第59話
季節は、実りの秋から最初の木枯らしが王都の石畳を黄金色の落ち葉と共に舞わせる、冬の気配が色濃くなる頃へとその歩みを進めていた。
グランベル王国は、熱に浮かされていた。
あの魔法使いハジメ・ニッタがもたらした奇跡の数々――食文化に革命を起こしたスパイスと砂糖、そして人の理を超えた力を与えるスキルジェム――は、この国の隅々にまで豊穣と、そしてこれまで誰も知らなかった種類の新たな欲望の種を蒔いていた。
王都の空気は、明らかに変わった。
中央大市場には、南の港町から氷で冷やされたまま運ばれてくる新鮮な魚介類や、王立実験農場で収穫された栄養満点の野菜が、ありえないほどの安値で溢れている。民は満ち足り、その腹と心は幸福な温かさで満たされていた。そして、その感謝と忠誠の念は全て、この奇跡の時代を創造した偉大なる賢王アルトリウス三世陛下へと捧げられていた。
だが、その輝かしい光の裏側で。
王宮という名の、この国で最も華やかで最も格式高い鳥籠の中では、新たな、そして極めて厄介な流行病が、猛威を振るい始めていた。
その病の名は、『奇跡狂い』。
罹患者は、例外なく王国の貴族たちであった。
「……はー……」
王宮の最も奥深くにある国王の私的な執務室。
賢王アルトリウス三世は、その玉座にある時とは全く違う、深い、深い疲労の色をその怜悧な顔に浮かべ、こめかみを押さえていた。
彼の目の前の巨大な黒檀の執務机の上には、もはや国の未来を左右する重要法案の羊皮紙ではなく、それとは全く質の違う、しかし彼にとっては同等以上に頭の痛い「案件」のリストが、山と積まれていた。
『――案件一番。財務大臣より。宮廷晩餐会におけるスパイスの過剰消費による、食費予算の三倍増に関する緊急予算折衝の儀』
『――案件二番。宮内卿より。貴族子弟によるファイアボール・ジェムの不適切使用に起因する、王宮西庭園の一部焼失に関する現状報告及び修繕予算の請求』
『――案件三番。ラングローブ商会会頭ゲオルグ・ラングローブより。各国貴族からのスキルジェム追加発注に関する陳情書(※添付資料三百枚)』
「……シュトライヒよ」
王は、そのリストから顔を上げ、彼の右腕であり、この国で唯一その気苦労を分かち合える男、氷の宰相エドアルド・フォン・シュトライヒ伯爵に、弱々しい声で問いかけた。
「……朕は、間違っておったのだろうか。……あの奇跡を、彼らに分け与えるという決断は……」
宰相は、その常に冷静沈着な仮面のような表情を一切崩さず、しかし、その目の奥に深い同情の色を浮かべて、静かに首を横に振った。
「……いえ、陛下。陛下の御判断は、常に正しく、そして民を思ってのことにございます。……ただ、その神の如きご慈悲を、我々矮小なる人間の欲望の器が、受け止めきれておらぬだけでございましょう」
そのあまりにも的確で、そしてどこまでも救いのない分析。
アルトリウスは、再び深い溜め息をついた。
彼の気苦労は、今に始まったことではなかった。
それは、あの魔法使いが二度目にこの国を訪れ、スキルジェムという名の禁断の果実を置いていったあの日から、静かに、しかし確実に、この国の権力の中枢を蝕み始めていたのだ。
◇
最初の兆候は、食にあった。
創がもたらしたスパイスと砂糖は、瞬く間に貴族たちの間で、絶対的なステータスシンボルとなった。
晩餐会に招待した客に、どれだけ希少なスパイスを使った料理を振る舞えるか。
食後のデザートに、どれだけ高く砂糖を積み上げた菓子を出せるか。
それが、その貴族家の格と権勢を示す、新たな指標となったのだ。
その結果、王都の貴族たちの屋敷では、夜な夜な常軌を逸したグルメ・バトルが繰り広げられることとなった。
「ご覧くださいませ、侯爵閣下! これが、我が家が南方の秘境より取り寄せました幻の香木、『龍の息吹』にございます! この香りを纏わせた仔羊のローストは、まさに天上の味わい!」
「ふん、伯爵。貴殿のその自慢の香木も、我が家がラングローブの爺から無理やり買い占めたこの『純白の胡椒』の前では、ただの薪も同然ですな! 見なさい、この雪のような白さ! この刺激的でありながら、どこまでも気品のある香り! これこそが、真の王者のスパイスよ!」
彼らは、もはや料理の味そのものを楽しんでいるのではなかった。
ただ、希少な食材をその価値も理解せぬままに大量に消費し、互いの富を見せつけ合うという、不毛なマウンティング合戦に明け暮れていたのだ。
その最大の被害者は、もちろん、それらの奇跡の産物を一手に引き受けることになった商人、ゲオルグ・ラングローブだった。
彼の商会の前には、連日、貴族からの無茶な要求を伝える使いの馬車が、長蛇の列をなした。
「ゲオルグ殿! 我が主、バルトシュタイン公爵が仰せだ! 『明日の夜会までに、あの甘い粉を樽で十個用意せよ』と! もしできねば、どうなるか分かっておろうな!」
「ラングローブの旦那! うちの奥様が、『隣の家のパーティで出たという、あの黒くて苦くて甘い菓子を作れなきゃ、お前のところとは二度と取引しない』とご立腹だ!」
ゲオルグは、その神をも恐れぬ強欲の奔流を前に、ひたすらにその狸親父のような顔で人の良い笑みを浮かべ、頭を下げ続けるしかなかった。
「ははは……。皆様、どうか落ち着いて……。あの奇跡の産物は、かのかの魔法使い様のご都合一つ。……決して、我が商会で無限に作り出せるものではございません故……」
その彼の悲痛な言い訳が、欲望に狂った貴族たちの耳に届くはずもなかった。
彼は毎晩、空になったスパイスの棚と、うず高く積まれた貴族たちからの請求書の山を前に、人知れず胃を痛め、そして夜空に向かってただひたすらに祈るのだった。
(……ま、魔法使い様……! は、早く、早く次なるご来訪を……! このままでは、私の胃袋と金庫が先に限界を迎えてしまいます……!)
そして、貴族たちの愚行は、食の世界だけにとどまらなかった。
スキルジェム。
あの人の理を超えた力を与える神の石は、彼らの手に渡った瞬間、ただの危険で迷惑な玩具へと成り果てた。
その筆頭は、王国最強と謳われる騎士団を率いる、あの〝鉄血公〟ダリウス・フォン・ヴァルハイト公爵、その人だった。
彼は、王から特別に下賜された筋力増強のスキルジェムをその身に宿した結果、もはや人間兵器とでも言うべき、圧倒的な身体能力を手に入れていた。
だが、その有り余る力を、彼は国の守りのためではなく、自らの日常生活のあらゆる場面で、無駄に、そして豪快に発揮し始めたのだ。
ある日の宮廷会議。
固く閉ざされた重厚な会議室の扉を前に、若い文官が鍵を探して手間取っていた。
その時だった。
「――ぬるいッ!!!!」
背後から、雷鳴のような一喝が響き渡った。
ヴァルハイト公爵だった。
彼は、その若者の肩を熊のような腕で掴むと、まるで小枝でも払いのけるかのように、脇へと押しやった。
「いつまで待たせるか、ひよっこが! この程度の扉、我が力の前では紙も同然よ!」
彼はそう言うと、そのスキルジェムの紋章が浮かび上がった拳で、国の重要機密が議論される会議室の、何百年という歴史を持つ楢の木の扉を、ただ一撃で粉々に打ち砕いた。
扉の木片が爆散し、蝶番が悲鳴を上げてねじ曲がる。
会議室の中にいた他の貴族たちは、何事かとあっけに取られている。
その中心で、ヴァルハイト公爵は仁王立ちになり、満足げに鼻息を荒くしていた。
「……ふん。これでよし」
もちろん、その扉の修繕費は、全て国庫から支払われることとなった。
またある日。
王宮の庭園で、王妃が愛でていた噴水の調子が悪くなり、水が出なくなるというトラブルがあった。
庭師たちが原因を調べていると、どこからともなく、またあの雷鳴のような声が響き渡った。
「――そのようなか弱い腕で、何をしておるか!」
ヴァルハイト公爵だった。
彼は、庭師たちを優しく(ただしその腕力は常人の三倍である)脇へとどけると、噴水の土台となっている巨大な大理石の女神像を、一人でいとも容易く持ち上げてみせた。
「うおおおおおおっ! これで、中の水路が見えるであろうが!」
そのあまりの怪力に、周囲からは驚嘆の声が上がった。
だが、彼がその女神像を地面へと戻した、その瞬間。
バキッ、という嫌な音が響き渡った。
力の加減を間違えた彼は、その美しい女神像の繊細な指を、五本とも無残にへし折ってしまっていたのだ。
その女神像が、隣国の王家から友好の証として贈られた、国宝級の芸術品であったことを彼が知るのは、もう少し後のことである。
そして、その愚行の極め付けが、先日催された王主催の狩猟大会での出来事だった。
その日の獲物は、森に住まう、巨大な牙を持つ猪。
貴族たちが馬と猟犬を巧みに操り、その猪を追い詰めていく。
だが、その猪は歴戦の個体であり、巧みに森の中を逃げ回り、誰一人として止めを刺すことができないでいた。
その時だった。
森の木々をなぎ倒し、地響きを立てながら、一体の巨大な「何か」がその猪を追いかけてきた。
ヴァルハイト公爵だった。
彼は、もはや馬さえも乗り捨て、その人間離れした脚力だけで森の中を爆走していたのだ。
「待てええええええい、この豚めがぁ!」
彼は雄叫びを上げると、その猪に追いつき、なんとその背中に飛び乗った。
そして、猪の首をその丸太のような腕で締め上げ、プロレスの技のように地面に叩きつけたのだ。
猪は、一撃で絶命した。
そのあまりにも規格外で、そしてどこまでも野蛮な狩りの光景に。
その場にいた全ての貴族、そして猟犬さえもが、完全に凍り付いていた。
そして彼は、その巨大な猪の亡骸を一人で軽々と肩に担ぎ上げると、満足げに高らかに宣言した。
「……ふん。今年の獲物は、朕…いや、このわしがいただいたぞ!」
その日以降、王国の貴族たちの間で、狩猟大会への参加を辞退する者が急増したという。
もちろん、ヴァルハイト公爵だけではない。
若い貴族の子弟たちは、彼らなりに、スキルジェムの新たな、そしてどこまでも愚かな活用法を、日々模索していた。
彼らの間で、今、最も熱いブーム。
それが、『魔法バーベキュー』だった。
「いいか、皆! 今日のメインディッシュは、この最高級の子羊だ!」
若き伯爵家の嫡男が、王宮の庭園の片隅で、仲間たちを前に、高らかに宣言する。
彼の仲間たちが、その子羊の丸焼きを串に刺し、準備を整える。
そして彼は、仲間たちと円陣を組むと、一斉にその串刺しの子羊に向かって手のひらを突き出した。
彼らの手の甲には、それぞれ深紅の炎の紋章が輝いている。
ファイアボールのスキルジェム。
「――いくぞ、諸君! 合わせろ! せーの……!」
「「「ファイアーボールッ!!!!」」」
十数発の灼熱の火球が、一斉に放たれる。
次の瞬間、子羊の丸焼きは、凄まじい爆発音と共に、その姿を完全に消滅させた。
後に残されたのは、黒々と焼け焦げた巨大なクレーターと、そして茫然自失とする若者たちの姿だけだった。
「………………あ」
「………………やりすぎた」
「………………また、父上に叱られる……」
その一部始終を物陰から見ていた宰相シュトライヒが、静かにその手にした手帳に何かを書きつけた。
『――西庭園焼失の原因及び犯人の特定完了。……修繕費、金貨五百枚。……請求先、バルトシュタイン伯爵家……と』
彼の気苦労も、また尽きることはなかった。
そんな、あまりにも平和で、そしてあまりにも愚かな日々が続いていた、ある日のこと。
王宮の玉座の間で、定例の御前会議が開かれていた。
その議題は、もちろん、北の宿敵ヴァルストライヒ帝国への今後の対応についてだった。
数ヶ月前の、あの北の国境での一方的な蹂躙劇。
『銀色の悪魔』の伝説。
その恐怖は、今や帝国軍の兵士たちの心に、深く、深く刻み込まれていた。
おかげで、国境はかつてないほどの静けさを保っていた。
だが、鉄血公ヴァルハイトは、それで満足する男ではなかった。
彼は玉座の前に進み出ると、その武骨な声で、熱っぽく王に進言した。
「――陛下! 今こそ、好機にございます!」
彼は、拳を握りしめた。
「……北の若造皇帝レオポルドは、我が宝珠騎士団の力の前に完全に恐れをなし、今や城の中に引きこもって震えております! ……彼らが、この神の力への対抗策を練り上げる前に! ……この力をもって、一気に帝都ヴァルハラへと攻め入り、長年の宿敵との因縁に、完全に終止符を打つべきでございます! ……このヴァルハイトに、一万の兵と、そして百のスキルジェムをお与えくだされば、必ずや彼の首を陛下のおみやげとして持ち帰ってご覧にいれましょうぞ!」
そのあまりにも血気盛んで、そしてあまりにも短絡的な進言。
だが、その場の空気は、明らかに彼に傾いていた。
他の武闘派の貴族たちが、次々と同調の声を上げる。
「いかにも! ヴァルハイト公のおっしゃる通り!」
「今こそ、帝国の傲慢な鼻をへし折る時!」
「この力さえあれば、我らに敵はなし!」
彼らは、もはや完全に、その借り物の力に酔いしれていた。
会議が危険な熱狂に包まれ、タカ派の意見に完全に傾きかけた、その時だった。
「………………馬鹿を申せ」
静かな、しかし氷のように冷たい一言が、その場の熱狂を切り裂いた。
声の主は、玉座に座る国王アルトリウス三世だった。
彼の顔から、いつもの穏やかな笑みは消え失せていた。
その目に宿っていたのは、絶対的な王者の、深い、深い失望と、そして怒りの色だった。
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、その場にいる全ての貴族の顔を、一人一人、射抜くような視線で見つめた。
「……皆、忘れたか。……その力は、誰がもたらしたものであるかを」
王の声は、静かだった。だが、その静けさこそが、何よりも恐ろしかった。
「……その力は、我らが血と汗で勝ち取ったものではない。……全ては、かの魔法使い様の気ままぐれ一つにかかっておるのだ」
彼は、そこで一度言葉を切った。
そして、その声に雷鳴の如き威厳を込めて、一喝した。
「――ここで下手に事を起こし、魔法使い様のご機嫌を損ねてみよ。……我らは、明日にもこの全ての奇跡を失うことになるやもしれんのだぞ! ……借り物の力で覇を唱えるなど、王家の恥と知れ!」
その、あまりにも正論で、そしてあまりにも絶対的な王の一喝。
玉座の間は、水を打ったように静まり返った。
あれほど血気盛んだったヴァルハイト公爵でさえも、その王の気迫の前に完全に気圧され、青い顔でその場にひざまずいていた。
「…………も、申し訳……ございません……!」
アルトリウスは、深く息を吐き出した。
そして彼は、この愚かで、しかしどこか愛すべき臣下たちに、諭すように語り始めた。
「……よいか、皆。……この力は、戦争のためのものではない。……この力は、この国を守り、そして民を豊かにするための盾なのだ。……決して、他国を侵すための矛としてはならぬ。……それこそが、おそらくは、我々にこの力を授けてくださったあのお方の真の御心であろうと、朕は信じておる」
そのあまりにも高潔な王の言葉。
貴族たちは、もはや何も言うことができなかった。
彼らは、自分たちの浅はかさと、そして目の前の若き王のその器の大きさの前に、ただただひれ伏すことしかできなかったのだ。
その日の夜。
王の執務室で、アルトリウスは、ゲオルグ・ラングローブと宰相シュトライヒを前に、深い、深い溜め息をついていた。
「……やれやれだ。……まるで、新しい玩具を与えられた子供たちの守りをする、親の気分だよ」
そのあまりにも人間臭い愚痴に、ゲオルグとシュトライヒは思わず苦笑した。
「……ですが、陛下。……見事な御采配にございました」
シュトライヒが言った。
「……これであの猪武者たちも、当分は大人しくなることでしょう」
「……だと良いのだがな」
王は、頭を振った。
「……いや、これではダメだ。……彼らのこの有り余るエネルギーを、ただ押さえつけるだけでは、いつか必ず別の場所で暴発する。……彼らのこの情熱を、もっと建設的で、そして平和的な方向へと導いてやらねばならん……」
王の目は、既に次なる一手を見据えていた。
彼は、ゲオルグに向き直った。
「……ゲオルグよ。……そなたに、新たなプロジェクトを命じる。……あの魔法使い様を、そしてこの国の豊穣を讃えるための、壮大な『祭典』を計画せよ。……そして、その祭典のメインイベントとして、スキルジェムの力を平和的に、そして華やかに競い合う『王立魔法武闘会』を開催するのだ」
そのあまりにも斬新なアイデア。
「……武闘会でございますか……?」
「そうだ。……力自慢の者たちには、そこで思う存分その力を発揮させれば良い。……民衆は、そのスペクタクルに熱狂するだろう。……そして、その勝者には、朕から最高の栄誉と、そして新たなスキルジェムを下賜する。……どうだね? これならば、あの者たちの有り余るエネルギーも、国を豊かにするための最高のエンターテイメントへと、昇華させることができるであろう?」
その、あまりにも完璧な、そしてどこまでも平和的な解決策。
ゲオルグとシュトライヒは、顔を見合わせた。
そして、彼らの顔に、深い、深い感服の表情が浮かび上がった。
この王は、本物だ。
彼は、ただ力を誇示するだけの、凡百の王ではない。
彼は、人の心を知り、その流れを巧みに導く、真の賢王なのだ。
二人は、その場に深々とひざまずいた。
「「――陛下の御心のままに」」
こうして、グランベル王国の歴史は、またしても新たな、そしてより華やかなページへと、その駒を進めることとなった。
その全てが、ただ自分のビジネスの安定と安眠のためだけに、ほんの少しだけお節介を焼いた、遠い異世界のぐうたらな男の計算の結果であるということを。
まだ、この世界の誰も知る由もなかったのである。