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第4話

 新田にった はじめは絶叫した。

 腹の底から、魂の限界まで絞り出すような、甲高い間抜けな叫び声だった。

「わーお、大事件じゃねーか!」

 その声は、がらんとしたワンルームマンションの壁に虚しく反響し、すぐに静寂に吸い込まれていった。

 静寂。

 しかし、彼の周囲は決して静かではなかった。

 テレビの中では、アナウンサーがまだ何かを叫び続けている。パソコンのスピーカーからは、新着メールを知らせる通知音が、まるで壊れた楽器のようにポコンポコンと一秒間に何度も鳴り響いている。

 情報の大洪水。

 その奔流のまさに中心に、創はたった一人で立っていた。


 数分間、彼はただ呆然と立ち尽くしていた。

 脳が、処理能力の限界を超えて思考を停止させていた。目の前の光景も、耳に入る音も、どこか遠い世界の出来事のように現実感がなかった。

 床に散らばったポテトチップスの残骸。飲みかけでぬるくなったコーヒー。積み上げられたダンボール箱。昨日までと何も変わらない、三十五歳無職の男の自堕落な日常の風景。

 その日常と、テレビやパソコンが映し出す非日常とのあまりの乖離。そのギャップが、創の正気をじわじわと削り取っていく。


「……あ……あ……」

 意味のない声が喉から漏れる。

 彼はふらふらと数歩歩き、壁に手をついた。冷たい壁紙の感触が、ようやく少しだけ彼に現実を認識させた。

 俺がやったのか。

 俺が、あの石ころとあの草を送ったから。

 あの日本の頭脳と呼ばれる人たちが狂喜乱舞し、国家が、自衛隊が出動するほどの大騒ぎになっている。

 ローリスクな、お試しのつもりだった。

 数万円、いや、うまくいけば数百万円くらい手に入れば御の字だ、くらいにしか考えていなかった。

 それなのに、なんだこれは。

 反重力? 未知の元素? 自己再生する細胞?

 まるで子供が考えたSFの設定だ。そんなものが本当に、あのどこにでもありそうな草原に転がっていたというのか。


「……まずい」

 ようやく彼の口から、まともな単語が飛び出した。

 まずい。

 これは、とてもまずい。

 俺の想像を、遥かに、遥かに超えている。


 創は壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。

 頭を抱える。ぐしゃぐしゃと、ここ数日洗っていない髪をかきむしった。

 どうする?

 どうすればいい?

 このまま知らんぷりを決め込むか? だが、メールを送ってしまった。匿名とはいえ、相手は日本の、いや、世界の頭脳だ。本気で発信源を探られたら、いつかはこの安アパートに辿り着くかもしれない。

 自首する? 馬鹿を言え。俺は、世界のパワーバランスを根底から覆しかねない、とんでもない物質の産地を知る唯一の人間だ。名乗り出た瞬間、自由は永遠に失われるだろう。良くて、研究施設に軟禁。悪ければ、口封じのために闇から闇へ……。


 そこまで考えて、創の背筋をぞくりと悪寒が走った。

 そうだ。これはもう、金儲けがどうこうというレベルの話ではないのかもしれない。

 これは、俺の命に関わる問題だ。

 この情報の価値を本当に理解しているのは、メールを送ってきたあの科学者たちだけではない。

 国家。軍隊。巨大企業。テロリスト。犯罪組織。

 もしこの情報が漏れれば、ありとあらゆる組織が血眼になって俺を探しに来るだろう。

「名もなき発見者」を。

 今の俺は、いわば核兵器の発射ボタンのありかを知る、ただの民間人だ。丸裸で、無防備で、あまりにもか弱い。


「……落ち着け」

 創は自分に言い聞かせた。

「落ち着け、俺。パニックは一番の悪手だ」

 彼は元プロジェクトマネージャーだ。幾度となく炎上するプロジェクトの火消しに奔走してきた。クライアントからの無理難題、致命的なバグの発生、メンバーの突然の離脱。数々の修羅場をくぐり抜けてきたはずだ。

 そうだ。これはインシデントだ。過去最大級のインシデント。

 ならば、やるべきことは一つ。

 現状を正確に把握し、リスクを洗い出し、対応策を冷静に、論理的に構築することだ。


 創はよろよろと立ち上がると、テーブルの上からあのプロジェクト計画書として使っているノートをひっつかんだ。

 そして、新しいページを開き、震える手でペンを走らせる。


【緊急インシデント報告:サンプル送付の件】


 発生事象: 匿名で送付した異世界のサンプルが、こちらの想定を遥かに超える価値を持つ物質であることが判明。


 A(石):反重力特性を持つ。


 B(土):未知の超重元素を含む。


 C(草):驚異的な自己再生能力を持つ細胞組織。


 影響範囲:


 国立環境研究所つくばが封鎖。自衛隊出動。ニュース沙汰に。


 他4箇所の研究機関からメールが殺到。情報が、少なくとも日本のトップレベルの科学界隈には拡散済み。


 一部のメールから、政府関係者にも情報が渡っていることが示唆される。


 現状のリスク評価:


 レベル5(壊滅的): 俺の身元が特定されるリスク。


 レベル5(壊滅的): 第三者(国家、犯罪組織等)に俺の存在と能力が露見するリスク。


 レベル4(重大): 情報のコントロールを失い、主導権を研究機関側に握られるリスク。


 暫定対応方針:


 時間稼ぎ(最優先): こちらが主導権を握りつつ安全を確保し、次の一手を考えるための時間を確保する。


 情報収集: 世の中がこの発見をどう受け止め、どう動くかを注意深く観察する。


 自己防衛能力の確保: 万が一身元が割れた場合に備え、物理的な自衛手段を確立する。


 そこまで書き殴ったところで、創はようやく少しだけ呼吸が楽になった気がした。

 そうだ。やるべきことは見えた。

 まずは、時間稼ぎだ。

 殺到するメール。この狂騒曲の指揮者である俺が、一度沈黙を破る必要がある。

 だが、どんな言葉を?


 創はパソコンの前に座り直し、受信箱を睨みつけた。

 数百件の熱狂と、欲望に満ちたメール。

 これら全てに、返信する必要がある。

 彼は新規メールの作成画面を開き、件名に「『名もなき発見者』より皆様へ」と打ち込んだ。

 そして、本文。

 ここが一番重要だ。

 下手に弱気な姿勢を見せれば、足元を見られ、主導権を奪われる。

 かといって、あまりに高圧的に出れば、相手を刺激しすぎるかもしれない。

 冷静に、神秘的に、そして圧倒的な上位者として。

 そうだ、俺は彼らにとっては神にも等しい存在なのだ。未知の世界から、奇跡をもたらした超越者。

 ならば、そのように振る舞うべきだ。


 創は、一文字一文字言葉を選びながらキーボードを叩いていく。

 何度も書いては消し、消しては書き直し、十分ほどかけて、ようやく完璧な一文が完成した。


 分析、感謝する。

 こちらも様々な異世界を巡っており、多忙である。

 故に、次の連絡はこの世界の時間で一ヶ月後とする。


 以上


 短い。

 あまりにも短い。

 だが、これでいい。いや、これがいい。

 この短い文章の中に、彼は計算し尽くしたいくつかのメッセージを込めた。


 まず、「分析感謝する」。

 これは、君たちの働きをきちんと認識しているぞ、という上位者からの労いの言葉だ。同時に、「分析結果は俺の想定通りだ」という暗黙のメッセージでもある。俺は、君たちが驚いているような物質の価値を、最初から知っていたのだと。


 次に、「こちらも様々な異世界を巡っており多忙である」。

 これが、最も重要な一文だ。

 今回送ったサンプルは、俺が持つ無数のカードの中の、ほんの一枚に過ぎないという強烈なブラフ。

 君たちが世紀の発見だと騒いでいるものは、俺にとっては道端で拾った石ころのようなものだ、と。

 そして、「様々な異世界」という言葉。それは、俺が無尽蔵に未知の資源と技術を引き出せる、唯一無二の存在であることを示唆している。

 君たちは、俺を絶対に逃してはならない。


 そして最後に、「次の連絡はこの世界の時間で一ヶ月後とする」。

 これは、明確な主導権の宣言だ。

 連絡のタイミングを決めるのは、君たちではない、俺だ。

 そして、「一ヶ月」という絶妙な期間。

 彼らの熱狂をギリギリ維持させつつも、冷静に今後の対応を検討させるための冷却期間。

 そして何よりも、俺自身が次の手を打つための準備期間だ。


 創は、自分が打ち込んだ文章を読み返し、満足げに頷いた。

 完璧だ。

 彼はこの本文をコピーすると、受信した全てのメールに返信形式でペーストし始めた。

 そして最後に、一斉送信のボタンにマウスカーソルを合わせる。

 ごくりと喉が鳴った。

 このボタンを押せば、もう後戻りはできない。

 日本の、いや、世界の科学界は、このたった数行のメールに震撼し、狂喜し、そして一ヶ月という焦らしプレイに悶え苦しむことになるだろう。

 その光景を想像すると、恐怖と同時に、言いようのない全能感にも似た快感が創の背筋を駆け上がった。


「……ええい、ままよ!」


 創は目を瞑り、クリックした。


 ふー。

 送信完了のメッセージが表示されたのを確認し、創は椅子に深くもたれかかった。

「とりあえず、これで時間稼ぎは出来た……」

 まるで全身の力が抜けてしまったかのように、どっと疲労感が押し寄せてくる。

 彼はパソコンの電源を落とし、テレビも消した。

 うるさすぎる現実から、一時的にシャットアウトしたかった。


 静まり返った部屋で、創はこれからのことを考える。

「……さて。この反応、俺はヤバい物を送りつけてしまったらしい」

 今更ながら、自分のしでかしたことの重大さを改めて噛み締める。

「今後の計画を修正するか…」

 ノートに書きなぐったプロジェクト計画書。

 フェーズ1は、ある意味大成功に終わった。

 次は、フェーズ2「資産形成」だ。


「とりあえず、金稼ぎはこれで簡単に出来そう?」

 そうだ。金だ。

 そもそも、全ては金のために始まったことだ。

 一ヶ月後。

 俺が再び彼らに連絡を取った時、交渉は俺の独壇場になるだろう。

 追加のサンプル。あるいは、産地の情報。

 それらを、いくらで売るか。

 億? 兆? もはや、見当もつかない。

 だが、ここでまた問題が一つ立ち塞がる。

 どうやってその天文学的な額の金を、匿名で、安全に受け取るのか。

 銀行振込など論外だ。即座に、国税局と警察がすっ飛んでくるだろう。

 現金での受け渡し? 映画じゃあるまいし、非現実的すぎる。


「……待てよ」

 創の脳裏に、数年前にほんの少しだけかじったことのある、ある技術のことが閃いた。

 友人から「儲かるぞ」と勧められ、軽い気持ちで手を出した仮想の通貨。

 一時期、熱狂的なブームになり、そして大暴落したあれだ。


「暗号通貨……!」


 そうだ。それだ。

 ブロックチェーン技術に支えられた、国家の管理を受けないデジタルな通貨。

 あれなら、国境を越えて、匿名で、瞬時に大金のやり取りが可能だ。

 政府や銀行を介さずに、直接俺のウォレットに送金させればいい。


「幸い、昔暗号通貨やってたときのアドレスが残ってるしな!」


 創は興奮して立ち上がった。

 彼は押し入れの奥から、ホコリを被った古いノートパソコンを引っ張り出してきた。

 電源を入れると、懐かしい数世代前のOSがゆっくりと起動する。

 確か、この中にあの時のウォレットのデータが入っているはずだ。

 彼は記憶の糸をたぐり寄せ、古いファイルを探し始めた。

 そして見つけた。「お宝」と名付けられた、ふざけた名前のテキストファイル。

 その中には、複雑な英数字の羅列――ウォレットのアドレスと秘密鍵が記されていた。


「あった……!」


 彼は現在のメインPCで、そのウォレットの残高を照会してみた。

 そこには、日本円にして数千円相当の、暴落して塩漬けになっていたマイナーなコインが寂しく表示されている。

 だが、問題ない。このアドレスは、まだ生きている。


「よし、換金はそれでいこうか」


 報酬はビットコインか、あるいはもっと匿名性の高いモネロのようなアルトコインで、このアドレスに送金させる。

 そして、受け取った暗号通貨を海外の規制の緩い取引所を経由して、少しずつ日本円に換金していく。

 完璧なマネーロンダリングの計画だ。

 これで、金の問題はクリアした。


「さて、つぎの計画だが…」


 創は再びノートに向き合った。

 金を手に入れる目途は立った。

 だが、金だけでは解決しない問題がある。

 それは、俺自身の安全の問題だ。


 創の脳裏に、メールの文面やニュースの映像が蘇る。

 反重力。未知の元素。自己再生細胞。

 こんなものを、世界が放っておくはずがない。

 一ヶ月後。

 俺が再び彼らの前に姿を現した時。

 彼らはただ金を払って、おとなしく俺の言うことを聞くだろうか?

 いや、違う。

 彼らは、金の力も、国の力も、あらゆる手段を使って俺の身柄を確保しようとするだろう。

 俺という、金の卵を産むガチョウをその手に入れようとするだろう。

 その時、俺はどうやって自分の身を守る?

【異界渡り】で逃げることはできるかもしれない。

 だが、いつまでも逃げ続けられるとは限らない。

 もし、彼らが俺の正体を突き止め、この部屋に特殊部隊を送り込んできたとしたら?

 もし、俺が眠っている間に襲撃されたとしたら?


 ぞっとした。

 今の俺は、あまりにも無力だ。

 金がいくらあっても、命がなければ意味がない。

 スローライフどころか、安らかな眠りすら手に入れられないかもしれない。


「……色々計画を立ててみるが……出来るなら、魔法覚えるのが急務になったな」


 そうだ。魔法だ。

 先日、疲労困憊の中で夢想したあの力。

 それは、もはやただの願望ではない。

 この危険すぎるゲームを生き残るための、必要不可欠なスキルだ。


「自衛出来る手段が欲しいぞ、これ……」


 炎の矢を放ち、氷の壁を作り出す攻撃魔法や防御魔法。

 姿を消し、気配を断つ隠蔽魔法。

 敵の動きを封じ、眠らせる補助魔法。

 そんな力が、もし俺にあれば。

 誰が、俺を捕らえることができる?

 誰が、俺に指一本触れることができる?

 俺は、本当の意味で自由になれる。


 創の目は、今までになく真剣な光を宿していた。

 金儲けという俗な欲望ではない。

 もっと切実で、根源的な、生存本能に基づいた強い意志。

 彼はノートに、新しいプロジェクト計画を力強く書き記した。


【プロジェクト名:俺の安全保障計画(魔法習得編)】


 目的: 物理的な自衛手段を確立し、身の安全を確保する。


 手段: 【異界渡り】能力を利用し、「魔法が存在し、習得可能な世界」へ転移。そこで、実用的な魔法を習得する。


 問題は、どうやってそんな世界へ行くかだ。

【異界渡り】の鍵は、イメージ。

 漠然と「魔法の世界」と念じるだけでは、ダメだろう。

 もっと具体的に、鮮明に、イメージを構築する必要がある。


 創は立ち上がると、本棚代わりのダンボール箱を漁り始めた。

 そこから彼が取り出したのは、学生時代に読みふけったファンタジー小説の文庫本、昔夢中になってプレイしたRPGの攻略本。そしてパソコンを起動し、ファンタジー映画や異世界アニメの画像検索を始めた。


 剣と魔法の世界。

 エルフやドワーフが暮らす森。

 天を突く魔法使いの塔。

 冒険者たちが集うギルド。


 ありとあらゆる「魔法の世界」のイメージを、彼は貪欲に頭の中に叩き込んでいく。

 これは、ただの現実逃避ではない。

 次なる世界へのコンパスを作るための、重要な作業だ。

 一ヶ月。

 与えられた時間は、一ヶ月。

 その間に、俺は新しい力を手に入れる。

 そして、今度こそ誰にも脅かされない完璧なスローライフを、この手で掴み取るのだ。

 創の新たな、そして遥かに危険な挑戦が、今、始まろうとしていた。

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