第65話
神の気まぐれな指先が、再び世界の運命という名の繊細な天秤を揺さぶった。
新田 創――賢者・猫が、日本政府に、まるで近所の子供に駄菓子でも分け与えるかのような気軽さでもたらした、千人分の奇跡のポーション。
そのあまりにも巨大で、そしてあまりにも重すぎる希望の塊は、日本という小さな島国が単独で抱えきれる代物では、到底なかった。
その報せが、極秘の外交ルートを通じてワシントンのホワイトハウスへともたらされた時。
アメリカ合衆国大統領とその側近たちは、まず歓喜し、そして次の瞬間、深い、深い絶望の淵へと叩き込まれた。
千人分の命。
それは、確かに奇跡だ。
だが、その奇跡を今この瞬間も待ち望んでいる声なき声は、世界中に何十億と存在する。
誰を選び、誰を見捨てるのか。
その神の如き選別の権利と、そしてその悪魔の如き責任。
その全てを、日本のあの老獪な狐たちは、友情と信頼という美しいリボンをかけた贈り物の箱に詰めて、こちらへと丸投げしてきたのだ。
「…………あのクソッタレどもが……!」
オーバルオフィスで、大統領がその生涯で最も下品な言葉を吐き出したのを、その場にいた誰も責めることはできなかった。
だが、彼らがその外交的な悪夢にうなされている、まさにその裏側で。
日本の反撃は、まだ終わっていなかった。
彼らは、アメリカがその毒入りの甘い果実を飲み込むしかないと確信した、まさにそのタイミングで、次なる一手、すなわち世界中に向けた公式の声明を発表したのだ。
それは、もはや外交ではなかった。
一つの国家が、その全ての責任を放棄し、そしてその責任をたった一つの同盟国へと押し付けるという、歴史上前例のない、壮大な責任転嫁の儀式だった。
官邸の、定例記者会見場。
そこに立ったのは、再びあの官房長官、綾小路俊輔だった。
彼のその学者然とした顔には、深い同情と、そしてどこか他人事のような、静かな諦観の色が浮かんでいた。
彼は、世界中のメディアが見守る中、用意された声明文を淡々と読み上げた。
その声は、まるで遠い国の悲劇を伝えるニュースキャスターのように、どこまでも平坦だった。
「……まず初めに、現在、世界中で不治の病に苦しんでおられる全ての患者様、及びそのご家族の皆様に、日本国政府として、心からのお見舞いを申し上げます」
彼はそこで一度、深々と頭を下げた。
「……その上で、皆様に一つの希望のお知らせと、そして一つの重要なお願いがございます。……先日来、日米両政府が共同で進めておりますアーティファクト『星の涙』の解析作業により、我々は、新たに限定的ではありますが、追加の備蓄分を確保することに成功いたしました」
その一言に、会見場がどよめいた。
世界中の人々が、テレビの画面に食い入るように見つめる。
「……ですが」と、綾小路は続けた。その声には、深い悲しみの色が込められていた。
「……その数はあまりにも少なく、世界中の全ての患者様をお救いするには、到底足りるものではございません。……このあまりにも重い事実を前に、我々日本政府は、苦渋の決断を下しました」
彼は、カメラの向こうにいる世界中の人々に、語りかけるように言った。
「……この奇跡の恩寵を、どの国の、どの民に与えるべきか。……そのあまりにも神聖で、そしてあまりにも重い選別の権利を、我々日本人が独占することは、断じて許されるべきではないと。……この困難な決断は、特定の国家の利益や思惑を超えて、より普遍的な人道の見地から、なされるべきであると」
そして彼は、とどめを刺した。
その言葉は、どこまでも美しく、そしてどこまでも無責任だった。
「……つきましては、今後、『星の涙』の管理、及びその分配に関する全てのお問い合わせは、この歴史的事業の共同責任者であり、世界で最も進んだ医療技術と倫理観をお持ちである、我々の最も信頼すべき友人、アメリカ合衆国政府が新たに設置されました、特別倫理委員会へと、直接行っていただくよう、お願い申し上げます。……繰り返します。……本件は、もはや我が日本政府が主導する計画ではございません。……我々はただ、友人として、その重責を担ってくださったアメリカの勇敢なる決断を、静かに見守り、そして支援するだけでございます」
そのあまりにも完璧な、そしてあまりにも見事な責任放棄宣言。
それは、世界中に衝撃と、そして巨大な混乱をもたらした。
ホワイトハウスの電話回線は、パンクした。
世界中の全ての国々の首脳から、大使から、そして何億という一般市民からの問い合わせと、懇願と、そして怒りの電話が、洪水のように押し寄せた。
アメリカは、一夜にして世界の希望の最後の砦となると同時に、世界の全ての絶望と怨嗟を一身に引き受ける、巨大な避雷針となってしまったのだ。
◇
数日後。
メリーランド州、アンドルーズ空軍基地。
漆黒の闇に包まれた滑走路に、一機の日本の航空自衛隊の最新鋭輸送機が、静かにその巨体を降ろした。
その機体を取り囲むのは、もはや儀礼的な歓迎の列ではなかった。
それは、アメリカ軍の最も精鋭とされるデルタフォースの、重装備の兵士たちによって幾重にも張り巡らされた、絶対的な警備網だった。
輸送機の後部ハッチが、ゆっくりと開かれる。
中から現れたのは、日本の自衛隊員に護衛された、十数個のチタン製の厳重なコンテナだった。
そのコンテナが、アメリカ側の特殊車両へと移し替えられるその光景を、エヴリン・リード博士は、基地の管制塔の窓から冷たい目で見下ろしていた。
彼女の隣には、この歴史的な荷物の受け取りのために、ペンタゴンから直接派遣されてきた統合参謀本部の将軍が、腕を組んで立っていた。
「…………来たか」
将軍が、低い声で呟いた。
「……人類の未来を変える千人分の命が、あの箱の中に詰まっているのだな」
「ええ」
エヴリンは、静かに頷いた。
「……そして、その千人を選ぶという、地獄への片道切符も一緒にね」
彼女の言葉には、科学者としての興奮と、そして一人の人間としての深い疲労の色が滲んでいた。
その日の深夜。
ワシントンD.C.郊外、アメリカ国立衛生研究所(NIH)の地下深くに新設された、最高機密レベルの研究施設『ラボ・プロメテウス』。
そこに、あの奇跡のコンテナが運び込まれた。
エヴリンと彼女のチームは、宇宙服のような陽圧式防護服に身を包み、そのコンテナの開封作業にあたっていた。
厳重な生体認証ロックが解除され、チタンの蓋が開けられる。
中から現れたのは、まるで宝石箱のように美しく、そして整然と並べられた、数百本の青い光を放つポーションの小瓶だった。
そのあまりにも幻想的な光景に、研究室にいた全ての科学者たちが息を飲んだ。
「…………わーお……」
材料科学の天才、マーカス・コールが、子供のような感嘆の声を上げた。
「…………こんなにあるのかよ……。……信じられない……。まるで、天の川を瓶の中に閉じ込めたみたいだ……」
だが、エヴリンの目は、その美しさにはなかった。
彼女の目は、一つの根本的な、科学的な矛盾点に釘付けになっていた。
彼女は、助手に命じた。
「……コール博士。……ランダムに十本のバイアルを抽出。……ただちに、質量分析とスペクトル解析を開始して」
「アイアイ、キャプテン!」
マーカスは、陽気に敬礼すると、その巨大な手で器用に小瓶をつまみ上げ、分析装置へと運んでいった。
数分後。
研究室のメインモニターに、十本のサンプルから得られた解析データが、同時に表示された。
そして、そのデータが意味するものを理解した瞬間。
それまでざわついていた研究室が、水を打ったように静まり返った。
モニターに表示されていたのは、十の、完全に同一のグラフだった。
誤差、というものが存在しない。
分子レベルで、原子レベルで、その組成、構造、エネルギー量、その全てが、完璧に、寸分の狂いもなく一致していたのだ。
「…………ありえない……」
脳神経科学者、ケンジ・タナカが、かすれた声で呟いた。
「……これがもし、天然の産物、あるいは古代の錬金術で作られたものだとしたら、これほどの完璧な均一性は、絶対にありえない……。……ロットごとに、必ず僅かな成分のばらつきが生じるはずだ……。……これは……これは、まるで……」
「……ええ」
エヴリンが、その言葉を引き取った。
彼女の声は静かだったが、その中には、一つの恐るべき確信が込められていた。
「…………これはまるで、最新鋭の工場で、完璧な品質管理の下、大量生産された工業製品のデータだわ」
その一言は、天啓だった。
そして同時に、悪魔の囁きだった。
研究室にいた全ての科学者たちの頭の中に、一つのあまりにも衝撃的で、そしてあまりにも論理的な仮説が、雷鳴のように轟き渡った。
「……待ってくれ……」
マーカスが言った。
「……じゃあ、まさか……。……日本政府が言っていた『星の涙』は、アーティファクトそのものじゃあないってことか……?」
「……そうよ、マーカス」
エヴリンは、頷いた。
「……私たちはずっと、間違っていたのかもしれない。……私たちはずっと、奇跡の『結果』ばかりに目を奪われていた。……だが、もし彼らが隠している本当の奇跡が、『結果』ではなく、その『原因』の方だったとしたら……?」
彼女は、立ち上がった。
そして、ホワイトボードの前に立つと、震える手でその恐るべき仮説を書き記していった。
「…………もしかして、『星の涙』はアーティファクトというか、アーティファクトで『生成』される物で。……日本政府に、こんなにあるってことは、『生産』してるってことじゃないの……?」
そのあまりにも冒涜的で、そしてあまりにもありえそうな結論。
それは、これまでの日米間のパワーバランスを、完全に無意味なものへと変えてしまう、究極のゲームチェンジャーだった。
日本は、ただ古代の遺物を発見しただけの、幸運な国ではなかった。
彼らは、その遺産を利用し、奇跡を「量産」する技術を、既に確立している。
彼らは、神の恩寵を受けるだけの信徒ではない。
彼らは、神の御業を再現する、新たな「神」そのものに、なろうとしているのだ。
そのあまりにも恐ろしい事実に直面して。
アメリカの最高の頭脳たちは、しばし言葉を失っていた。
やがて、ケンジ・タナカが、震える声で言った。
その言葉は、その場にいた全員の心の声を代弁していた。
「…………じゃあ、僕たちは……。……彼らに、完全に一杯食わされたってことなのか……?」
その問いに、エヴリンは静かに首を横に振った。
「……いいえ、まだそうと決まったわけではないわ。……これは、まだ仮説に過ぎない」
だが、彼女の頭脳は、既に次なる一手、そしてその先の未来までを見据えていた。
彼女は、大統領府へと繋がる極秘のホットラインに手を伸ばした。
「……ミスター・プレジデント。……緊急の報告があります。……我々は今この瞬間も、壮大なチェス盤の上で、日本の友人たちとゲームを続けているようです。……そして、どうやら彼らは、我々がまだ知らない『クイーン』の駒を隠し持っている可能性が、極めて高い」
彼女はそこで、一旦言葉を切った。
そして、その声に絶対的な覚悟を込めて言った。
「……ですが、大統領。……このゲーム、我々が降りることは許されません。……ええ、決して。……たとえ、この先にどのような罠が待ち受けていようとも」
そして彼女は、一つの戦略的な決断を下した。
それは、このゲームに勝利するための、苦渋の、そして唯一の選択だった。
(…………まあ、この仮説を今彼らに突きつけても、彼らは決して認めはしないでしょうね。……それどころか、警戒して、次回からこの貴重なサンプルさえも取り上げられてしまう可能性が高い。……ならば……)
彼女の思考は、氷のように冷徹だった。
(…………突っ込まない。……今は、まだ。……我々は、何も知らないふりをする。……そして、この千人分の奇跡をありがたく頂戴し、水面下で、我々自身の手でこの仮説の裏付けを取る。……そう、我々は彼らの掌の上で踊っているふりをしながら、静かに、そして確実に、反撃の牙を研ぐのよ……)
そのあまりにもしたたかな女狐の決断を。
日本の司令室で、モニター越しに彼らの反応を監視していたもう一人の鉄の女、橘紗英は、まだ知る由もなかった。
彼女は、アメリカ側の科学者たちが、サンプルの完璧な均一性に驚愕し、そしてそれ以上の深い追及をしてこなかったことに、安堵の息を漏らしていた。
(……ふう。……第一関門は、突破ですわね。……さすがのアメリカの天才たちも、まさかこれが、全く別の世界の小さな工房で手作りされたポーションであるとは、夢にも思うまい……)
神と人間と、そして国家と国家の、壮大な化かし合い。
その複雑に絡み合った欺瞞の糸は、もはや誰にも解きほぐすことのできない、運命の結び目を作り始めていた。
そして、その全ての元凶である男が、その頃何をしていたかというと。
彼は、久しぶりに訪れたグランベル王国の『陽気な猪亭』で、石工のジャックと再会し、彼が今や民衆から「聖ジャック」と呼ばれ、そのあまりの生きづらさに本気で悩んでいるという愚痴を聞きながら、腹を抱えて笑っていたという事実を。
まだこの世界の誰も、知る由もなかったのである。




