第6話
新田 創が入学してから、一週間。
大魔法学院『アカデメイア・アークス』は、創立以来千数百年と続くその歴史の中で、最も奇妙で、最も熱狂的な一週間を過ごしていた。
全ては一人の男、ハジメ・ニッタという東方の誰も聞いたことのない国からやってきた、三十五歳の規格外な新入生のせいだった。
入学初日の「基礎魔素操作論」で、教室一つを吹き飛ばしかねないほどの光の太陽を顕現させた一件は、瞬く間に学院中に知れ渡った。
生徒たちは食堂や談話室で、その話題で持ちきりだった。「見たか、あの光を」「まるで神話の一場面だった」「彼は一体何者なんだ?」と。
そして、その噂はすぐに教師たちの間にも、深刻な議題として広まっていった。
緊急で招集された教授会は、連日紛糾を極めた。
「彼の魔力量は、伝説の『真実の水晶』を破壊したことからも測定不能。我々の誰よりも、遥かに上だ」「あのような逸材を、通常の新入生と同じカリキュラムで学ばせるなど、宝の持ち腐れどころか危険ですらある!」「しかし、我々の誰が彼に魔法を教えるというのだ? 下手すれば、我々が彼から教えを乞うことになるやもしれんぞ!」
議論の末、学院長である白髭の老人――アルバス・フォン・クロイツェル――は、前代未聞の決定を下した。
新田 創に対し、専用の特別教育カリキュラムを適用する。
彼には特定の学年やクラスへの所属を義務付けず、学院の全ての施設――禁書庫を含むあらゆる書物や資料への、無制限のアクセス権を与える。そして、彼が望むならば、学院のどの教師からも一対一で個人的な指導を受けられるものとすると。
それはもはや、生徒というよりも、客員の大賢者か何かを迎えるかのような破格の待遇だった。
無論、創自身はそんな大騒ぎをどこ吹く風と受け流していた。
彼の目的はただ一つ、自衛手段の確保。
そのために、この学院の膨大な知識を利用できるのなら、これほど好都合なことはない。
彼は、周囲の好奇と畏怖の視線をのらりくらりと躱しながら、そのほとんどの時間を、学院が誇る巨大な図書館で過ごすようになっていた。
天井まで届く書架、書架、書架。何百万冊という、魔法に関するあらゆる知識がそこに眠っている。
創は、まるで乾いたスポンジが水を吸うかのように、その知識を猛烈な勢いで吸収していった。
彼の元プロジェクトマネージャーとして培われた論理的思考能力と情報整理能力は、魔法理論の学習において驚異的な効果を発揮した。
複雑怪奇に見える魔法陣も、彼にとっては仕様の入り組んだシステム設計図のようなものだ。呪文の詠唱も、特定の効果(function)を呼び出すためのコマンド(command)や引数(argument)として、彼は理解した。
そして何よりも、彼の魂に刻まれた【異界渡り】の能力が、彼の魔法への理解を根源的なレベルでサポートしていた。彼は、この世界の人間が一生かかって掴む「感覚」を、最初から「理論」として理解できていたのだ。
そんなある日、彼は図書館のさらに奥、普段は上級生の中でも特に許可された者しか入れない禁書区域に、足を踏み入れていた。
もちろん、学院長から特別に許可を得ている。
彼がそこで探していたのは、一つの特定の分野に関する魔法だった。
「あった……『高等変身術概論』……」
創は、分厚く、革の装丁が少し黴臭い古びた魔導書を書架から抜き取った。
変身魔法。
それは、彼が次なる自衛手段として目をつけていた魔法だった。
考えてみれば、当然だ。
姿を、形を、自由自在に変えることができれば、それは究極の隠密行動であり、完璧な逃亡手段となり得る。
万が一、現実世界で身元が割れ、追われる身になったとしても、猫や鳥に姿を変えてしまえば、誰が自分を見つけられるだろうか。
彼はその魔導書を、閲覧室の大きな机に広げると、夢中になってそのページをめくり始めた。
そこには、変身魔法の高度な理論がびっしりと書き込まれていた。
『――変身術とは、すなわち、術者自身の肉体を構成する魔素の配列情報を、対象となる生物の設計図へと一時的に書き換える高等技術である。これを完全にマスターするためには、生物学、解剖学、そして何よりも、自己の魂の形を正確に把握する強靭な精神力が不可欠となる……』
「なるほどな……」
創は、顎に手をやり呟いた。
「要するに、自分の体のCSSを書き換えるようなもんか。HTML構造(魂の形)はそのままで、見た目(肉体)のスタイルシートを猫用とか犬用に切り替えると」
他の魔法使いが聞けば卒倒しかねないような、現代的なIT用語の比喩で、彼は変身魔法の本質をいとも容易く理解してしまった。
CSSの書き換えなど、彼が十年以上、毎日飽きるほどやってきたことだ。
その日の深夜。
創は、誰にも見つからないように、学院の広大な中庭の一つに忍び込んでいた。
月明かりが、石畳を白く照らしている。
彼は、図書館で読んだ魔導書の内容を脳内で反芻する。
まずは、最も構造が単純で、魔力の消費も少ない小動物からだ。
猫。
彼は目を閉じ、一匹の黒猫の姿を思い浮かべた。
しなやかな体躯、滑らかな毛並み、暗闇で爛々と輝く翠色の瞳。そして何よりも、猫の骨格、筋肉、内臓の配置。その全てを、生物学的なデータとして正確にイメージする。
そして、自分の体を構成する魔素を、その猫の設計図へと再構築していく。
最初は、うまくいかなかった。
手足が妙に短くなったかと思えば、尻から尻尾が生えかかったり。
だが、創は焦らなかった。
トライアンドエラー、バグの修正。それは、彼の最も得意とするところだ。
彼は冷静に、自分の魔素の流れを微調整していく。
そして、十数回の試行錯誤の末。
彼の体は、音もなくその形を変えた。
三十五歳の中肉中庸の男の姿は、どこにもない。
そこにいたのは、夜の闇に溶け込むような、一匹の美しい黒猫だった。
「……にゃあ」
自分の口からそんな鳴き声が漏れ出たことに、創は驚いた。
視点が、極端に低くなっている。地面が、すぐ目の前だ。
そして、世界が全く違って見えた。
聴覚が、異常なまでに鋭敏になっている。遠くの森で、木の葉がカサリと揺れる音まで、はっきりと聞こえる。
嗅覚もそうだ。湿った土の匂い、夜露に濡れた草の匂い、そして遠くの厨房から漂ってくる焼きたてのパンの香ばしい匂い。あらゆる匂いが、情報の奔流となって鼻孔をくすぐる。
創は、おそるおる自分の前足を見た。
黒い毛に覆われた、小さな肉球のついた可愛らしい手。
彼はその前足で、ちょいちょいと地面を掻いてみた。
なんとも奇妙な感覚だった。
彼は少し助走をつけて、跳躍した。
すると、体が驚くほど軽やかに宙を舞い、音もなく着地した。
これが、猫。
創は、その新しい体に夢中になった。
彼は中庭を縦横無尽に駆け回り、木に登り、塀の上を軽やかに歩いてみせた。
しばらくそうして遊んだ後。
彼は、今度は犬への変身を試みた。
ゴールデンレトリバーのような、大型犬。
猫よりも構造が複雑で、魔力の消費も大きい。
だが、一度コツを掴んでしまえば、応用は簡単だった。
彼の体は再びその形を変え、月明かりの下に、金色の毛並みを輝かせる一頭の立派な犬が現れた。
「わん!」
創は嬉しくなって、尻尾をぶんぶんと振った。
そして、思う存分走り回った。
なんて、楽しいんだ。
これはもはや、自衛手段の確保という目的を忘れさせるほどの、純粋な愉悦だった。
しかし、彼の秘密の時間は終わりを告げる。
彼が犬の姿で中庭を駆け回っていると、ふと視線を感じたのだ。
見れば、回廊の影で。
数人の生徒と、夜間の見回り中だったらしい一人の教師が、口をあんぐりと開けてこちらを凝視していた。
「……あ、あれは……」
一人の生徒が、震える声で指を差す。
「……ニッタ先輩では……?」
まずい、と創は思った。
見られた。
彼は慌てて茂みの影に飛び込み、人間の姿に戻ろうとした。
しかし、その前に教師が叫んだ。
「ば、馬鹿な! 変身魔法だと!? しかも、寸分の狂いもない完璧な高等変身術……! あのような魔法は、少なくとも5年生以上のトップクラスの生徒でなければ、使いこなせんはず……!」
「それを、入学してまだ一週間の彼が……!」
「前代未聞だ……!」
その場にいた全員が、騒然となった。
創は、しまった、と舌打ちすると、人間の姿に戻るのももどかしく、犬の姿のまま猛然とダッシュした。
そして、闇の中へと姿を消した。
翌日。
学院は、再びハジメ・ニッタの新たな伝説で持ちきりになっていた。
曰く、彼はたった一週間で卒業レベルの高等変身術をマスターしたと。
曰く、彼はもはや人間ではなく、あらゆる生物に姿を変える古代の精霊の化身なのではないかと。
創が図書館へ向かうと、すれ違う生徒たちが皆、畏敬と少しばかりの恐怖が混じった目で彼に道を開けた。
彼は、居心地の悪さに頭を掻いた。
(俺、またなんかやっちゃいました?)
◇
変身魔法の習得は、創の自衛計画に大きな進展をもたらした。
だが、それはあくまで隠密と逃亡のための、消極的な防御手段だ。
彼が本当に欲しているのは、もっと積極的な防御の力。
彼の故郷の世界に存在する、理不尽なまでの暴力。
すなわち、重火器。
銃弾の雨、榴弾の爆発。それらから身を守るための、絶対的な盾。
周囲の、自分を神格化するような騒ぎをよそに。
創は、図書館の片隅で一人、新たな魔法の開発に没頭していた。
ノートの上には、彼が記憶を頼りに描いたアサルトライフルや手榴弾の、稚拙なイラストが描かれている。
「……問題は、運動エネルギーだ」
創は、ペン先でノートをとんとんと叩きながら呟いた。
この世界の防御魔法は、基本的に剣や矢、そして魔力による攻撃を想定して作られている。
だが、銃弾はそれらとは次元が違う。
質量は小さいが、その速度が異常なのだ。
音速を超える、金属の塊。
既存の、ただの「壁」を作るような物理障壁では、いとも簡単に貫通されてしまうだろう。
「壁じゃダメだ。衝撃を『受け流す』か、『吸収』するか、『無効化』する仕組みが必要だ……」
彼は、学院に存在するあらゆる防御魔法の理論書を読み漁った。
だが、どれも彼の要求を満たすものではなかった。
ならば。
「……創るしかないか」
自分で、創る。
既存の理論がないのなら、新しい理論を構築する。
幸い、この学院にはそのための材料(知識)が無限に転がっている。
そこからの創は、凄まじかった。
彼は、魔法理論と、彼が唯一この世界の人間より優れていると自負しているもの――現代世界の物理学の知識――を融合させるという、前代未聞の試みに着手したのだ。
彼は、ノートの上に無数の数式と幾何学模様を描き始めた。
それは、この世界の誰も見たことのない、異質な魔法陣だった。
魔素のエネルギー効率を最大化するための、フラクタル構造。
飛来する物体の運動ベクトルを計算し、最適な角度で衝撃を逸らすための、微分幾何学。
そして、シールドの表面に複数の特殊な魔力フィールドを層状に重ねることで、運動エネルギーを熱エネルギーや光エネルギーに変換・拡散させるという、革新的なコンセプト。
一週間後。
創は、学院長と各分野のトップの教授たちを、学院の最も大きな演習場に集めていた。
彼の、新しい魔法のデモンストレーションのためだ。
「……して、ハジメ殿。我々を集めて、一体何を?」
学院長が、いぶかしげに尋ねる。
「ええと、まあ、ちょっと新しい防御魔法を考えてみたので……皆さんのご意見を伺えればと」
創の謙虚な言葉に、教授の一人がふんと鼻を鳴らした。
「ほう、防御魔法とな。我々が千年以上かけて練り上げてきた魔法体系に、新人が何か付け加えることなどあるのかね?」
その言葉には、創の規格外の才能に対する嫉妬が含まれていた。
創は、何も言い返さなかった。
ただ静かに演習場の中央に進み出ると、右手をすっと前に突き出した。
「では、先生方。どなたでも結構ですので、私に本気で攻撃魔法を撃ち込んでいただけますでしょうか」
そのあまりにも不遜な言葉に、教授たちは色めき立った。
「……面白い。良いだろう。その自信、へし折ってくれるわ!」
先ほど創を嘲笑った、土属性魔法の大家である厳つい大男の教授が、一歩前に進み出た。
「いくぞ、小僧! 我が最強の攻撃魔法!【タイタンズ・フィスト】!!」
教授が叫ぶと、彼の目の前の地面が盛り上がり、直径三メートルはあろうかという巨大な岩の拳が形成される。
そしてそれは、轟音と共に創めがけて射出された。
山をも砕くと言われる、超質量の魔法攻撃。
生徒たちが、悲鳴を上げる。
だが、創は冷静だった。
彼は、脳内で設計した魔法陣を展開する。
そして、短く詠唱した。
「――【運動エネルギー吸収障壁】」
創の目の前に、半透明の六角形が蜂の巣のように組み合わさった、ドーム状のシールドが現れた。
それは決して分厚くはない。ガラス細工のように、繊細で儚げにすら見える。
次の瞬間。
岩の拳が、シールドに激突した。
誰もが想像したのは、シールドが木っ端微塵に砕け散る光景。
しかし、現実は違った。
キィィィン、という甲高い金属音のような音が響き渡ったかと思うと。
巨大な岩の拳は、シールドに触れたその瞬間。
まるで柔らかな粘土に飲み込まれるかのように、その運動エネルギーを急速に失っていく。
そして数秒後には、ただの巨大な岩塊となってシールドの目の前でぴたりと動きを止め、そのままゴトリと地面に落下した。
シールドには、傷一つついていない。
それどころか、シールドの表面が激突のエネルギーを吸収したせいで、淡い光を放ってさえいた。
演習場は、死んだように静まり返った。
誰もが、自分の目を疑っていた。
あのタイタンズ・フィストを、無傷で受け止める防御魔法など、この世に存在するはずがなかったのだ。
「……そ、そんな……馬鹿な……」
攻撃を放った教授が、がっくりと膝をついた。
「……私の魔法が……全く、通用しない……だと……?」
学院長が、震える声で創に尋ねる。
「……ハジメ殿……い、今のは……一体……?」
「ええと、まあ、飛んでくるものの運動量を計算して、逆ベクトルの力場で相殺しつつ、余ったエネルギーを熱とかに変換して拡散させるみたいな……そんな感じです」
創の物理学講座のような説明に、教授たちは一人としてついていけない。
だが、彼らは理解した。
目の前のこの男が成し遂げたことが、既存の魔法の常識を遥かに超えた偉業であることを。
「……素晴らしい……!」
学院長が、感極まったように叫んだ。
「なんと素晴らしい防御魔法だ! その完璧なまでのエネルギー効率! 革新的な防御理論! これは、魔法の歴史における大革命だ! ハジメ殿、君は……君はもしや……」
学院長は、創の両肩をがっしりと掴むと、涙ながらに言った。
「魔法の神の化身なのか???」
そのあまりにも大袈裟な賛辞に。
創は、ただ頬を掻くことしかできなかった。
(いや、これでアサルトライフルの7.62mm徹甲弾が防げるかどうかってレベルなんだけど……)
彼の内心の冷静な分析と周囲の神格化は、もはや修復不可能なほど乖離していた。
(俺、またなんかやっちゃいました?)
◇
究極のシールド魔法を完成させた創だったが、彼の探求はまだ終わらない。
彼は、さらに能動的な防御魔法の考案にも着手していた。
名付けて、「対・火薬兵器用領域」。
特定の空間内の火薬が、燃焼する際に必要となる急激な酸化反応を、魔力によって阻害するというフィールド系の魔法だ。
これが完成すれば、銃はただの鉄の塊と化し、手榴弾やミサイルは不発弾となる。
理論は、完璧に構築できた。
だが、こればっかりは試すことができなかった。
実験には、本物の銃火器が必要になる。
「さすがに、AK-47をこの世界に持ち込むわけにはいかないしな……」
創は残念そうに、その革新的な魔法の研究ノートを封印した。お蔵入りである。
防御を固めたら、次は攻撃だ。
自衛のためには、反撃の手段も必要になる。
彼は、学院の基本的な攻撃魔法である「魔法弾」の習得に取り掛かった。
魔力の塊を敵に撃ち出すという、シンプルな魔法。
だが、創はそれを彼流に魔改造していった。
ただの魔力の塊ではない。
弾丸の形状を変えることで貫通力を高めたり。
内部の魔素の回転数を上げることで、着弾した際に爆発的な効果を持たせたり。
あるいは、麻痺や睡眠の効果を付与したり。
まるで弾薬をカスタマイズするかのように、彼は自在に魔法弾の仕様を変更できるようになった。
さらに、複数の異なる効果を持つ魔法弾を同時に十数発生成し、それぞれ別のターゲットに寸分違わず撃ち込むという、精密射撃の訓練にも打ち込んだ。
そして彼は、戦闘魔法だけでなく、スローライフのための便利魔法の習得も怠らなかった。
「物を浮かす魔法」。
彼は、この初歩的な魔法を極限まで高めた。
最初は、本やカップを浮かせるのがやっとだったが、練習を重ねるうちに、机やベッドといった重量物も軽々と宙に浮かせられるようになった。
(これがあれば、異世界で資材を運ぶのも楽になるな。将来、自分の家を建てる時にも役立つだろう)
そんな悠々自適な未来を夢見ながら。
創は、今日も魔法の探求を続ける。
彼がこの学院に来て、まだ一ヶ月も経っていない。
そして、彼を神の化身と崇めるこの世界の住人たちは、まだ誰も知らない。
彼の本当の目的が、世界を救うことでも、魔王を倒すことでもなく。
ただひたすらに、「働かずに安全にのんびりと暮らしたい」という、三十五歳の無職の男の、ささやか、しかし切実な願いであることを。
そして、そのささやかな願いを叶えるために、彼が人知を超えたとんでもない力をその身に宿しつつあることを。
約束の一ヶ月が、刻一刻と近づいていた。