第37話 【グランベル王国編】 農業革命と低温流通革命
国王アルトリウス三世が、ゲオルグ・ラングローブを責任者に任命し、神の石『魔石』の可能性を解き明かすための国家プロジェクトを立ち上げてから、わずか数日が経過した。だが、その数日間は、グランベル王国の歴史において、いかなる百年よりも遥かに濃密で、そして劇的な時間であったと言えよう。
王の勅命一下、王宮の裏手に広がる王妃が愛した薔薇園が、その美しい姿を一夜にして失った。高名な詩人たちが、その美しさを競って詩に詠んだ色とりどりの薔薇は、根こそぎ掘り起こされ、その跡地には、王国中から召集された最高の農学者たちの手によって、全く新しい、そして王国史上最も重要な意味を持つ『王立実験農場』が、急ピッチで造成された。
土は深く耕され、水路が引かれ、そしてゲオルグ・ラングローブが、神殿に聖体を運び込む神官のごとき恭しさで運んできた、あの魔石を砕いたという、きらきらと輝く不思議な粉末が、丁寧に、そして潤沢に、その土壌へと混ぜ込まれていった。
農学者たちは、半信半疑だった。国王陛下直々の、あまりにも常軌を逸した勅命。そして、ラングローブ商会の会頭が、狂信者のような目で語る荒唐無稽な物語。石ころを砕いて肥料にすれば、作物が数日で実る? 馬鹿馬鹿しい。何かの壮大な宮廷冗談に、我々は付き合わされているのではないか。
だが、王命は絶対だ。彼らは疑念を押し殺し、言われるがままに、小麦、大麦、そして王都で人気の高いトマトやイチゴの種を、その奇妙な粉末が混ぜ込まれた真新しい畝へと植え付けた。
そして、彼らはその夜、眠ることができなかった。自らの農学者としての常識と、王への忠誠心との間で、彼らの心は激しく揺れ動いていたのだ。
その翌朝。
まだ夜の気配が色濃く残る、薄明の刻。
アルトリウス王は、既にその実験農場の前に立っていた。彼の傍らには、昨夜の謁見からほとんど一睡もしていないであろう、しかしその目は異様なほどの興奮に爛々と輝いているゲオルグ・ラングローブと、そして同じく王の召集命令を受け、眠い目をこする宰相シュトライヒ伯爵や鉄血公ヴァルハイト公爵といった、国の重鎮たちの姿があった。
農学者たちが、青白い顔で彼らを出迎える。
「……陛下。まだ種を蒔いてから、ほんの一夜しか……。いかに陛下の御命令とはいえ、さすがにまだ芽も……」
老いた農学長が、恐縮しきった様子でそう言い訳をしかけた、その時だった。
東の空から、最初の朝日の光が地平線を射抜いた。
そして、その黄金色の光が、実験農場の黒々とした土壌を照らし出した瞬間。
その場にいた全ての人間が、息を飲んだ。
「…………なんと」
王の口から、絞り出すような声が漏れた。
彼の常に冷静沈着なその瞳が、信じられないものを見るように、大きく、大きく見開かれている。
「……一晩で……。たった一晩で、実が成っているではないか……!」
そうだ。
そこには、奇跡が広がっていた。
昨日まで、ただの黒い土くれが広がるばかりだったはずの殺風景な土地が。
今や、生命力に満ち溢れた緑の楽園へと変貌を遂げていたのだ。
小麦や大麦は、天に向かって真っ直ぐに力強く伸び、その穂先は、ずしりと重い黄金色の実をたわわに実らせていた。
トマトの畝には、子供の拳ほどもある真っ赤に熟した実が、葉の間から宝石のように、いくつも、いくつも顔を覗かせている。
そして、イチゴ。その畝は、もはや緑の葉が見えなくなるほどに、甘い香りを放つ真っ赤な、艶やかな果実で埋め尽くされていた。
そのあまりにも非現実的な、生命の爆発。
そのあまりにも神々しいまでの、豊穣の光景。
「……数日とは……」
王は、呆然と呟いた。
「……ゲオルグよ。そなたの主、あの魔法使い様は、『数日で実がなる』と申されたそうだな。……なんと、謙遜のお方であったか……!」
それは、もはや促成栽培などという生易しいレベルではなかった。
これは、時間というこの世界の絶対的な法則そのものを捻じ曲げ、生命の創造のプロセスを、神の如き御業で短縮させる、奇跡そのものだった。
「……皆、味を確かめよ」
王は、かすれた声で命じた。
農学者たちが、恐る恐るその奇跡の産物へと近づいていく。
老いた農学長が、震える手で、最も大きく、最も赤く熟したトマトを一つもぎ取った。
そして、それを王の御前へと恭しく差し出した。
アルトリウス王は、それを受け取ると、しばしその完璧な形と色艶を見つめていたが、やがて意を決して、その果実にかぶりついた。
次の瞬間。
王の世界が、変わった。
「…………なんと……!」
彼の口の中に、今まで経験したことのない衝撃が走った。
甘い。
甘すぎる。
これは、もはや野菜ではない。
極上の果物だ。
いや、彼がこれまで口にしてきたいかなる高価な南国の果物よりも、遥かに、遥かに濃厚で、純粋な甘味と、そして爽やかな酸味が、口の中いっぱいに広がっていく。
噛む必要などない。
果肉は、舌の上でとろりと溶け、生命のエキスそのものとでも言うべき豊潤な果汁が、喉の奥へと流れ込んでいく。
「…………なんと、美味い……!!!!」
王は、叫んだ。
もはや、王としての体面などかなぐり捨てていた。
一人の人間として、その根源的な味覚の喜びに、魂を震わせていた。
彼は、夢中でそのトマトを頬張り、そして残されたヘタを、名残惜しそうに見つめた。
そのあまりの王のはしゃぎように、周りの重臣たちも、恐る恐るその神の実を口にし始めた。
鉄血公ヴァルハイトが、イチゴを一つ、その武骨な指でつまみ上げ、口に放り込む。
次の瞬間、彼のあの万年不機嫌そうな厳つい顔が、くしゃりと崩れた。
「……うむ……! これは……! なんという甘さだ……! まるで、戦乙女の接吻のように甘く、そして力強い……!」
氷の宰相シュトライヒが、小麦の穂を一つ折り、その実を指でしごいて口に含む。
そして、目を閉じたまま、その豊かな風味に、深く、深く感動していた。
「……信じられん……。ただの麦の一粒が……これほどまでに豊かな大地の香りと、太陽の甘みを、その内に秘めているとは……。これを粉にして焼いたパンは……一体、どれほどの味になるというのだ……」
彼ら、国の頂点に立つ者たちが、皆一様に、その神の食べ物の前に子供のように瞳を輝かせ、その奇跡の味に酔いしれていた。
「おお……! 素晴らしい! 素晴らしい美味しさですね!」
「まさに神の実! 神々の食べ物とは、このような味だったに違いありませんな!」
農学者たちは、涙を流してその豊穣の大地にひざまずき、神と、そして王に感謝の祈りを捧げていた。
アルトリウス王は、その幸福な光景を、満足げに見つめていた。
彼の胸の中で、一つの確信が燃え上がっていた。
この奇跡さえあれば。
我がグランベル王国の民は、二度と飢えることはない。
それどころか、大陸で最も豊かで、幸福な民となるであろうと。
その日の午後、王の興奮はまだ冷めやらぬまま、次なる奇跡の現場へと移っていた。
王宮の地下深く。
この数日の間に、国中から最高の石工と建築家たちが召集され、急ピッチで建造された実験用の氷室の前。
分厚い花崗岩の壁。地面深く掘り下げられた構造。そして、壁と壁の間には、断熱材として大量の木炭と、おが屑が詰め込まれている。
それは、この国の伝統的な建築技術の粋を集めた、最高の貯蔵庫だった。
だが、その内部は、これまでの氷室とは全く異質な空気に満たされていた。
重々しい断熱扉が、数人の屈強な衛兵の手によって、ぎいと音を立てて開け放たれた瞬間。
中から、ありえないほどの鋭利な冷気が、白い霧となって溢れ出してきたのだ。
「うおっ!?」
「な、なんだ、この冷たさは!?」
その場にいた誰もが、真夏だというのに、まるで真冬の吹雪に見舞われたかのように身を震わせた。
王は、その冷気に怯むことなく、一歩中へと足を踏み入れた。
氷室の中は、魔石の力で灯されたランプの青白い光に照らし出されていた。
そして、その中央に。
鎮座していたのは、一つの巨大な氷の塊だった。
それは、冬の湖から切り出してきたような、不純物を含んだ濁った氷ではない。
まるで、巨大な水晶の原石のようにどこまでも透明で、そして内側から青白い光を放っているかのような、完璧な氷の結晶体。
数日前、ゲオルグの目の前で水差しを凍らせたのと、同じ魔石の力で作り出された、魔法の氷塊だった。
「……陛下」
このプロジェクトを担当していた王立アカデミーの老学者が、興奮に声を震わせながら報告を始めた。
「……素晴らしいですぞ……! この氷室は! そして、この魔石によって作られた氷は! まさに、奇跡でございます!」
彼は、壁に取り付けられた温度計と湿度計を指差した。
「この氷室の内部は、常に外気温よりも三十度は低く保たれております。そして、何よりも驚くべきは、この氷が溶けるスピードが、信じられないほどに緩やかなのです! 普通の氷であれば、この暑さの中では、数日で全て溶けて水となってしまう。しかし、この魔石の氷は……!」
老学者は、一度言葉を切ると、信じられないといった表情で続けた。
「……我々の計算によれば、この大きさの氷塊を最初に一つ、この氷室に設置すれば、少なくとも二百日は、その冷気を保ち続けると予測されます!」
「…………二百日!」
王は、絶句した。
その数字が持つ意味を、彼は瞬時に理解していた。
「……最初に作る必要があるとはいえ……。二百日だと……? そ、それは、もはや一年ということではないか……!」
そうだ。
それは、もはや季節を超えたということだ。
夏に、氷を手に入れる。
そのこれまで、王侯貴族でさえ夢のまた夢であった究極の贅沢が、今や現実のものとなったのだ。
「……素晴らしい……」
王は、その青白く輝く氷の塊に、そっと手を触れた。
骨の髄まで凍てつくような、鋭利な冷たさ。
だが、その冷たさの奥に、彼はこの国の熱い、熱い未来を見ていた。
「……素晴らしいぞ!」
王は振り返ると、その目に絶対的な王者の決意の光を宿して叫んだ。
「……直ちにだ! 直ちに、南の港町ポルト・マーレに、これと同じ、いや、これの十倍の規模の氷室を作成するのだ! 国中の、最高の職人を集めよ! 予算は、いくらでも使ってよい! そして、実際に水揚げされた魚の氷室保存を試みるのだ! 急げ! これは、勅命であるぞ!」
その雷鳴のような号令に、その場にいた全ての臣下たちが、ははーっと深々とひざまずいた。
王の頭脳は、もはや誰にも止められない速度で回転していた。
氷。
この絶対的な冷気。
それは、ただ冷たい飲み物や食べ物をもたらすだけではない。
食料保存に、革命をもたらす。
夏場、足が早く、王都まで決して届くことのなかった南の海の新鮮な魚介類が、貴族だけでなく、市民の食卓にも並ぶようになるだろう。
収穫期が限られる果物や野菜も、一年中その新鮮さを保つことができる。
そして、何よりも、医療。
熱病に苦しむ患者の熱を冷まし、繊細な薬草の鮮度を保ち、遠隔地まで届けることができる。
それは、この国の民の寿命そのものを延ばすことに繋がるのだ。
農業革命。
そして、低温流通革命。
二つの巨大な革命の歯車が、今まさに、この賢王アルトリウス三世の手によって、同時に、そして力強く回り始めた。
その日の夜。
王は、再びゲオルグと国の重鎮たちを執務室に集めた。
そして、彼の口から語られたのは、もはやただの実験計画ではなかった。
それは、グランベル王国そのものの形を、永遠に変えてしまうであろう、壮大な国家改造計画の青写真だった。
「……聞け。我々は、これより二つの国家プロジェクトを同時に推進する。一つを、『豊穣の女神計画』と名付ける。魔石による、農業生産の飛躍的向上を目的とする。ゲオルグよ、そなたには魔石の安定供給と共に、農学者たちと連携し、最も効率的な栽培方法を確立させよ。そして、その成果を、まずは王家の直轄領から、順次、王国全土の農村へと広めていくのだ」
「は、はっ!」
「そして、もう一つ。これを、『氷の心臓計画』と名付ける。魔石による、低温貯蔵、及び輸送網の確立を目的とする。港町ポルト・マーレを皮切りに、王国全土の主要都市に巨大な氷室を建造する。そして、その都市間を結ぶ街道に、中継地点となる小規模な氷室をいくつも設置し、王国全土を網羅する低温流通網を、完成させるのだ」
そのあまりにも壮大で、そしてあまりにも具体的なビジョン。
その場にいた誰もが、その王の神の如き叡智と実行力に、ただただ打ち震えることしかできなかった。
グランベル王国は、変わる。
この若き賢王の手によって、大陸のいかなる大国も成し遂げたことのない、豊かで、強力で、そして幸福な理想郷へと、生まれ変わろうとしていた。
その歴史の巨大なうねりの中心で、ゲオルグ・ラングローブは、自らの運命を改めて噛み締めていた。




