第66話
神の不在は、神の存在をより強く人々に意識させる。
賢者・猫が、その気まぐれな、しかしあまりにも巨大な神の玩具を、日米両政府という二人の子供の手に委ねてから、季節は冬の最も深い場所へと、その歩みを進めていた。
世界は、変わった。
『ウォルター・リードの奇跡』によって、人類は初めて死という絶対的な敵に対抗する術を手に入れた。
だが、その奇跡はあまりにも限定的で、そしてあまりにも残酷な選別を人々に強いた。
千人分の命。
そのあまりにも小さな希望の光を巡って、世界の水面下では、国家間の醜い嫉妬と、欲望と、そして外交という名の静かなる戦争が繰り広げられていた。
そして、その混沌の中心で。
日本の国家中枢は、もはや他国の動向など意に介する余裕さえ失っていた。
彼らが今、対峙しているのは世界ではない。
神そのものと、そして神が残していった、あまりにも不可解な謎かけだった。
官邸の地下深く、プロジェクト・キマイラの作戦司令室。
その空気は鉛のように重く、そして濃密なパラノイアの匂いに満ちていた。
巨大な円卓を囲む宰善総理、橘紗英、綾小路官房長官、そして各省庁のトップたちの顔には、ここ数ヶ月の常軌を逸した緊張と、睡眠不足による深い疲労の色が刻み込まれていた。
彼らの視線は、中央のホログラムスクリーンに映し出された一枚の極秘の報告書に、釘付けになっていた。
それは、茨城県筑波の地下要塞『サイト・アスカ』で、日夜繰り広げられている日米共同研究の進捗を監視する、橘の部下たちからの最新のインテリジェンス・レポートだった。
「………………」
長い沈黙を破ったのは、橘紗英の氷のように冷徹な声だった。
「……どうやら、我々の懸念は的中したようですね」
彼女は、報告書の一つの項目を指し示した。
その項目には、こう記されていた。
「『――米国側研究チーム、アーティファクト『星の涙』の組成の完全な均一性に対し、強い疑念を表明。その起源について、天然の産物、あるいは古代の遺物であるという我々の公式見解とは異なる、独自の仮説の構築を開始した模様』……彼らの現在のワーキング・セオリーは、こうです」
橘は、静かに、しかしその言葉の一つ一つに鋼の如き重みを込めて読み上げた。
「…………『日本政府は、ポーションを大量生産できる未知の一次アーティファクトを所持している』……と」
その一言は、静まり返った司令室に、まるで爆弾が投下されたかのような衝撃をもたらした。
閣僚たちの間から、どよめきが起こる。
「な、なんだと!?」
「……奴らめ……! やはり、気づきおったか……!」
「……我々のキマイラ計画が、見破られたというのか!?」
そのパニックに陥りかけた空気を制したのは、官房長官、綾小路の、どこまでも冷静な、しかしどこか楽しげな声だった。
「……まあまあ、皆様。……少し落ち着きなさい」
彼は、その蛇のような目でスクリーンに映し出された報告書を見つめていた。
「……ふっふっふっふ……。……いやはや、面白い。……実に面白いではありませんか。……さすがは、アメリカの天才たち。……我々が提示した餌の、そのさらに奥にある、存在しないはずの『本当の餌』の匂いを、嗅ぎつけおったわい」
そのあまりにも不謹慎な物言いに、外務大臣の古賀が青い顔で食ってかかった。
「あ、綾小路君! 面白いではないだろう! ……これは、我が国の情報戦略の完全な失敗を意味するのだぞ! ……彼らは、我々が嘘をついていると確信した! ……これでは、日米の同盟関係に深刻な亀裂が……!」
「……まあ、そう考える気持ちも分かりますよ、古賀大臣」
綾小路は、その悲痛な叫びを、まるで子供をあやすかのように受け流した。
「……まあ、他国だったとしたら、我々とてそう考えるでしょうしな。……目の前に千人分の完璧な品質の奇跡の薬を見せられて、『これは古代の墓から偶然出てきた一点物です』などという戯言を、誰が信じるものですか。……彼らが、その裏に巨大な『生産工場』の存在を夢想するのは、むしろ当然の帰結です」
彼はそこで、一旦言葉を切った。
そして、その顔に悪魔のような笑みを浮かべた。
「……そして、その勘違いは……。……我々にとって、これ以上ないほどに『好都合』ではありませんかな?」
「…………は?」
「……彼らに、そう思わせておけば良いのですよ」
綾小路は言った。
「……彼らに、存在しない『ポーション量産アーティファクト』という幻の獲物を追いかけさせておけば良い。……その幻影に夢中になっている限り、彼らは決して我々の本当の秘密……すなわち、『賢者』様の存在そのものには、たどり着けない。……これは、失敗などではない。……我々のキマイラ計画が生み出した、最高の、そして最も強固な第二の防壁なのですよ」
そのあまりにも逆説的で、そしてあまりにも狡猾な論理の転換。
司令室は、再び静まり返った。
誰もが、その男の底知れない知略に戦慄していた。
そうだ。
彼らは、勘違いしている。
だが、その勘違いこそが、彼らを真実から遠ざける最高の目くらましになるのだ。
宰善総理が、深く、深く頷いた。
「………………面白い。……面白いぞ、綾小路。……君の言う通りだ。……ならば、我々が今なすべきことは、彼らのその可愛らしい勘違いを、訂正してやることではないな」
彼の目にも、老獪な政治家の輝きが宿っていた。
「……我々が今なすべきことは、ただ一つ。……彼らの疑念を煽ることもなく、かといって安心させることもなく、ただひたすらに沈黙を守り、そして我々の神との約束を果たし続けることだ。……そうだ、それより金や現物の収集を急げよ」
その総理の一言で、会議の議題は一気に現実的なものへと引き戻された。
金。
宝石。
そして、時計。
賢者が次なるポーションの対価として要求した、あまりにも世俗的で、そしてあまりにも調達が困難な献上品。
財務大臣が、苦渋に満ちた表情で報告を始めた。
「……総理。……金の国際市場は、既にパニックの一歩手前です。……我が国の中央銀行と政府系ファンドが匿名の買いを入れているという噂が広まり、価格は異常な高騰を続けております。……これ以上の大規模な買い占めは、世界経済そのものを崩壊させかねません……」
「……宝石も、同様です」
経済産業大臣が続けた。
「……世界の主要なオークションハウスは、軒並み我々のダミー会社によって落札されております。……もはや、デ・ビアスやティファニーといった巨大資本でさえも、我々の無限の購買力の前に悲鳴を上げております。……ですが、これももはや限界に近いかと……」
そのあまりにも絶望的な報告。
だが、その報告を聞いていた宰善総理の心は、不思議と穏やかだった。
彼の脳裏には、一つの絶対的な確信があった。
それは、この数ヶ月の神との対話の中で、彼が掴み取った一つの真理だった。
「…………賢者様は……」
彼は、誰に言うでもなく呟いた。
「…………おそらく、複数の世界で取引してらっしゃる。……そして、様々な世界で物品を捌いてるから、お忙しいんだ……」
そうだ。
あのお方は、ただ我々の世界だけに関わっておられるのではない。
我々の知らない無数の世界を股にかけ、壮大なビジネスを展開しておられるのだ。
我々が今、必死でかき集めているこの金や宝石も、あのお方にとってはその巨大なビジネスの、ほんの一部の決済手段に過ぎないのだろう。
そのあまりにもスケールの大きな、神の視点。
それを想像した時、宰善総理の心の中に、一つの奇妙な、しかし揺るぎない感情が芽生えていた。
それは、畏怖や恐怖ではなかった。
それは、あまりにも巨大で、そしてあまりにも有能すぎる上司、あるいは取引先のために、死に物狂いで働く部下のそれに近い、一種の「使命感」と「誇り」だった。
「…………聞け、諸君」
総理は、立ち上がった。
その声は、もはや迷いを断ち切った指導者の力強さに満ちていた。
「……賢者様が、働いてらっしゃるんだ。……無数の世界を駆け巡り、我々のためにあの奇跡を調達するためにだ。……その神がこれほどまでに働いておられるというのに、我々矮小なる人間が、口先だけで不可能だの、困難だのと泣き言を並べていてどうする!」
彼は、円卓をドンと叩いた。
「…………こちらも、口を動かす前に、体を動かさなければならん! ……賢者様のその偉大なる事業の足を引っ張るような無能だけは、断じてあってはならんのだ!」
そのあまりにも精神論的で、そしてどこまでも日本的な熱い檄。
それは、疲弊しきっていた閣僚たちの心に、再び無理やりの火を灯した。
「……そうだ……!」
「……総理の仰せられる通りだ……!」
「……我々がやらねば、誰がやる!」
司令室は、再び狂信的な熱気に包まれた。
そして、その熱狂の中で、一つの恐るべき、そしてどこまでも無謀な国家プロジェクトの始動が決定された。
綾小路官房長官が、その蛇のような目で経済産業大臣を見据えた。
「……経産大臣。……君に命じる。……国内の全ての関連メーカーに対し、極秘で量産体制の再構築を指示しなさい」
「……はっ?」
「……塩、砂糖、香辛料、そしてベーキングパウダー。……それら、賢者様が最も効率が良いと仰せられた現物資産の国内生産量を、今後倍増させるのだ。……いや、違うな。……『もう一国分増やす』のだ」
「…………も、もう一国分ですと!?」
経産大臣が、悲鳴を上げた。
「……我が国の消費量を遥かに超えるその量を、一体どうしろと……!?」
「……決まっておるだろう」
綾小路は、冷たく言った。
「……全て、賢者様への『献上品』とするのだよ。……金や宝石の調達が困難なのであれば、我々は現物でその誠意を示すしかない。……それだけの物量を確保するためには、もはや国内の生産力だけでは足りぬ。……分かるな?」
彼は、続けた。
「……我が国の友好国、特に東南アジアや南米の国々に、政府開発援助(ODA)の名目で最新のプラントを建設し、そこで生産された砂糖や香辛料を、全て我が国が言い値で買い取るのだ。……それでも、足りないくらいなんだ」
そのあまりにも壮大で、そしてどこまでも本末転倒な計画。
彼らは、もはや神の要求に応えるためだけに、世界の経済地図そのものを塗り替えようとしていた。
彼らの狂気は、もはや誰にも止められなかった。
彼らは、信じていた。
自分たちが今やっていることが、神の偉大なる事業を支えるための、最も尊い仕事なのだと。
その頃。
彼らが神の如く崇め奉る、その張本人は。
東京、中野区の薄汚れたワンルームマンションの、ゲーミングチェアの上で。
久しぶりに訪れた鋼鉄の街『ギア・ヘイム』での、新たなビジネスの成功に一人悦に入っていた。
彼の目の前のモニターには、鉄の女男爵、セラフィーナ・フォン・アイゼンベルクからの定期報告のメールが映し出されていた。
『――拝啓、ハジメ様。……貴方様より賜りました『時計』という名の小型精密時間計測装置は、我がギルドの最高の技術者たちを以ってしても、その構造の百分の一さえも理解できず、彼らは今や、貴方様を時の神の化身として崇拝しております。……また、あの『魔法の白い粉』は、我が街の食文化に革命をもたらしました。……つきましては、次回ご来訪の際には、約束通り、この街の全ての富をかき集めてでも、最高の金貨をご用意してお待ちしております――』
「…………ふっふっふ」
創は、満足げに笑った。
「……いやー、我ながら商才あるなあ。……この調子なら、グランベル王国とこのギア・ヘイム、二つの世界だけでポーション代とスキルジェム代は、余裕で稼げるな。……日本の政府には、もうあんまり無茶なお願いしなくても、済むかもしれないな」
彼は、どこまでも楽観的だった。
そして彼は、日本のエリートたちが、今、自分のためだけに、どれほどの血と、汗と、涙と、そして国家予算を流しているかなど、全く想像さえしていなかった。
彼は、立ち上がると、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
そして、その黄金色の液体を喉へと流し込みながら、呟いた。
「……さてと。……今日は、どの世界に遊びに行くかなあ」
彼のあまりにも呑気で、そしてあまりにもぐうたらな呟きは。
世界の経済と歴史が音を立てて軋み、彼の知らないところで、新たな混沌の時代へとその重い扉を開けようとしている、その壮大なBGMのすぐ隣で。
誰に聞かれることもなく、ただ静かに、東京の夜の空気の中へと溶けて消えていった。