぽたと滴り落ちている。

 そして一つは、猪のものと思われる、しかし表面が鋼鉄のように輝く黒い毛皮。


「こ、これは……!?」

 長谷川が、椅子を蹴倒す勢いでテーブルに駆け寄った。

 彼は懐からハンディタイプの簡易測定器を取り出すと、恐る恐るそれらの未知の物体にかざした。

 ピピピピピ!

 測定器が、けたたましい警告音を発する。

「し、信じられん……! この牙から放たれている未知のエネルギーは、測定の上限値を振り切っておる! そして、このキノコ! この液体から発せられる波動は……こ、細胞のテロメアを修復し、その活動を活性化させている……!? まさか、これが若返りの……!?」

 長谷川は、もはや狂乱状態だった。

 その場にいた他の科学者たちも、そのありえない解析結果に言葉を失っている。


 橘は、理解した。

 これが、賢者のやり方なのだと。

 圧倒的な奇跡を目の前に見せつけることで、我々の理性を麻痺させ、思考を停止させ、ただひれ伏させる。

 交渉など、最初から成立しないのだ。

 これは、神と信者の契約なのだ。


 橘は、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、テーブルの上の小さな黒猫に向かって、深々と頭を下げた。

「……賢者様。貴方様のご要求、全て全面的に受諾いたします。この日本国、いえ、我々人類の総力を結集し、貴方様を満足させてみせますことを、ここにお約束いたします」

 それは、事実上の全面降伏宣言だった。


「うむ。良きにはからえ」

 賢者は、満足げにそう言うと、再びふわりと宙に浮き上がった。

 そして、集まった人間たちを見下ろし、最後に一言告げた。

「では、また気まぐれに顔を出すとしよう。せいぜい、ワシを楽しませるがよい」

 次の瞬間。

 黒猫の姿は、まるで陽炎のように揺らぎ、音もなくその場から消え去っていた。

 壁をすり抜けるように。

 まるで、最初からそこに何もいなかったかのように。


 後に残されたのは、圧倒的な奇跡の残骸と、呆然と立ち尽くす人間たちだけだった。

 部屋を支配していた鉛のようなプレッシャーが嘘のように消え去り、誰もがどっと体の力が抜けるのを感じていた。

 長谷川は、テーブルの上のサンプルに、なおもかじりついている。

 閣僚たちは、放心したように椅子にへたり込んでいる。


 橘は一人、窓の外に広がる東京の夜景を見つめていた。

 これから始まる。

 この国、いや、この世界の形を永遠に変えてしまうかもしれない、前代未聞の国家プロジェクトが。

 そのあまりにも重い責任と、そして人類の新たな地平を切り開くかもしれないという微かな希望。

 その二つの感情に挟まれながら、彼女はただ身を震わせるしかなかった。

 夜の闇に、賢者の最後の言葉がこだましているように聞こえた。

「せいぜい、ワシを楽しませるがよい」と。

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