第7話
大魔法学院『アカデメイア・アークス』に、新田 創が滞在して、約一ヶ月が経とうとしていた。
季節という概念があるのかどうかは分からないが、二つの太陽は毎日飽きることなく、穏やかな光をこの学び舎に降り注いでいた。
そのあまりにも平和で充実した時間の中で、創は人知を超えたとんでもない力をその身に収めていた。
彼は、自室として与えられた居心地の良い個室の机に向かい、この一ヶ月間の成果をプロジェクト計画書のノートにまとめ上げていた。
【プロジェクト:俺の安全保障計画(魔法習得編) - 成果報告】
習得魔法カテゴリ別一覧:
防御魔法:
【運動エネルギー吸収障壁】:対物理攻撃用の切り札。理論上は、戦車の主砲にも耐えうるはず(未検証)。
【対魔術防壁】:基本的な魔法攻撃を防ぐ。
【不可視化】:姿を消す。魔力探知に弱いのが難点だが、物理的な目からは完全に逃れられる。
攻撃魔法:
【魔法弾 - カスタム仕様】:威力、効果、弾数を自在に変更可能。精密射撃による弾幕展開もマスター。対人・対魔獣戦の主軸。
【小規模衝撃波】:近距離の相手を吹き飛ばす。
隠密・機動魔法:
【高等変身術】:猫、犬、鳥など、構造を理解した生物への変身が可能。究極の潜入・逃亡手段。
【浮遊】:自己、及び視認範囲内の物体を宙に浮かせる。最大浮遊重量は、現在約5トン(要検証)。
【消音】:術者の発する音を完全に消す。
補助・便利魔法:
【鑑定】:物体の持つ基本的な性質や魔力量を読み取る。
【空間収納】:約10畳ほどの広さの亜空間を生成し、物体を収納・取り出し可能。時間経過は、ほぼ停止する。通称「次元ポケット」。
【洗浄】:汚れを落とす。
【発火】:指先で火をおこす。
「うーん、とりあえずこんなもんか……」
創はペンを置き、自分が書き出したリストを眺めて満足げに頷いた。
わずか一ヶ月。
だが、その成果は、この学院のどんな天才が一生かかっても辿り着けないであろう領域にまで達していた。
特に、最後の切り札として習得した「次元ポケット」は革命的だった。空間魔法の禁書レベルの理論書を三日三晩かけて読み解き、半ば自己流で完成させた超便利魔法。
これさえあれば、サンプルの運搬問題は完全に解決する。
「魔法の勉強は一通りしたし……安全かな??」
もちろん、上を見ればきりがないだろう。この世界には、時間や空間そのものに干渉するような神の領域の魔法も存在するらしい。
だが、創の目的は最強の魔法使いになることではない。
あくまで、自衛。
そして、その目的はひとまず達成されたと言っていい。
今の俺なら、たとえ特殊部隊にアジトを包囲されたとしても、無傷で切り抜けられるはずだ。
その確信が、彼に次のステップへ進む決意を固めさせた。
「そろそろ一ヶ月だし……戻るか」
日本の科学者たちとの約束の時が近づいている。
交渉の時間だ。
その日の午後、創は学院長であるアルバス・フォン・クロイツェルの執務室を訪れていた。
天井まで届く書架に埋め尽くされた、壮麗な部屋。
アルバスは、いつものように山のような書類に目を通していたが、創の姿を認めると優しく微笑んだ。
「おお、ハジメ殿。どうしたかな、改まって」
この一ヶ月で、二人の間には年の離れた友人、あるいは奇妙な師弟関係のような絆が生まれていた。
アルバスは、創がこの世界の人間ではないことを、おそらく最初から見抜いていた。だが、彼は何も聞かなかった。ただ、彼の無限の才能が開花していくのを温かく見守ってくれていた。
「学院長。しばらく、学院を離れようと思います」
創は、単刀直入に切り出した。
「実は、私の故郷で少し野暮用ができてしまいまして。いわば、実家に帰るというやつです」
創の言葉に、アルバスは驚いた様子もなく、静かに頷いた。
「……そうか。とうとう、行かれるか」
その目は、全てをお見通しだと語っていた。
「君がこの学院にもたらしてくれたものは、計り知れん。君が考案したあの新しい防御魔法の理論は、今後の魔法史を百年は進めたじゃろう。感謝しておるよ」
「いえ、俺の方こそ。ここでの知識がなければ、今の俺はありません」
それは、創の本心だった。
「……して、いつ戻られるかな?」
「さあ……。用事が済み次第とは思っていますが。もしかしたら、少し長くなるかもしれません」
「そうか……」
アルバスは、少しだけ寂しそうな顔をしたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。
「良い。君の席は、いつでも空けておこう。君はもはや、この学院の生徒ではない。我々教師陣にとっても、かけがえのない同胞であり、探求者じゃ。だから、いつでも帰ってきなさい。アカデメイア・アークスは、君のもう一つの故郷じゃぞ」
その温かい言葉に、創の胸が少しだけ熱くなった。
会社を辞めて以来、感じたことのなかった人との繋がり。
彼は、深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます。では、行ってまいります」
創は、学院長にだけ別れを告げると、誰にも見送られることなくひっそりと自室に戻った。
そして、一枚の羊皮紙に短い置き手紙を書き記す。
『実家に帰るので、しばらく留守にしますね。 ハジメ・ニッタ』
それを机の上に置くと、彼はふっと息を吐いた。
さらば、学び舎。
さらば、魔法の日々。
戦場は、ここではない。俺が本当に戦うべき場所は、故郷の世界だ。
創は、東京のあの散らかったワンルームマンションを強くイメージした。
そして、【異界渡り】を発動した。
◇
ふわりとした浮遊感の後。
創の鼻孔を突いたのは、魔法学院の古書の匂いではなく、どこか埃っぽい生活臭だった。
目を開けると、そこは見慣れた自分の部屋。
窓の外からは、車の走行音と、遠くで鳴り響く救急車のサイレンが聞こえてくる。
一ヶ月ぶりに帰ってきた、現実。
魔法学院の幻想的な風景とのあまりのギャップに、創は一瞬目眩を覚えた。
「……さてと。どうするか」
感傷に浸っている暇はなかった。
約束の一ヶ月が、目前に迫っている。
彼はノートパソコンを開き、あのフリーメールのアカウントにログインした。
受信箱は、あの日以来沈黙を保っている。
だが、その水面下で、相手がどれほどの準備を進めているか、想像に難くない。
創はノートを開き、対・日本政府交渉戦略のページを開いた。
「今の俺なら、一通りの武力には対抗出来る。けど……」
特殊部隊が突入してきても、シールドで防ぎ、魔法弾で無力化することは可能だろう。
だが、そんな野蛮な方法は彼の望むところではなかった。
彼が欲しいのは、相手を屈服させることではない。
相手に納得させ、こちらの要求を喜んで飲ませることだ。
そのためには、暴力よりももっと効果的なものが必要になる。
「ここは、インパクトが大事だしな……」
創の口元に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「猫にでもなって、面会して上げようかな」
そうだ。その手があった。
人間の姿で現れたのでは、相手は警戒し、身構えるだろう。
だが、そこに現れたのが一匹の小さな猫だったら?
そして、その猫が人語を解し、人知を超えた知識を語り始めたとしたら?
相手は混乱し、畏怖し、そしてこちらのペースに完全に引きずり込まれるに違いない。
「1000年を生きる大賢者とでも言えば、納得して貰えるかな?」
キャラクター設定は、重要だ。
自分は、新田 創というただの人間ではない。
異世界を渡り歩き、悠久の時を生きてきた超越的な存在。
そう思わせることができれば、交渉は圧倒的に有利に進む。
彼らが欲している未知の物質も、「我の悠久の旅の中で立ち寄った、数多の世界の一つから、気まぐれで持ってきたただの土産物よ」とでも言えばいい。
そうすれば、彼らはさらなる奇跡を求めて、俺にひれ伏すだろう。
「よし。大賢者として振る舞う。これで行こう」
方針は固まった。
創はパソコンに向き直り、新規メールの作成画面を開いた。
宛先は、前回返信した全ての研究機関。
件名は、「会見の儀について」。
そして、本文。
彼は脳内で完璧に作り上げた「大賢者」のペルソナになりきって、尊大で古風な文体を打ち込んでいく。
――我が声に応えし、矮小なる探求者たちよ。
約束の時は、満ちた。
我、汝らと会見の儀を執り行う。
我は汝らの世界に直接降臨する故、それに相応しき場を用意せよ。
場所は、汝らが決めよ。
日時は、この文が届きしより三日後。
準備が整い次第、指定の場所に目印を置け。
我はそれを確認し、汝らの前に現れよう。
心して待て。
「……よし、これでOKだ」
創は、自分が書いた中二病全開のメールを読み返し、満足げに頷いた。
そして、送信ボタンをクリックした。
賽は、投げられた。
さて、三日間。
連絡を待つ間、何をするか。
じっとしていても、落ち着かない。
ならば、やることは一つだ。
「それまで、あの草原で資料採取するか」
そうだ。交渉のテーブルに乗せるカードは、多ければ多いほどいい。
前回のサンプルが、あれだけの価値を持っていたのだ。
あの草原には、まだ計り知れないお宝が眠っているに違いない。
「サンプルは、多いほど良いだろうしな」
創は立ち上がった。
以前の肉体労働とは、訳が違う。
今の俺は、魔法使いだ。
「魔法あるしな。魔物の遺体とかは、次元ポケットに入れれば良いから楽だな」
彼はにやりと笑うと、少しだけ服装を整えた。
そして、一ヶ月ぶりに、あの二つの太陽が輝く草原へとその身を転移させた。
◇
草原の空気は、何も変わっていなかった。
創は大きく深呼吸をし、清浄な空気を肺に満たした。
帰ってきた。
彼は、まず周囲の安全を確認すると、早速作業に取り掛かった。
以前の彼とは、全く違う。
スコップを使うまでもない。
創が地面に手をかざし、「浮遊」と軽く念じるだけで、地面がまるで生き物のように滑らかに掘り返され、土や石が宙に浮かび上がる。
彼は、その中から魔力を多く含んでいそうなものを、「鑑定」の魔法で見つけ出し、次々と次元ポケットに収納していく。
「いやー、楽ちん楽ちん」
鼻歌交じりに、作業を進める。
以前、半日以上かかった五箇所分のサンプル採取など、わずか一時間ほどで終わってしまった。
だが、彼はそこで満足しなかった。
もっと奥へ。
まだ誰も足を踏み入れていないであろう、未知の領域へ。
彼は草原を抜け、近くの森へと足を踏み入れた。
木々の種類も、地球のものとは全く違う。幹が螺旋状にねじれていたり、葉が虹色に輝いていたりする。
創は、薬効のありそうな植物を見つけるたびに鑑定し、サンプルとして回収していった。
『フィラ草:強力な鎮痛作用を持つ』
『月光苔:暗闇で燐光を発する』
『涙ダケ:傘から滴る液体は、あらゆる傷を癒す回復薬となる』
どれもこれも、現代の地球に持ち帰れば、医学界や製薬業界がひっくり返るような代物ばかりだ。
森の奥深くへと進んでいった、その時。
創の鋭敏になった聴覚が、前方の茂みの奥から、獣の唸り声を捉えた。
グルルルル……。
それは、明らかに威嚇の声だった。
創はぴたりと足を止め、身構えた。
来たか。
この世界の、原生生物。
茂みがガサガサと大きく揺れたかと思うと。
そこから姿を現したのは、体長三メートルはあろうかという巨大な猪だった。
だが、ただの猪ではない。
その背中からは鋭い骨の棘が何本も突き出し、両目と口からは不気味な緑色の燐光が漏れ出ている。
牙は、まるでサーベルのように長く、鋭く湾曲していた。
「……デカっ」
創は、思わず呟いた。
魔猪は、創を敵と認識したのか、四本の蹄で地面を激しく掻きむしり、フゴッフゴッと荒い鼻息を吐いている。
そして、次の瞬間。
猛烈な勢いで、突進してきた。
その速度は、暴走する軽トラックのようだった。
だが、今の創は、もうただの無職の男ではない。
彼は、冷静だった。
迫り来る魔猪に対し、右手をすっと前に突き出す。
「【運動エネルギー吸収障壁】」
彼の目の前に、半透明のハニカム構造のシールドが展開される。
ズウウウウウンッ!!!
凄まじい衝撃音と共に、魔猪の巨体がシールドに激突した。
しかし、シールドはびくともしない。
それどころか、魔猪の突進の運動エネルギーを完全に吸収し、その巨体をぴたりと空中で静止させた。
「……グル……?」
魔猪が、何が起こったのか分からず、混乱したような声を上げる。
その隙を、創は逃さなかった。
「悪いな。君も、貴重な交渉材料になってもらう」
彼は、左手に意識を集中させる。
十数個の小さな光の球が生成され、彼の周りを浮遊し始めた。
それは、彼が魔改造した【魔法弾】。
一つ一つに、異なる効果を付与してある。
「――撃て(ファイア)」
創が命じると、十数発の魔法弾が一斉に射出された。
数発が、魔猪の動きを封じるための麻痺効果弾。
数発が、その意識を刈り取るための睡眠効果弾。
そして、最後の数発が、その硬い毛皮を貫くための高貫通弾だ。
魔法弾は、まるで意思を持つかのように、魔猪の急所へと吸い込まれていく。
魔猪は、悲鳴を上げる間も無く、その巨体を地面に横たえ、完全に動きを止めた。
「……ふう」
創は、息を吐いた。
初めてこの世界の生物を本格的に相手にしたが、結果は圧勝だった。
彼は、倒れた魔猪に近づくと、その巨大な牙や背中の鋭い棘、そして頑丈そうな毛皮を、ナイフ代わりに生成した風の刃で器用に切り出し、次元ポケットに収納していった。
これらの素材も、地球の科学者たちにとっては、垂涎の研究対象となるだろう。
「よーし、頑張るぞい!」
新たな交渉カードを手に入れ、創は意気揚々と声を上げた。
彼のモチベーションは、最高潮に達していた。
それは、もはや金のためだけではない。
未知の世界を探求する楽しさ。
そして、自分の力がどこまで通用するのか試したいという、純粋な好奇心。
三十五歳にして彼は、まるで冒険を始めたばかりの少年のように、目を輝かせていた。
日本政府との決戦の日は、もうすぐそこまで迫っている。