第31話 【日本政府編】 プロジェクト・キマイラ
新田 創が、新たなるゲームシーズンの開幕に胸を躍らせ、怠惰で幸福な「研究」の日々に没入していた、まさにその裏側で。
日本の国家中枢、東京千代田区永田町、総理大臣官邸の地下深くに広がる危機管理センターは、この国が戦後経験したことのない、静かで、しかしあまりにも熾烈な戦争の最前線と化していた。
巨大なメインスクリーンには、世界各国のリアルタイムの衛星画像、暗号化された通信の傍受ログ、そして友好国であるはずのアメリカ合衆国のNSAやCIAから発信される、日本に対する情報収集活動の活発化を示す無数の赤い警告マーカーが、不気味に点滅している。
円卓を囲むのは、この国の運命をその双肩に担う、選ばれし者たち。
内閣総理大臣、宰善 茂。
官房長官、綾小路 俊輔。
外務大臣、古賀 雅人。
防衛大臣、岩城 剛太郎。
そして、この前代未聞の事態の唯一無二の現場責任者、内閣情報調査室理事官、橘 紗英。
彼らの顔には、ここ数週間の常軌を逸した緊張と、睡眠不足による深い疲労の色が、色濃く浮かんでいた。
部屋に満ちているのは、サーバーの低い唸りと、淹れられてから数時間は経過したであろう煮詰まったコーヒーの苦い香り。そして、人類の未来そのものを自分たちの手でどうにかしなければならないという、あまりにも重すぎる責任の匂いだった。
「――以上が、先日『賢者』より提供された新規サンプルの初期分析報告の概要です」
橘 紗英が、その氷のように冷徹な声で報告を締めくくった。
彼女の淡々とした口調とは裏腹に、その報告内容は、円卓に座る閣僚たちの現実認識を、再び根底から揺さぶるに十分すぎるものだった。
ポーション。
末期の癌細胞を自壊させ、瀕死の実験動物の失われた臓器さえも再生させる、奇跡の液体。
魔石。
人の「意志」という曖昧なものに直接呼応し、熱、電気、運動エネルギーを無から無限に取り出すことを可能にする、神の火。
科学者たちの狂喜と興奮と、そしてほとんど意味不明なポエムに満ちた報告書を、橘は、極めて冷静な政治的・軍事的なインプリケーション(示唆)へと再翻訳して、彼らに提示した。
「……つまりだ」
長い沈黙を破ったのは、宰善総理だった。彼は、組んだ指の上で、疲れたようにこめかみを押さえていた。
「……我が国は、今や、病による死とエネルギー問題という、人類が有史以来抱え続けてきた二つの巨大な軛から、完全に解放される可能性をその手にしたということで、間違いないかね」
「はい。ポテンシャルとしては、その通りです、総理」
橘は、静かに頷いた。
「……そうか」
総理は、深く、深く息を吐き出した。
その一言に、この国の最高責任者が抱える、途方もない重圧が滲み出ていた。
しばらく、誰もが言葉を発することができなかった。
あまりにも、事態が巨大すぎる。
自分たちが今、人類史のどのような特異点に立っているのか、その正確な座標を誰も測りかねていた。
その重苦しい沈黙を最初に破ったのは、外務大臣の古賀だった。彼は、長年、世界の外交の舞台で日本の国益のために戦ってきた生粋の現実主義者であり、国際協調の信奉者だった。
「……総理。そして、皆さん」
古賀は、そのやつれた顔に深い憂慮の色を浮かべて、口を開いた。
「賢者様とのこの奇跡的な関係を維持、発展させていくことの重要性は、論を待ちません。ですが……我々はそろそろ、もう一つの、極めて現実的な問題に正面から向き合うべき時ではないでしょうか」
彼は一度言葉を切ると、メインスクリーンに映し出された無数の赤い警告マーカーを指差した。
「……諸外国の扱いです。流石に、これだけの異常事態が、この日本という国で秘密裏に進行していることを、彼らがいつまでも気づかぬと思う方がどうかしている。もうとっくに、何かとてつもないことが起こっているという確信に近いレベルで、彼らは感づいていますよ」
彼の言葉は、この部屋にいる全員が心の底では理解していながら、あえて目を背けていた不都合な真実だった。
アメリカの偵察衛星は、その軌道を明らかに日本上空に集中させている。
中国やロシアの大使館に所属する諜報員の活動は、かつてないほどに活発化している。
世界中の金融市場で、日本円の価値が、理由不明のまま不自然な安定と高騰を見せ始めている。
世界は、気づき始めているのだ。
この極東の島国で何かが、世界のパワーバランスを根底から覆しかねない何かが、起きていると。
「……賢者様の存在そのものをバラすのは、もちろん論外です。ですが……」
古賀は、言葉を続けた。
「このまま完全な沈黙を続けるのも、もはや限界に近い。それは、かえって彼らの疑心暗鬼を煽り、より強硬な情報収集活動を誘発するだけです。何か……何か、我々の側から限定的であっても情報を公表し、彼らの憶測を我々のコントロール可能な方向へと、誘導すべきではないでしょうか?」
それは、外交官としての彼の、ぎりぎりの、そして最も誠実な提案だった。
だが、その提案は、橘 紗英によって一刀両断に切り捨てられた。
「――はー……。公表ですか」
橘は、心の底から呆れたというように、冷たい、冷たい息を吐き出した。
「……論外です、古賀大臣。何を仰っているのですか」
その声は静かだったが、部屋の温度を数度引き下げるほどの、絶対的な拒絶の意思を含んでいた。
「よろしいですか。この奇跡は、賢者が数多ある世界の中から、我々日本という国をただ一つ選び、そしてもたらしてくださったものです。その対価を、国家の文字通りありったけの資産と叡智を投げ打って支払っているのは誰です? 他ならぬ、我々日本政府です。アメリカでも、中国でもない。我々だけが、その権利と義務を有している」
彼女は、円卓に座る男たちを一人一人、射るような視線で見つめた。
「これは、我々だけのものです。その神聖な果実を、なぜ我々が自ら他国に分け与えてやらねばならないのですか。その必要性は、どこにも、一ミリたりとも存在しません」
そのあまりにも強硬で、そしてあまりにも独善的な物言いに、古賀大臣が色をなして反論した。
「橘君! 君の言いたいことは分かる! だが、国際社会はそんな子供の理屈で動いているわけではないのだぞ! いやしかし、これ、日本政府だけで完全に独占しているというのは、あまりにもまずくないか!? バレた時がさあ……! その時、我が国は全世界を敵に回すことになるのだぞ! その外交的な破局を、君は、どう責任を取るつもりなんだ!」
だが、橘は、その悲痛な叫びを鼻で笑った。
「……バレないようにするのですよ、大臣」
彼女は、まるで出来の悪い生徒に簡単な算数を教える教師のように言った。
「それが、我々内閣情報調査室の専門分野でしょう? 違うとでも?」
その氷のような傲慢ささえ感じさせる言葉に、会議室の空気が凍りついた。
その張り詰めた空気を破ったのは、これまで腕を組んで、黙って議論を聞いていた防衛大臣、岩城 剛太郎だった。
彼は、陸上自衛隊の元陸将という経歴を持つ、筋金入りの武人だった。その思考は、常に、日米安全保障条約という揺ぎない基盤の上に成り立っている。
「……いや、橘君」
岩城は、その熊のような巨体を少し前に乗り出し、低い、しかし重い声で言った。
「君の言う徹底的な秘匿という方針には、私も基本的には賛成だ。だがな、物事には例外というものがある」
彼は、古賀大臣の方にちらりと視線を向けた。
「……せめて、アメリカ政府とだけでも、限定的な情報共有はしておくべきではないのか?」
その言葉に、会議室の空気が再び動いた。
「同盟国だ」
岩城は、続けた。
「この七十年以上、我が国の平和と安全を、その圧倒的な軍事力で守り続けてくれた、唯一無二の同盟国だ。彼らを完全に蚊帳の外に置くのは、信義に反する。そして、何よりも、安全保障上の悪手だ。もし、この奇跡を狙って中国やロシアが我が国に軍事的な圧力をかけてきた場合、我々だけで本当に対処できるのか? アメリカという世界最強の後ろ盾があってこそ、我々は、対等な交渉のテーブルに着けるのではないのかね?」
それは、日本の戦後体制の根幹をなす、現実的な、そして重い意見だった。
だが、そのあまりにも正論に聞こえる意見に、これまで静かに目を閉じて議論を聞いていた官房長官、綾小路 俊輔が、ぼそりと、ほとんど誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。
その声は静かだったが、猛毒を含んでいた。
「…………アメリカの犬が」
その呟きは、しかし、静まり返った会議室では、あまりにもはっきりと全員の耳に届いてしまっていた。
岩城防衛大臣の日に焼けた厳つい顔が、みるみるうちに赤黒く染まっていく。
彼は、ギギギと、錆びついた蝶番のような音を立てて、綾小路の方をゆっくりと振り返った。
「………………は?」
岩城の口から、地獄の底から響くような、低い、低い声が漏れ出した。
「…………おい、綾小路。てめえ、今なんつった……?」
綾小路は、その殺気さえ孕んだ視線を、涼しい顔で受け流した。
彼は、その学者然とした細いフレームの眼鏡の奥で、蛇のように冷たい目を細めた。
「おや、これは失礼。何か、私の独り言が聞こえてしまいましたかな、大臣。耳がよろしいようで」
そのどこまでも、人を食ったような態度。
「…………てめえ……!」
岩城の堪忍袋の緒が、音を立てて切れた。
彼は、ガタンッ! と大きな音を立てて、椅子を蹴倒すように立ち上がった。その二百キロ近い巨体から発せられる威圧感は、部屋の空気を物理的に震わせた。
「おっ、やるのか、綾小路! 貴様、この俺に喧嘩を売るなら買うぞ! いつも安全な場所で口先ばかり動かしおって! このもやしがぁ!」
そのあまりにも、直接的な侮辱の言葉。
だが、綾小路は全く動じなかった。
彼は、立ち上がることもせず、ただゆっくりと自分のスーツの襟を指先で直し、そして、ふうと小さな息を吐き出した。
「……はー……。だから、脳筋は困りますな」
彼は、心底うんざりしたというように言った。
「いいですか、岩城大臣。私は、剣道の心得がございましてね。段位も、まあ、上級者の部類には入ります。腕力だけが全てではないのですよ? それとも、試されますか? その無駄に鍛え上げられた筋肉という名のただの肉塊が、私のこの研ぎ澄まされた剣閃を捉えることができるものかどうか」
そのあまりにも静かで、しかし、あまりにも挑発的な言葉。
「上等だ、こらあああっ!」
岩城が、まさにその巨大な拳を、綾小路のそのいけ好かない眼鏡面のど真ん中に叩き込もうと一歩踏み出した、その時だった。
「――そこまでだ」
凛とした、しかし逆らうことを決して許さない、絶対的な静けさを伴った声が、二人の間に響き渡った。
宰善総理だった。
彼は、いつの間にか立ち上がっていた。
その普段は温和な顔から、表情が完全に消え失せていた。
その目に宿っていたのは、この国の一億二千万人の命と未来をその一身に背負う、最高責任者としての、冷徹で、そして底知れないほどの覚悟の光だった。
「……みっともないぞ、二人とも。ここはどこだか分かっておるのか。子供の喧嘩は、他所でやれ」
その静かな、しかし絶対的な叱責に。
あれほど激昂していた岩城が、まるで冷水を浴びせられたかのように、ぴたりと動きを止めた。
綾小路もまた、その人を食ったような笑みを消し、神妙な面持ちで居住まいを正した。
会議室に、再び重い、重い沈黙が戻ってきた。
「……おいおい、喧嘩はまずいだろ……」
宰善総理はそう言うと、ふうと長い息を吐き出した。
その顔には、深い、深い疲労と、そしてどこか奇妙な、楽しげな色が混じり合っているように見えた。
そう。
ある意味、彼らはこのありえない状況を、楽しんですらいたのだ。
日々の退屈で些末な政争や、官僚的な手続きに明け暮れていた彼らの錆びつきかけていた、政治家としての魂が。
この人類史そのものを揺るがしかねない、巨大で、途方もないプロジェクトを前にして、久しぶりに燃え上がっているのを、誰もが自覚していた。
宰善総理は、円卓をゆっくりと見渡した。
「……皆の言うことは分かる。どの意見も一理ある。そして、どの意見も、この国を思ってのことだということも、私は理解している」
彼は、静かに語り始めた。
「古賀大臣の言う通り、国際社会との協調は、我が国の生命線だ。完全に世界から孤立して生きていくことはできん」
彼は、古賀大臣に頷いてみせた。
「そして、岩城大臣の言う通り、日米同盟は我が国の安全保障の根幹だ。それを軽んじることは許されん」
彼は、岩城大臣の肩をポンと叩いた。
「だが同時に、綾小路官房長官の言う通り、この奇跡は、我が国が戦後長らく失っていた真の独立と誇りを取り戻すための、千載一遇の好機でもある。その芽を自ら摘み取ってしまうような、愚かな真似もしたくはない」
彼は、綾小路に、鋭い、しかしどこか同志を見るような視線を送った。
そして、彼は橘紗英に向き直った。
「そして、橘君。君の言う通り、この奇跡の源泉は、我々だけが独占している。その絶対的なアドバンテージを、安易に手放すべきではない」
彼は、全ての意見を肯定した。
そしてその上で、彼は、王としての、いや、この国の宰相としての決断を下した。
「……よって、こうしよう」
宰善総理の声は静かだったが、その場にいる全ての者の心に、深く、深く染み渡った。
「……我々は、何も公表しない。そして、いかなる国とも情報を共有しない。当面は、橘君の言う通り、徹底的な秘匿を貫く」
その言葉に、岩城と古賀が息を飲む。
「だが」と、総理は続けた。
「ただ黙って隠し通すだけでは、いずれ限界が来る。それも事実だ。ならば……」
彼の口元に、老獪な政治家としての、深い、深い笑みが浮かんだ。
「……嘘をつけばいい」
「……嘘でございますか?」
橘が、問い返した。
「そうだ。嘘だ。それも、とびっきりに壮大で、そして世界中の誰もが反論のしようのない、完璧な『物語』を、我々の手で創り上げるのだ」
総理は、ゆっくりと歩き始めた。
「例えば、こうだ。我が国の深海調査船が、日本海溝の未知の熱水噴出孔で、全く新しいエネルギー源となるメタンハイドレートの巨大な鉱床を発見したと。あるいは、奈良の明日香村の未発掘の古墳から、現代科学では到底再現不可能な、オーパーツとも言うべき古代の超技術の遺産が、発見されたと」
彼は、楽しそうに次々と嘘のシナリオを紡ぎ出していく。
「我々が今経験している、この科学技術の異常なまでの飛躍の全ての『原因』を、賢者様の存在ではない、別のもっとこの世界の常識の範疇で説明可能な、しかし誰もが検証不可能な、一つの巨大な『偽りの真実』へと、すり替えるのだ」
そのあまりにも大胆不敵で、そしてあまりにも悪魔的な発想に。
円卓にいた全ての閣僚たちが、戦慄し、そして同時に魅了されていた。
これこそが、政治。
これこそが、情報戦。
宰善総理は、橘に向き直った。
「橘君。君に、新たな極秘のサブ・プロジェクトを命じる」
「はっ」
「プロジェクト・プロメテウスから、最高の頭脳を数名引き抜け。科学者だけではない。歴史学者、考古学者、SF作家、ハリウッドのシナリオライターでも構わん。ありとあらゆる分野の天才たちを集めろ。そして彼らと共に、世界を完璧に欺くための最高の『物語』を創り上げろ」
総理の目は、燃えていた。
「プロジェクト名は、『キマイラ』とする。良いな?」
「…………御意」
橘紗英は、深々と頭を下げた。
その氷のような仮面の奥で、彼女の魂もまた、この途方もない国家規模の壮大な嘘の構築という、新たな挑戦に打ち震えているのを自覚していた。
会議は、終わった。
閣僚たちが、それぞれの興奮と思惑を胸に、部屋を後にしていく。
一人残った宰善総理は、再び、巨大なスクリーンに映し出された世界地図を、静かに見つめていた。
彼の孤独な戦いは、まだ始まったばかりだ。
神の火を手にしてしまった、矮小なる、しかし誰よりもしたたかな人間たちの、壮大で、そしてどこまでも滑稽な物語が、今、静かに幕を開けた。




