第3話 【現代日本編】 異世界の置き土産と深夜の日本縦断
翌日の昼過ぎ、宅配便で注文した品々が全て届いた。
新田 創は、がらんとしたワンルームマンションの床に、それらを一つ一つ並べて検品していく。その顔は、新しいおもちゃを手に入れた子供のように、興奮と期待で紅潮していた。
ヘルメット、肘と膝のプロテクター、厚手の作業用グローブ。土を掘るための軍用スコップ、細かい作業用のピンセット。サンプルを保管するための、サイズ違いのジップロックが百枚。そして、万が一のための熊除けスプレー。それら全てを詰め込むための、六十リットルはあろうかという巨大なバックパック。
まるで、これからどこかの紛争地帯にでも赴くかのような、物々しい装備の数々。
創はそれらを一つ一つ手に取り、感触を確かめた。
「……やりすぎか?」
一瞬、自分の格好を想像して、その滑稽さに苦笑いが漏れた。
三十五歳の無職が、部屋の中で一人、ヘルメットを被ってスコップを構えている姿。誰にも見せられたものではない。
だが、相手は未知の世界だ。何が起こるか分からない。石橋を叩いて渡る。いや、石橋の安全性を確認するために、まず遠くからドローンを飛ばして三次元スキャンし、素材の強度計算まで行ってから渡る。それくらいの慎重さが必要なのだ。
「よし」
創は覚悟を決め、全ての装備をバックパックに詰め込んだ。最後に、カロリーメイトの箱と、水を満たした水筒をサイドポケットに押し込む。
服装は、先日ユニクロで買ってきた、丈夫で動きやすいカーゴパンツと、長袖のドライTシャツ。その上に、薄手のアウトドアジャケットを羽織った。
準備は、万端だ。
彼は部屋の中央に立ち、大きく深呼吸をした。
これから行くのは、ただの異世界ではない。俺の未来のキャッシュフローを生み出す、金のなる木だ。いや、金が埋まっている鉱山だ。
プロジェクト「俺の悠々自適スローライフ計画」、フェーズ1。オペレーション・サンプル採取。
作戦開始だ。
創は、強く、あの草原をイメージした。
二つの太陽が輝く、どこまでも広がる緑の野原。清浄な空気と、穏やかな風。
転移。
次の瞬間、彼の体を、もはや慣れ親しんだと言ってもいい、世界が歪む感覚が包み込んだ。
そして、目を開けた時、彼は再び、あの場所に立っていた。
「……よし、着いた」
東京のワンルームマンションの生活臭とは無縁の、青々とした草の匂いが、肺を満たす。見上げれば、白と黄色の二つの太陽が、燦々と地上に光を注いでいた。
前回訪れた時と、何も変わらない、平穏な風景。
創は、まず周囲の安全を確認した。見渡す限り、動くものの姿はない。鳥とも獣ともつかない、のどかな鳴き声が、遠くから聞こえてくるだけだ。
彼はバックパックからスマホを取り出し、オフラインでも使える地図アプリを起動した。もちろん、この世界ではGPSは機能しない。だが、方位磁針の機能は生きている。
彼は、この場所を「ベースポイントα」と名付け、特徴的な形をした遠くの山脈と、二つの太陽の位置関係を、念入りにメモした。そして、採取したサンプルの写真と共に、記録を残していく。元プロジェクトマネージャーの、無駄に几帳面な性分が、こんなところで発揮されていた。
「さて、と……まずは、足元からだな」
創はグローブをはめ、スコップを構えた。
そして、地面に向かって、えい、と突き立てる。
ザクッ、という小気味よい音がして、刃先が数センチ土にめり込んだ。
彼は、足でスコップの背をぐっと踏み込む。思った以上に、地面は硬い。草の根が、密に絡み合って、抵抗しているのだ。
「う、ぐぐ……!」
創は、顔を真っ赤にして、全体重をスコップにかけた。
十年以上、パソコンのキーボードを叩くことしかしてこなかった、ひ弱な腕と腰が、悲鳴を上げる。
ようやく、スコップが深く突き刺さった。てこの原理で土を掘り返すと、黒々とした、湿った土の塊が、ごろりと姿を現す。
「はぁ……はぁ……疲れた……」
まだ、ほんの少し掘っただけだというのに、額には玉の汗が浮かび、息が上がっていた。
スローライフ計画の第一歩が、こんな過酷な肉体労働だとは、誰が想像しただろうか。
創は、ぜいぜいと息を整えながら、掘り起こした土を観察した。
見た目は、地球のそれと大差ないように見える。ミミズのような生き物もいる。彼はピンセットでその土を慎重につまみ、ジップロックの一枚目に入れた。そして、油性ペンで「ベースポイントα/表層土」と書き込む。
「次は、もう少し深く……」
彼は、再びスコップを手に取った。
そこから先は、地道で、過酷な作業の連続だった。
穴を三十センチほど掘り進めると、土の色が、赤みがかった粘土質のものに変わった。それも採取し、「深層土」と記録する。
次に、石だ。
彼は、周囲を歩き回り、見た目に特徴のある石を探した。金属質の光沢を放つ、重い石。瑪瑙のように、美しい縞模様が入った石。ガラスのように、透明な石。それらを、一つ一つ、別のジップロックに入れていく。
そして、草。これが、一番厄介だった。
どれが”当たり”か分からない以上、できるだけ多くの種類を集める必要がある。
創は、図鑑を編纂する植物学者にでもなったかのように、草原を這い回った。
三つ葉のクローバーに似た植物。タンポポのような黄色い花を咲かせた植物。ラベンダーのような、強い芳香を放つ紫色の植物。彼は、それらを根っこから丁寧に掘り起こし、土を落とし、葉、茎、花、根と、部位ごとに分けてサンプルを確保していく。
中には、触れるとピリピリと痺れるような感覚が走る、危険そうな植物もあった。そういうものには、細心の注意を払い、決して素手では触れないようにした。
二つの太陽が、空高く昇り、そして少しずつ傾き始める頃。
創は、完全に、疲れ果てていた。
全身は汗と土で汚れ、腰は限界を訴えて悲鳴を上げている。腕は、スコップを握っていたせいで、ぷるぷると震えていた。
「いやー……疲れた……土を調べるだけで、結構疲れるな……穴掘り、大変だった……」
彼は、地面にへたり込み、水筒の水をがぶ飲みした。
ぬるくなった水が、乾ききった体に染み渡っていく。
だが、その顔には、疲労と同時に、確かな達成感が浮かんでいた。
彼の足元には、パンパンに膨らんだジップロックの袋が、山のように積まれている。土、石、植物。それらが、きっちりと五つのグループに分けられていた。
研究機関、五箇所分の、未来への投資。
「まあ、資料は五箇所分、出来た。よしよし……」
創は、満足げに頷くと、全てのサンプルを巨大なバックパックに詰め込んだ。ずしり、とその重さが肩にのしかかる。
彼は、自分が掘り返した穴を、丁寧に埋め戻した。来た時よりも、美しく。立つ鳥跡を濁さず、だ。
そして、最後に、広大な草原を見渡し、小さく呟いた。
「……また来るぜ。次は、大金を持ってな」
彼は、東京の自室をイメージし、その場から姿を消した。
◇
異世界から帰還した創を待っていたのは、安らぎの休息ではなかった。
プロジェクトは、まだ第二段階(フェーズ2)、オペレーション・デリバリーが残っている。
彼は、シャワーを浴びて泥を落とすと、すぐにパソコンの前に座り、事前にリストアップしておいた五箇所の研究機関の情報を、再度確認した。
一箇所目、茨城県つくば市、国立環境研究所。
二箇所目、神奈川県横浜市、大手化学メーカー「菱和ケミカル」中央研究所。
三箇所目、東京都文京区、帝都大学理学部生命科学研究室。
四箇所目、兵庫県播磨科学公園都市、大型放射光施設「SPring-8」。
五箇所目、埼玉県和光市、理化学研究所。
日本の科学技術の、まさに頭脳と心臓と呼ぶべき場所ばかりだ。
創は、それぞれの施設の航空写真とストリートビューを、脳に焼き付くほど念入りに確認し、サンプルの「置き配」ポイントを最終決定していく。
人目につかず、しかし、翌朝には職員が確実に見つけるであろう場所。監視カメラの死角。警備員の巡回ルート。考えれば考えるほど、胃がキリキリと痛んだ。
「……やるしかない」
創は、覚悟を決め、五つのサンプルが入った段ボール箱を、それぞれ用意した。中には、サンプルと、先日作成した手紙が入っている。
『ご担当者様。新種の鉱物(あるいは植物)と思われるものを発見いたしました。つきましては、貴機関にて成分分析をお願いしたく、サンプルを送付いたします。もし学術的価値が認められるようでしたら、下記アドレスまでご連絡ください。追伸:同様のサンプルを、他の四つの研究機関にも提供しております。発見は、是非、皆様で共有してください。 ――名もなき発見者より』
最後の追伸の一文が、彼の狡猾さを物語っていた。
一つの組織に、情報を独占させないための、牽制。そして、競争心を煽るための、焚き付けだ。
さあ、日本の頭脳たちよ、俺の手の上で存分に踊ってくれ。
創は、一つ目の段ボール箱を抱え、目を閉じた。
最初のターゲットは、筑波。
深夜の、静まり返った研究都市をイメージする。
転移。
ひんやりとした、少し湿った空気が、肌を撫でた。
目を開けると、そこは、イメージ通りの、国立環境研究所の、生垣の裏だった。巨大な研究棟が、暗闇の中に、巨大な獣のように静かに佇んでいる。
創は、息を殺し、周囲を警戒した。
遠くで、虫の音が聞こえるだけだ。人影はない。監視カメラの赤いランプが、無機質に点滅しているのが見えたが、ここは死角になっているはずだ。
彼は、そっと段ボール箱を地面に置くと、スマホで証拠写真を一枚撮り、一秒もおかずに、その場から転移した。
次に、横浜。ベイブリッジの灯りが見える、湾岸沿いの企業研究所。
冷たい潮風が、頬を撫でる。警備員の足音が聞こえ、慌てて柱の陰に隠れた。心臓が、早鐘のように鳴っている。警備員が通り過ぎるのを待ち、通用口の脇に、そっと箱を置く。
次に、東京、文京区。歴史ある大学の、古びた研究棟の裏。
酔っ払った学生たちの笑い声が、遠くから聞こえてくる。猫が、足元をすり抜けていった。
次に、兵庫、播磨。山の中に、突如として現れる、巨大な円形の施設。
空には、都会では見ることのできない、満点の星が輝いていた。鹿の鳴き声が、静寂に響き渡る。
そして、最後は、埼玉、和光。
五つ目の箱を、指定の場所に置き終えた時、創は、心身ともに、完全に疲れ果てていた。
東京のアパートに帰還した彼は、ベッドに倒れ込むようにして、深い眠りに落ちた。
ふー、一苦労だな。
夢うつつの中、創は思った。
肉体労働に、スパイ紛いの潜入工作。スローライフとは、ほど遠い。
もっと、楽がしたい。
「魔法とか、勉強して、使えるようにならないかなぁ……」
寝言のように、そんな言葉が口をついて出た。
そうだ、魔法。
ファンタジーの世界には、必ずと言っていいほど、魔法が存在する。
物を宙に浮かせる魔法。炎を出す魔法。そして、土を掘ったり、ゴーレムを創り出して働かせたりする、便利な魔法も。
そんな力が使えたら、どんなに楽だろうか。
「【異界渡り】で、魔法が勉強出来る場所に行きたい、と願ったら、いけるかも?」
能力のトリガーは、場所を強くイメージすること。
ならば、「魔法が存在し、それを学ぶことができる学校や都市」を、強くイメージすれば?
それは、あまりにも魅力的で、同時に、危険な考えだった。
「うーん……今度、試してみるか……」
だが、今は、疲れていた。
創の意識は、深い、深い眠りの底へと沈んでいった。
◇
全てのミッションを終え、創は、ひたすら「待つ」というフェーズに入った。
彼は、プロジェクト計画書のノートに、フェーズ3「待機・観察」と書き込み、ただ、時が過ぎるのを待った。
一日目。
何も起こらなかった。
創は、朝から晩まで、何度もフリーメールの受信箱をチェックし、ネットのニュースサイトを巡回したが、それらしい情報は、どこにもなかった。
「……まあ、そんなにすぐには、な」
彼は、自分に言い聞かせた。分析には、時間がかかるものだ。
二日目。
やはり、何も起こらなかった。
創の心に、焦りと、疑念が芽生え始めていた。
もしかして、俺が採取したサンプルは、全て、ただの石ころと、ただの草だったのではないか?
研究員たちは、匿名の怪しい送りつけものなど、即座にゴミ箱に捨ててしまったのかもしれない。
だとしたら、俺の苦労は、全て、水の泡だ。
三日目の昼過ぎ。
創は、完全に、希望を失いかけていた。
彼は、だらしなくソファに寝転がり、ポテトチップスをかじりながら、ワイドショーをぼんやりと眺めていた。芸能人の不倫騒動を、コメンテーターたちが、ああでもないこうでもないと、無責任に語っている。
平和な、日常。
俺は、この日常に、戻るべきなのかもしれない。
実家に帰って、ハローワークに通って、地元の小さな会社に再就職して……。
その時だった。
けたたましい緊急速報のチャイムが、部屋中に鳴り響いた。
画面が、真っ赤なテロップに切り替わる。
『――臨時ニュースです。たった今入った情報です。本日午前、茨城県つくば市の、国立環境研究所の研究棟が、原因不明の事態により、完全に封鎖されたとの情報が入りました。警察によりますと、現在、自衛隊の化学防護隊も出動し、周囲の住民に対し、避難勧告が出されている模様です。繰り返します――』
テレビ画面に映し出されたのは、ヘリコプターからの中継映像だった。
巨大な研究棟が、黄色いテープで厳重に封鎖され、その周りを、物々しい白い防護服を着た隊員たちが、慌ただしく動き回っている。
創は、ソファから跳ね起きた。
手にしたポテトチップスの袋が、床に滑り落ちる。
「……は……?」
国立環境研究所。つくば市。
それは、俺が、三日前の夜に、最初のサンプルを置いた場所だった。
偶然か?
いや、そんなはずはない。
創の血の気が、さーっと引いていくのが分かった。
心臓が、嫌な音を立てて、脈打ち始める。
彼は、震える手で、テーブルの上に置きっぱなしにしていたノートパソコンを開いた。
そして、恐る恐る、あのフリーメールのアカウントに、ログインした。
受信箱を開いた瞬間、創は、息を飲んだ。
そこは、地獄だった。
未読メールの件数が、見たこともない数字になっている。【999+】。
そして、その件名が、創の恐怖を、さらに煽り立てた。
【緊急・最重要】ご連絡ください!貴殿は神か!?(菱和ケミカル中央研究所)
【人類の至宝】お送りいただいたサンプルの件、一刻も早くお話を!(帝都大学・長谷川)
【RE:RE:RE:RE:】どうか、返信を! いかなる条件も、我々は飲む覚悟です!(理化学研究所)
これは、物理法則の崩壊です。アインシュタインは、間違っていた(SPring-8)
金ならある。言い値で買おう。連絡をくれ(※個人名のアドレス)
我々は、貴殿の存在を、内閣官房長官に報告した(※政府機関ドメインのアドレス)
狂気。
熱狂。
懇願。
そして、脅迫めいたものまで。
メールの洪水。
創は、その中の一通、帝都大学からのメールを、恐る恐るクリックした。
そこには、学術論文もかくやという、詳細な分析レポートが添付されていた。
彼は、添付ファイルを開き、その内容に目を通し始めた。
『……サンプルNo.3(植物の根)から検出された細胞組織は、驚くべきことに、切断されても、数秒で自己修復・再生を開始した。これは、既存の地球上のいかなる生命体の再生能力をも、遥かに凌駕するものである。さらに、サンプルNo.1(黒色の土壌)からは、地球上には存在しない、原子番号127の超重元素が検出され……』
『……サンプルNo.2(金属光沢のある石)は、常温で、周囲の空間を僅かに歪ませる、微弱な反重力特性を示した。これは、現代物理学の根幹を揺るがす、世紀の……』
もう、そこから先の文章は、頭に入ってこなかった。
未知の元素。自己再生する細胞。反重力。
俺が、ただの石ころと、ただの草だと思って採取してきたものが、とんでもない、SFの世界の物質だったのだ。
ローリスクな計画のはずが、初手から、地球の科学史を、ひっくり返してしまった。
テレビでは、アナウンサーが、まだ緊迫した声で、何かを叫んでいる。
パソコンの画面では、新しいメールが、今も、一秒に数件のペースで、受信箱に叩き込まれ続けている。
創は、ゆっくりと、立ち上がった。
そして、天井を仰ぎ、両腕を広げ、腹の底から、叫んだ。
それは、恐怖と、興奮と、そして、自分のしでかしたことの、あまりのスケールの大きさに、一周回って、楽しくなってきてしまった男の、歓喜の咆哮だった。
「わーお、大事件じゃねーか!」




