第51話
賢者・猫が、まるで子供が飽きた玩具でも置いていくかのように去っていった後。東京、千代田区永田町の地下深く、プロジェクト・プロメテウスの作戦司令室は、新たな奇跡の分析と、そのあまりにも巨大な価値を前にした国家戦略の再構築という、熱病のような喧騒に包まれていた。
だが、その喧騒の中心から少し離れた、箱根の山中に設えられたプロジェクト・キマイラの聖域では、全く質の違う、より静かで、しかし遥かに根源的な知の嵐が吹き荒れていた。
五人の天才たちが、賢者から「貸与」された三つのアーティファクト――『囁きの羅針盤』『停滞の砂粒』『不死鳥の羽衣』――の初期解析データを前に、連日連夜、寝食を忘れて議論を戦わせていたのだ。
その日もまた、彼らの知的な格闘は頂点に達していた。
「……やはり、この羅針盤の原理が理解不能だ」
SF作家の天城蓮が、神経質そうにこめかみを押さえた。
「持ち主の脳内の量子的な揺らぎを読み取り、それと共鳴する対象物の時空座標を特定する、だと? そんな芸当が可能ならば、それはもはや因果律そのものを観測する神の視点に等しい。……我々の科学は、まだその入り口にさえ立っていない」
そのあまりにも専門的な嘆きに、歴史学の権威、渋沢正臣名誉教授が、その穏やかな目でふっと笑った。
「……天城先生。科学で全てを解き明かそうとするから、袋小路に陥るのです。……この羅針盤は、科学の道具ではない。……これは、神話の道具なのですよ」
彼は、ゆっくりと立ち上がると、会議室の窓から見える箱根の深い森を見つめた。
「……私はね、この羅針盤を見るたびに、一つの古い伝説を思い出すのです。……この世界の歴史上、最も有名で、最も多くの権力者たちが血眼になって探し求めた、一つの聖遺物の伝説を」
そのあまりにも思わせぶりな口上に、考古学者の守屋茜が、子供のように目を輝かせて食いついた。
「……先生。まさか、それは……」
「うむ」と、渋沢教授は深く頷いた。
「……『ロンギヌスの槍』。救世主の脇腹を貫き、その聖なる血を浴びたことで、所有者に世界を支配する力を与えるという、あの伝説の聖槍です。……ナチス・ドイツの総統が、その神秘的な力に魅入られ、第二次世界大戦中、血眼になって探し求めたという逸話は、あまりにも有名ですな」
その言葉に、会議室の空気が変わった。
ただの学術的な議論の場が、一瞬にしてオカルトと歴史ロマンの香りに満たされる。
守屋茜が、興奮を抑えきれない様子で続けた。
「ええ、知っています! SSのオカルト部門『アーネンエルベ』が、世界中の神話や伝説を調査し、その遺物を収集していたという! 彼らは、本気で信じていたのよ! 古代の超科学や、魔法の力で、戦争に勝利できると!」
二人の歴史と考古学の専門家が、生き生きと語り始める壮大な物語。
その熱狂を、冷徹な一言が断ち切った。
「…………馬鹿馬鹿しい」
橘紗英だった。彼女は、いつの間にか会議室の入り口に、氷の彫像のように静かに立っていた。
「……皆様、お忘れですか。我々が今取り組んでいるのは、国家の存亡を賭けた現実的なプロジェクトです。子供の宝探しごっこでは、ありません」
だが、そのあまりにも正論な、そしてあまりにも夢のない言葉に、渋沢教授は、穏やかに、しかし一切引かずに反論した。
「……理事官殿。では、お尋ねしますが」
彼の目は、ただの好々爺のものではなかった。それは、歴史という名の深淵を生涯覗き込んできた求道者の、鋭い光を宿していた。
「……我々が今、現に手にしているこのアーティファクト群は、その子供の宝探しごっこの産物と、一体何が違うと仰せられるのですかな?」
「…………!」
そのあまりにも本質的な問いに、橘は一瞬、言葉を失った。
渋沢教授は、続けた。
「……ならば、試してみようではありませぬか。この神の道具が、我々人類の最も愚かで、最も壮大な夢の物語に、果たしてどこまで付き合ってくれるものなのかを。……理事官殿。私は、正式に具申いたします。この『囁きの羅針盤』を用い、失われた聖遺物『ロンギヌスの槍』の探索プロジェクトの始動を、許可していただきたい」
そのあまりにも突拍子もない、しかし抗いがたいほどのロマンに満ちた提案。
橘は、その場で即座に却下しようとした。
だが、その時、彼女の脳裏に、宰善総理のあの老獪な笑みが浮かんだ。
(……面白いじゃあないか。……神が我々に与えてくれた舞台だ。最高の役者として、演じきってやろうではないか)
橘は、深く、深く息を吐き出した。
そして、その常に完璧だったはずの鉄の仮面の奥で、ほんの微かに、自分自身もまたこの馬鹿げた物語にワクワクしているのを感じていた。
「…………分かりましたわ、教授」
彼女は、言った。
「……その『宝探し』、許可しましょう。ただし、それは遊びではありません。賢者様から貸与されたアーティファクトの、究極の性能検証実験として、国家の最高機密プロジェクトとして、実行します」
こうして、グランベル王国の王宮で始まった食文化革命とは全く質の違う、しかし同じくらいに常軌を逸した、もう一つの壮大な物語の歯車が、静かに、しかし確実に回り始めた。
プロジェクト・ロンギヌス。
そのあまりにも不遜で、そしてあまりにも滑稽な作戦名が、正式に承認された瞬間だった。
数日後、総理大臣官邸の地下深く、危機管理センターの一室。
そこに集められたのは、たったの三人。
だが、その一人一人が、この国の「力」の頂点に立つ、選りすぐりの怪物だった。
チームリーダー、橘紗英。
彼女の役目は、この作戦の全ての責任を負う指揮官であり、そして必要とあらば、いかなる外交的・非合法的な障害をも排除する、国家の「刃」そのものだった。
学者兼コンパス係、守屋茜。
彼女は、羅針盤の操作役であると同時に、これから遭遇するであろうあらゆる歴史的・考古学的な謎を解き明かす、チームの「頭脳」だった。彼女の瞳は、これから始まる本物の冒険を前にして、子供のように輝いていた。
そして、護衛兼実行担当、特殊作戦部隊員『ハヤブサ』。
彼は、何も語らない。だが、その鋼のような肉体と、いかなる状況でも動じることのない鋼の精神は、このあまりにも非現実的な任務における、唯一にして絶対的な「現実的な戦力」だった。
橘は、集まった二人を前に、短く、しかし重い言葉で告げた。
「これより、我々は『ロンギヌスの槍』の探索任務を開始する。……これは、遊びではない。失敗は、許されない。だが、諸君。……正直に言おう。私も、少しばかり、ワクワクしている」
その彼女の口から初めて漏れた人間らしい言葉に、守屋はにっと笑い、ハヤヤブサは微かに、本当に微かに、口の端を吊り上げた。
史上最も奇妙で、そして最も優秀な冒険パーティが、誕生した瞬間だった。
彼らの最初の仕事は、サイト-アスカの厳重なラボの中で行われた。
守屋茜が、白い手袋をした手で、恭しく『囁きの羅針盤』を握りしめる。
そして、目を閉じ、その考古学者としての全ての知識と情熱を込めて、強く、強く念じた。
(――聖槍よ、我を導きたまえ!)
羅針盤の針が、狂ったように回転を始める。
そして、数秒後、ぴたりと、一つの方向を指し示して止まった。
西。
遥か、遥か西。
ユーラシア大陸の、その中心。
「…………ベルリン」
守屋が、震える声で呟いた。
「……針は、ドイツのベルリンを指しています」
そこから先の数週間は、もはや冒険というよりも、情報と外交という名の、静かな戦争だった。
橘は、その持てる全ての権限とコネクションを駆使した。
表向きは「日独文化遺産保護に関する共同声明」の最終調整という名目で、彼女自身が政府代表団の長としてベルリンへと飛んだ。
その裏では、内調のヨーロッパ支局が、ドイツ連邦情報局(BND)のカウンターパートと、水面下で熾烈な駆け引きを繰り広げていた。
日本の切り札は、「ホシミコの遺産から発見された、未知の古代金属の解析データの一部共有」。
ドイツ側が喉から手が出るほど欲しがるその「アメ」と引き換えに、橘は、一つの「ささやかなお願い」をした。
「……貴国の、第二次世界大戦期の、未整理の公文書。特に、SSアーネンエルベに関する資料の一部を、我が国の歴史研究のために、共同で閲覧させていただきたいのです」
そのあまりにも怪しげな要求。
だが、目の前にぶら下げられた「奇跡」の魅力には、ドイツ側も抗えなかった。
数日間にわたる、胃の痛くなるような交渉の末、ついに橘は、ベルリン国立古文書館の、一般にはその存在さえ知られていない地下特別書庫への、限定的な立ち入り許可をもぎ取ったのだ。
深夜、閉館後の古文書館。
ハヤブサが、最新鋭の光学迷彩でその姿を闇に溶かし、全ての監視カメラと警備システムを無力化する。
その完璧なまでの静寂の中を、橘と守屋が、まるで幽霊のように進んでいく。
そして、地下書庫の、最も奥深く。
守屋の手の中の羅針盤が、ひときわ強く輝きを放ち、一つの、埃をかぶったブリキの箱を指し示した。
箱の中には、黄ばんだ羊皮紙の束。
SSの紋章が刻まれた、極秘の研究報告書だった。
そこには、彼らがオーストリアの古城でロンギヌスの槍を発見したこと、そしてその神秘的な力を解析しようと試みた、狂気じみた実験の記録が、克明に記されていた。
そして、最後のページ。
戦況の悪化に伴い、その聖遺物を究極の安全地帯へと移送したという記述。
そこに記されていたのは、一つの暗号化された座標と、一つの作戦名だった。
『――作戦名:ヴァルハラ。目的地:ノイシュヴァーベンラント』
「……ノイシュヴァーベンラント……」
守屋が、息を飲んだ。
「……南極……! ナチスが、第二次大戦中に領有権を主張したと噂される、伝説の南極大陸の秘密基地……!」
そのあまりにも荒唐無稽な、しかし考古学者の心をこれ以上なくくすぐる響き。
橘は、その報告書を静かに閉じると、短く呟いた。
「……どうやら、次の目的地は、少しばかり寒いようですわね」
数週間後、南氷洋の荒れ狂う海。
海上自衛隊が誇る最新鋭の砕氷艦『しらせ』が、巨大な氷山を砕きながら、世界の果てを目指していた。
その艦内は、国家の最高機密を運ぶにふさわしい、異様な緊張感に包まれていた。
橘、守屋、ハヤブサの三人は、艦橋で、眼前に広がるどこまでも続く白と青だけの、非人間的な絶景を、黙って見つめていた。
それは、文明世界の全てから切り離された、神々の領域だった。
橘は、この壮大な、そしてどこまでも馬鹿馬鹿しい冒険の果てに、自分たちが一体何を見つけることになるのか、もはや予測することさえ諦めていた。
ただ、この国の最高責任者として、この任務を最後まで見届ける。
その覚悟だけが、彼女を支えていた。
やがて、しらせは、目的の座標へと到達した。
そこは、見渡す限り、ただ平坦な氷の大地が広がるだけの、文字通りの不毛の地だった。
羅針盤の針は、狂ったように回転した後、ぴたりと、その氷原の一点を、真下へと指し示して止まった。
「……ここです」
守屋が、震える声で言った。
「……この、氷の下に、眠っています」
国家の総力を挙げた、前代未聞の南極地下掘削作戦が開始された。
しらせから運び出された、最新鋭のプラズマ・ドリルが、轟音と共に回転を始める。
厚さ数百メートルにも及ぶ、数万年の時をかけて形成された古代の氷盤を、日本の科学技術の粋が、少しずつ、しかし確実に、貫いていく。
そして、着工から三日目の深夜。
ドリルの先端が、突如として抵抗を失った。
「――空洞を確認! 地下三百メートル地点に、巨大な空洞が存在します!」
オペレーターの、興奮した声が響き渡る。
橘、守屋、ハヤブサの三人は、特殊な極低温環境用の防護服に身を包み、掘削された穴の底へと、ワイヤーで吊り下げられたケージに乗って、降りていった。
そこは、神々の聖域だった。
地下に広がる、巨大な氷の洞窟。
天井からは、大聖堂のパイプオルガンのように、無数の巨大な氷柱が垂れ下がり、壁は、魔石の探照灯の光を受けて、ダイヤモンドのようにキラキラと輝いている。
それは、自然が作り出したとは到底思えない、あまりにも美しく、そしてあまりにも荘厳な、氷の神殿だった。
そして、その神殿の、最も奥深く。
中央に鎮座する、巨大な氷の祭壇の上に。
それは、眠っていた。
青白い氷の中に、完璧な状態で封印された、一隻の、巨大な、黒い鉄の塊。
ナチス・ドイツが、その科学力の全てを注ぎ込んで建造したという、伝説のIXC型Uボート。
そのあまりにも幻想的で、そしてあまりにもおどろおどろしい光景に、三人は、しばし言葉を失っていた。
「…………すごい」
守屋が、うっとりと呟いた。
「……まるで、琥珀の中に閉じ込められた、古代の昆虫のようね……」
ハヤブサが、レーザーカッターでUボートのハッチを焼き切る。
内部の空気は、八十年の時を超えて、完璧に保存されていた。
そして、彼らは、艦長室で、それを見つけた。
軍服をまとったまま、気高い姿勢で椅子に座り、完璧なミイラと化した艦長の骸。
その骨と化した両腕が、まるで世界で最も大切な宝物を守るかのように、一つの、細長い鉛のケースを、固く、固く抱きしめていた。
ハヤブサが、そのケースを慎重にこじ開ける。
中には、幾重にも重ねられたビロードの布。
そして、その最後の布が取り払われた瞬間。
氷の洞窟全体が、微かな、しかし神々しいまでの黄金色の光に包まれた。
そこに横たわっていたのは、一本の、古びた槍の穂先だった。
それは、決して派手な装飾があるわけではない。むしろ、その表面には、二千年近い時の流れを物語るかのような、無数の傷と、微かな錆が浮いていた。
だが、そのただの鉄の塊にしか見えないはずの穂先から放たれる、生命そのものを祝福するかのような温かい光と、空間そのものを震わせるような荘厳な気配は、それが紛れもなく、本物の『聖遺物』であることを、その場にいた全員に、疑う余地もなく確信させた。
「…………ロンギヌスの、槍……」
守屋が、震える声で呟いた。
彼女は、考古学者としての人生の、その頂点を、今、この瞬間、迎えていた。
橘紗英は、その神々しい光を、ただ黙って見つめていた。
彼女の心の中にあったのは、感動ではなかった。
それは、畏怖。
そして、このあまりにも強大すぎる「力」を、矮小なる人間の手で本当に制御できるのかという、底知れないほどの恐怖だった。
彼女たちの、震える勝利の瞬間だった。
数週間後、官邸の地下深く。
プロジェクト・プロメテウスの最高分析ラボ。
そこには、日本の最高の頭脳たちが、再び集結していた。
だが、彼らの顔には、ポーションや魔石を発見した時のような、無邪気な興奮の色はなかった。
そこにあるのは、理解不能な神の御業を前にした、学者の、深い、深い苦悩だった。
長谷川教授が、やつれ果てた顔で、宰善総理と橘に報告を上げていた。
「…………分かりません」
彼は、力なく首を振った。
「……この槍の穂先を構成する金属は、我々の知る、いかなる元素でもありません。そして、その内部からは、恒星の中心核に匹敵するほどの、しかし完全に安定した状態で、未知のエネルギーが放出され続けている。……ですが、我々には、そのエネルギーを、取り出すことも、制御することも、そして、それが一体何のための力なのかを、理解することさえも、できません」
彼は、天を仰いだ。
「……これは、例えるならば、石器時代の人間が、原子力発電所を発見したようなものです。……その圧倒的な力の存在は認識できても、そのスイッチの入れ方さえ、我々には分からないのです……!」
そのあまりにも絶望的な報告。
それは、彼らの「震える勝利」が、結局のところ、使い方の分からないガラクタを手に入れただけの、壮大な徒労であったことを意味していた。
その重苦しい沈黙の中。
橘紗英は、静かに立ち上がった。
彼女の顔には、もはや何の感情も浮かんでいなかった。
ただ、やるべきことをやるだけだ。
彼女は、自らのオフィスに戻ると、一枚の、人生で最も屈辱的で、そして最も滑稽な報告書を、タイプし始めた。
宛先は、賢者様。
その頃。
全ての元凶である男は。
日本の山奥に築き上げた、究極のスローライフのための要塞の、温泉が引かれた露天風呂の中で。
防水タブレットで、ネットフリックスの新作アニメを一気見しながら、鼻歌を歌っていた。
彼のスマートフォンの通知ランプが、控えめに点滅している。
橘からの、あのあまりにも丁重で、そしてあまりにも遠回しなメールが、届いていた。
創は、アニメのエンディングが流れる合間に、面倒くさそうにそのメールを開いた。
そして、その数百ページに及ぶ、官僚的な美文で綴られた壮大な冒険譚と、その絶望的な結末を、ざっと、本当にざっと、三秒ほどでスクロールして、読み飛ばした。
そして、彼は、ただ一言、心の底から思った。
「…………へー、マジで見つけちゃったんだ、ウケる。で、使い方が分かんないの? …………だっさ」
彼は、そのあまりにも間抜けな部下たちの報告に、少しだけ笑ってしまった。
そして、彼は返信画面を開くと、アニメの次のエピソードが始まる前に、指先で、たった一言だけ、打ち込んだ。
『説明書くらい読めば?』
そのあまりにも無慈悲で、そしてあまりにも的確な神の御託宣が、官邸の地下に届き、日本の最高首脳たちを、再び発狂と、そして新たな、より困難な謎解きゲームの渦へと叩き込むことになるのを。
彼は、知る由もなかった。
彼はただ、露天風呂の縁に頭を乗せ、満天の星空を眺めながら、満足げに呟いた。
「……さてと。アニメの続きでも、見るかな」
彼の、究極のスローライフは、今日もまた、世界の混沌とは全く無関係に、完璧に、そしてぐうたらに、続いていくのだった。




