第8話
その日、帝都大学理学部長谷川研究室の時間は、一度死んだ。
長谷川 健吾は、四十八歳にして素粒子物理学の分野で世界のトップを走る碩学である。ノーベル賞に最も近い日本人と噂されて久しい。
そんな彼が、大学院生の若い部下たちが固唾をのんで見守る中、目の前のモニターに映し出された信じがたいスペクトルデータから、赤子のようにはんだ付けされた無骨な分析装置へと、何度も何度も視線を行き来させていた。
「……ありえない」
絞り出した声は、ひどくかすれていた。
「こんなことはありえない……。装置の故障か? いや、昨日キャリブレーションは完璧に行ったはずだ。外部からのノイズ混入か? このシールドルームで、それもありえん……」
長谷川は、何かに取り憑かれたように呟き続ける。
全ての可能性を否定していく。
そして、最後に残ったたった一つの結論。
それは、彼の四十八年間の科学者としての人生の全てを、根底から覆すものだった。
事の発端は、三日前に研究室に匿名で送りつけられてきた一つの小包だった。
胡散臭い「新発見の鉱物か?」などと書かれたワープロ打ちの手紙。そして、ジップロックに入れられた数個の何の変哲もない石ころ。
よくある素人からの、トンデモ科学の持ち込みだ。
普段なら、助手に丁重な断りの手紙を書かせて終わりにする案件。
だが、その日に限って、長谷川はほんの気まぐれを起こした。
一つの石が放つ鈍い金属光沢に、ほんの少しだけ心を惹かれたのだ。
彼は、その石を質量分析計にかけた。
そして、時間が死んだ。
モニターに表示されていたのは、この宇宙のどこにも存在するはずのない原子核のデータ。
周期表の遥か先。人類が加速器の中で、ほんの一瞬しか作り出すことのできない「安定の島」を遥かに超えた、未知の超重元素。
それが、驚くべきことに、極めて安定した状態でそこに「物質」として存在していた。
それは、もはや物理学の崩壊を意味していた。
長谷川は、狂ったように他のサンプルにも手を付けた。
黒い土。これも、同様の未知の元素を含んでいた。
そして、植物の根。
これを電子顕微鏡で覗いた生物学担当の助教授は、突然悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
メスで切り刻んだ細胞組織が、目の前でまるで意思を持つかのように自己修復し、再生していくというのだ。不老不死。それは、もはや神話の領域だった。
長谷川は、震える手で内閣府に設置された科学技術政策担当の古い友人に電話をかけた。
そして、呂律の回らない口でただ一言告げた。
「……我々は、神の欠片を手にしてしまったのかもしれない」と。
◇
同じ頃。
東京、千代田区永田町。内閣情報調査室(通称「内調」)の一室。
橘 紗英は、三十八歳という若さで巨大な情報組織の理事官を務めるエリート中のエリートだった。
彼女の陶器のように白い肌と怜悧な美貌は、しばしば彼女の本当の恐ろしさを隠すための擬態だと揶揄された。
彼女は、感情をほとんど表に出さない。
常に冷静に、客観的に情報を分析し、国家の安全保障に関わるリスクを排除する。それが、彼女の仕事であり、全てだった。
その日、彼女の元に一本の極秘回線が入った。
帝都大学の長谷川教授から、常軌を逸した報告が上がってきたと。
橘は、最初それを一笑に付した。
「またあの手の天才科学者にありがちな誇大妄想でしょう。予算が欲しいだけなのでは?」
だが、彼女のその冷静な判断は、数時間後に粉々に打ち砕かれることになる。
菱和ケミカル中央研究所から、「常温で反重力特性を示す未知の合金を発見」。
理化学研究所から、「地球外生命体としか思えないDNA構造を持つ細胞組織を確認」。
SPring-8から、「物理法則に干渉する未知のエネルギー放射を観測」。
そして極め付けは、つくばの国立環境研究所で発生した原因不明のバイオハザード騒ぎだった。送られてきた苔が、密閉容器の中で異常な速度で自己増殖を始め、施設が封鎖されたという。
全ての報告は、一つの共通点を持っていた。
「匿名で送られてきたサンプル」から発見されたと。
橘のオフィスは、にわかに戦場と化した。
鳴り響く電話。飛び交う怒号。
彼女は、混乱の中心でただ一人、静かに情報を整理していた。
そして、一つの戦慄すべき結論に達する。
何者かが、意図的に日本の主要な研究機関に、同時に人類の科学技術を数世紀は進めかねない超物質を送りつけてきたのだ。
パンドラの箱が、開けられたのだ。日本のど真ん中で。
その日の深夜。
総理大臣官邸の地下深くにある危機管理センターには、総理大臣をはじめ、主要閣僚、そして橘を含む情報機関のトップたちが集められていた。
議題は、ただ一つ。
このありえない事態に、どう対処すべきか。
「これは、我が国に対するテロではないのか!?」
「あるいは、どこかの大国の新型の情報戦か……」
「送り主は一体何者なんだ!? 目的は何だ!?」
誰もが混乱し、疑心暗鬼に陥っていた。
その喧騒の中で、一本の速報がもたらされる。
サンプルを送られた全ての研究機関に、発信元不明のメールが一斉に届いたと。
橘は、そのメールの文面をプロジェクターに映し出した。
――分析感謝する。こちらも様々な異世界を巡っており、多忙である。故に、次の連絡はこの世界の時間で一ヶ月後とする。
そのあまりにもシンプルで、しかし圧倒的に尊大な文面に、会議室は水を打ったように静まり返った。
橘は、その一文の中に相手の底知れない知性と揺るぎない自信を感じ取り、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
様々な異世界。
これは、もはやテロでも情報戦でもない。
これは、我々人類が初めて経験する未知との遭遇。
ファーストコンタクトなのだと。
その日を境に、日本の中枢は静かな、しかし熾烈な戦争状態に突入した。
表向きは、平穏な日常が続いている。
だが、その水面下では、国家の全てのリソースをつぎ込んだ極秘のプロジェクトが始動していた。
橘がその最高責任者に任命されたそのプロジェクトは、「プロジェクト・プロメテウス」と名付けられた。
天上の火を盗み、人類にもたらした神の名。
それは、今回の事態が人類にとって計り知れない恩寵であると同時に、世界を焼き尽くしかねない破滅の火種でもあることを示唆していた。
プロジェクトの最初の仕事は、徹底的な情報統制だった。
つくばの一件はガス漏れ事故として処理され、マスコミには強力な報道管制が敷かれた。
そして、日本中から各分野の最高の頭脳たちが、極秘裏に官邸に集められた。
物理学者、生物学者、化学者。
そして、言語学者、歴史学者、神話学者、暗号解読の専門家、国際政治のプロフェッショナル。
彼らは、たった数行のメールと数個のサンプルから、「名もなき発見者」――チーム内ではコードネーム「賢者」と呼ばれた――の正体をプロファイリングしようと試みた。
「『異世界』という単語を使っていることから、我々の世界のポップカルチャーに精通している可能性が高い」
「あるいは、本当に我々とは全く異なる次元の知的生命体なのか……」
「文面は古風で尊大。だが、その論理構成は極めて現代的で合理的。多重人格か、あるいは組織による犯行声明か……」
議論は紛糾し、何一つ確かなことは分からなかった。
科学者チームは、科学者チームで別の熱狂に包まれていた。
チームリーダーとなった長谷川教授は、もはや信仰の対象を見つけた狂信者のようだった。
「彼は神だ! 神が、我々人類に新たな啓示を与えようとしておられるのだ!」
彼は研究室に閉じこもり、寝食を忘れてサンプルの解析を続けた。
そして、分析が進めば進むほど常識を超えたデータが次々と明らかになり、その度に彼は「おお、神よ!」と天を仰いだ。
反重力特性を持つ石は、エネルギー効率を無視した永久機関の実現を可能にするかもしれない。
自己再生する細胞は、老化を克服し、人類に不老をもたらすかもしれない。
未知の元素は、宇宙開発の歴史を塗り替える新素材となるかもしれない。
一つ一つが、人類の文明を数段階引き上げる奇跡の物質。
それが、今、この日本の一室にある。
その事実は、科学者たちをかつてない興奮の坩堝へと叩き込んでいた。
一方、橘は冷徹に最悪の事態を想定していた。
もし、この情報が海外に漏れたら?
特に、同盟国であるアメリカに知られたら?
彼らは、黙って見ているだろうか。いや、ありとあらゆる手段を使ってこの奇跡を独占しようとするだろう。
それは、静かな外交戦の始まりだった。
橘は、巧みな情報操作でアメリカの諜報機関の目を逸らしつつ、水面下で総理と協議を重ねていた。
これは、我が国が世界の覇権を握る千載一遇の好機となり得る。
だが、一歩間違えれば、日本は世界中を敵に回し、孤立し、破滅するだろう。
全ては、一ヶ月後。
「賢者」との交渉次第だった。
彼が敵か、味方か。
彼が、何を望んでいるのか。
それによって、日本の、いや世界の未来が決まる。
そのあまりにも重いプレッシャーの中で、橘は眠れない夜を過ごした。
時間は、刻一刻と過ぎていく。
長く、そして短い沈黙の一ヶ月だった。
そして、約束の一ヶ月が経とうとする数日前。
プロジェクト・プロメテウスの全てのメンバーの端末に、緊張が走った。
「賢者」から、二通目のメールが届いたのだ。
橘は、息を飲んだ。
会議室の巨大なモニターに、その文面が映し出される。
――我が声に応えし矮小なる探求者たちよ。約束の時は、満ちた。……
そのあまりにも尊大で、神託のような文面に、集められた日本のエリートたちは誰もが言葉を失った。
「……矮小なる探求者か。随分と見下されたものだな」
防衛省から派遣された制服組のトップが、苦々しく呟く。
「しかし、我々に選択肢はない……」
橘が、静かに言った。
「我々は、彼の言う通りにするしかない。彼が我々を選んだのだ。この儀式に参加する栄誉を、与えられたのだから」
場所の選定は、難航を極めた。
相手は、「直接降臨する」と言っている。
それは、おそらく何らかの転移能力を示唆していた。
セキュリティが、最も重要視された。
そして、議論の末に選ばれたのは、東京西新宿にそびえ立つ政府系の超高層ビルの最上階ヘリポートだった。
そこは、民間人の立ち入りが厳しく制限され、三百六十度視界を遮るものがなく、最高レベルの監視システムが張り巡らされている。
「賢者」を迎えるには、これ以上ない舞台だった。
そして、運命の当日。
約束の三日後。
ヘリポートには、吹き抜ける風の音以外、何も聞こえなかった。
だが、そこには日本の未来を左右する全ての要素が集結していた。
総理大臣代理として、この国の交渉の全権を委任された橘 紗英。
科学者代表として、人類の知の限界を目撃するために立ち会う長谷川 健吾。
そして、彼らの周囲のビルの屋上やヘリポートの死角には、狙撃銃を構えたSATの隊員たちが息を殺して潜んでいた。
彼らの任務は、万が一賢者が敵対行動を取った場合の、ターゲットの無力化。
もっとも、転移能力を持つ相手に銃弾が当たるかどうかは、誰にも分からなかったが。
ヘリポートの中央には、メールの指示通り、目印として直径三メートルの白い円が描かれている。
橘は、その円をじっと見つめていた。
彼女の表情は、能面のように変わらない。
だが、その黒いスーツの下で、心臓がこれまで経験したことのない速度で脈打っているのを自覚していた。
隣では、長谷川教授が、まるで巡礼の旅の最終地点に辿り着いた信者のように、恍惚とした表情で空を見上げていた。
約束の時刻が迫る。
風が、強くなる。
誰もが固唾をのんで、その瞬間を待っていた。
約束の時刻きっかり、それは現れた。
何の前触れもなかった。
光も、音も、空間の歪みも、一切観測されなかった。
ただ、気づけばそこにいた。
白い円の、ど真ん中に。
ちょこんと座る、一匹の黒猫が。
「…………は?」
誰かが漏らした間の抜けた声が、風に流された。
ヘリポートにいた全員が、自分の目を疑った。
猫?
ただの猫?
どこから入ってきたんだ?
橘でさえ、その完璧なポーカーフェイスをわずかに崩し、眉をひそめた。
「……生物学的にも、完全に普通のイエネコ(Felis catus)です。しかし、どうやってここに……?」
SATの隊長から、橘のイヤホンに緊張した声が届く。
『理事官、目標はどこだ。当方のセンサーには、何も映らん』
『……目の前にいるわ。黒猫が一匹』
『……は? ね、猫……? 冗談はよしてください』
誰もが、混乱していた。
これが、我々を一ヶ月間振り回し続けた「賢者」の正体だとでもいうのか。
壮大な肩透かし。
あるいは、我々を愚弄するための悪趣味な冗談か。
橘が部下に猫の捕獲を命じようとした、その時だった。
その黒猫が、すっと顔を上げた。
そして、そのエメラルドグリーンの美しい瞳でまっすぐに橘と長谷川を捉えると、ゆっくりと口を開いた。
その口から発せられたのは、猫の鳴き声ではなかった。
それは、どこか古風で、それでいて不思議と威厳のある、青年のものとも老人のものともつかない声だった。
「うむ。出迎え、ご苦労」
時間が、止まった。
風の音さえ、聞こえなくなった。
ヘリポートにいた全ての人間が、呼吸を忘れ、思考を停止させ、ただ目の前のありえない光景に凍り付いていた。
「うわーっ! 猫が喋ったぁぁぁっ!!」
その静寂を破ったのは、長谷川教授の素っ頓狂な絶叫だった。
彼は腰を抜かし、その場にへたり込むと、子供のように目を見開いて猫を指差した。
橘でさえ、その怜悧な瞳を信じられないものを見るように大きく見開き、口元をわずかに戦慄かせていた。
イヤホンの向こうでは、SATの隊員たちがパニックに陥っている声が聞こえる。
『喋ったぞ! 目標が喋った!』
『馬鹿野郎! 猫だぞ!?』
黒猫は、そんな周囲の大混乱を意に介する様子もなく、毛づくろいを始めながら続けた。
「ふむ。矮小なる者たちよ。些か、動揺が過ぎるのではないか? これしきの奇跡で驚いていては、ワシとの対話などままならぬぞ」
橘は、必死で冷静さを取り戻そうと努めた。
彼女は、震えそうになる声を奥歯で噛み殺し、ゆっくりと一歩前に進み出た。
そして、目の前の小さな黒い超越者に向かって問いかけた。
「……あなたは……一体……?」
黒猫は、毛づくろいをやめると、再びその神秘的な瞳を橘に向けた。
そして、厳かに告げた。
「うむ。ワシは1000年を生き、世界を渡る賢者じゃよ」
「……世界を渡る賢者……ですか」
橘は、そのあまりにも非現実的な言葉を、オウム返しに繰り返すことしかできなかった。
「……それで、あの資料は一体……? 私たちが分析した限りでも、あれだけでもとんでもない価値があります。貴方の目的は、何なのですか?」
黒猫――賢者は、ふっと鼻を鳴らした。
その仕草はどこまでも猫そのものだったが、その言葉は神のそれのようだった。
「うむ、そうじゃのう。ワシは、様々な世界を旅しておる。お主たちの言う、異世界というやつじゃな。そこで手に入れた、ただの土産物じゃよ」
賢者は、こともなげに言った。
「ワシにとっては、道端の石ころと変わらん。だが、世界によって価値観は違うゆえな。この世界での価値を知りたくて、送付してみたというわけじゃ」
「……なるほど」
橘は、そう呟いた。
彼女の頭脳は、高速で回転していた。
道端の石ころ。
我々が国家の運命を賭けて解析したあの奇跡の物質が、この存在にとってはその程度の価値しかないというのか。
ならば、この賢者が本気になれば、一体どれほどの奇跡をもたらすことができるというのだ。
橘は、目の前の小さな黒猫のその奥に存在する、底知れない巨大な存在の鱗片を感じ取り、身震いした。
日本の、いや、人類の運命は、今、この一匹の猫の肉球に握られている。
そのあまりにも馬鹿馬鹿しく、そしてあまりにも恐ろしい現実を、彼女は受け入れざるを得なかった。
壮大で奇妙な交渉の火蓋は、今、切って落とされたのだ。