第22話 【グランベル王国編】 王の慈悲のクッキー
王宮からの帰り道、ゲオルグ・ラングローブを乗せた豪奢な馬車は、夕暮れに染まる王都の石畳をゆっくりと進んでいた。馬車の窓から差し込む茜色の光が、彼の膝の上に置かれた、国王から下賜された金貨の詰まった木箱を鈍く照らし出している。それは、一人の商人が生涯で手にすることのできる富としては、まさしく頂点と呼ぶべきものだった。だが、今のゲオルグの心は、その黄金の輝きにはなかった。
彼の頭の中を占めていたのは、アルトリウス王が最後に告げた、あの穏やかで、しかしあまりにも重い言葉だった。
『少量であろうと構わぬ。市民への販売を許可する』
市民へ、販売。
その言葉の本当の意味を、ゲオルグは噛み締めていた。これは、単なる商売の許可ではない。賢王アルトリウス三世が、この商人ゲオルグ・ラングローブに課した、人生で最も難解で、そして最も重要な「宿題」なのだと。
王の御心は、手に取るように分かった。あの奇跡の味を、王侯貴族という特権階級だけで独占することの危険性。そして、富と幸福は、たとえ僅かずつであろうと、民草へと滴り落ちてこそ、国家の礎は盤石になるという、彼の揺るぎない治世の哲学。その高潔な理想を、この私に実現せよと、王は命じられたのだ。
だが、どうやって?
ゲオルグは、馬車のクッションに深く体を沈め、腕を組んで目を閉じた。
塩一粒が、腕利きの傭兵を一日雇える銀貨一枚に相当するかもしれない。砂糖一袋で、立派な邸宅が建つやもしれない。そんな、常識からあまりにもかけ離れた価値を持つ物質を、どうすれば「市民」の手に届けることができるというのか。
下手に安値で売れば、価値が暴落し、王家や貴族たちの不興を買うだろう。かといって、正当な値付けをすれば、それはもはや市民が手にできる領域を遥かに超越し、結局は一部の大金持ちが買い占めるだけで終わってしまう。それでは、王の「民にも恩寵の鱗片を」という御心には、到底応えられない。
失敗すれば、王の慈悲深い政策は、民衆の嫉妬と渇望を煽るだけの悪手と化し、その顔に泥を塗ることになる。そうなれば、ラングローブ商会が積み上げてきた信頼も、この奇跡の取引も、全てが水泡に帰すだろう。
(……参ったな)
ゲオルグは、心の底から呻いた。
(これは、あの魔法使い様との丁々発止の駆け引きよりも、遥かに難しい……)
馬車が、ラングローブ商会の壮麗な本店の前に到着した。彼は、重い足取りで馬車を降りると、出迎えた部下に一言だけ命じた。
「最高幹部全員を、一刻も早く会議室に集めろ。議題は、『対市民・奇跡の調味料販売計画』。今夜は、誰も眠れぬものと心せよ」
その夜、ラングローブ商会の最上階にある大会議室は、重苦しい沈黙と、焦燥に満ちた空気で満たされていた。
巨大な円卓を囲むのは、ゲオルグが最も信頼を置く、商会の屋台骨を支える十数名の幹部たち。帳簿を司る金庫番、物流を支配する輸送部門の長、各都市の支店を束ねる敏腕の支配人。いずれも、百戦錬磨の商人たちだった。
だが、その彼らが、今、揃いも揃って、額に汗を浮かべ、青い顔で頭を抱えていた。
議題は、あまりにも困難だった。
「……会頭。恐れながら申し上げますが、それは、不可能でございます」
最初に沈黙を破ったのは、現実的で、常に最悪の事態を想定する金庫番の老人だった。
「塩一粒が銀貨一枚、あるいはそれ以上の価値を持つやもしれぬこの奇跡を、どうやって市民に売れと仰せられるのですか。彼らの平均的な日当は、銅貨に換算して二十枚程度。どう計算しても、成り立ちませぬ」
「うむ。私も同意見だ」
輸送部門の長である、屈強な体つきの中年男が、腕を組んで唸った。
「唯一、可能性があるとすれば、王都に住まう一部の富裕層――ギルドの親方や、成り上がりの商人などに限定して販売することでしょう。ですが、そうなれば、情報を聞きつけた者たちが、店の前に殺到します。買えた者と買えなかった者との間に、深刻な対立が生まれるのは火を見るより明らか。最悪の場合、暴動が起きますぞ。そうなれば、我々が陛下の御顔に泥を塗ることになります」
彼のその指摘は、的を射ていた。会議室のあちこちから、同意のため息が漏れる。
だが、理想主義的な考えを持つ若い支配人の一人が、それに反論した。
「しかし、それでは王の御心に応えたことにはならないのではないか! 陛下は『民にも』と仰せられたのだ! 富裕層だけを相手にしては、結局、特権階級の範囲を少し広げたに過ぎないではないか!」
「では、お前に何か名案があるとでもいうのか!」
金庫番が、声を荒らげる。
「まさか、無償で配るとでも? そんなことをすれば、商会の経営が傾くどころの話ではないぞ! それに、一度タダで与えてみろ。人々は、それが当然の権利だと勘違いし、次を、その次をと、際限なく求め始めるだろう。感謝は、すぐに憎悪へと変わる。それが、大衆というものだ!」
「ぐっ……。それは、そうかもしれんが……」
会議は、完全に踊っていた。
現実的なリスクを指摘する声と、王の意向を汲むべきだという理想論が、互いにぶつかり合い、空転を続ける。誰もが、この難題を解決する画期的なアイデアを、何一つ思いつけずにいた。
ゲオルグは、その堂々巡りの議論を、ただ黙って聞いていた。彼は、目を閉じ、指でこめかみを揉みながら、深く、深く思考の海に潜っていた。
(……ダメだ。このままでは、ラチがあかん。調味料そのものを『売る』という発想に、囚われすぎている。それでは、価格の問題から、永遠に逃れられん……。発想を、転換せねば……。王の御心と、商人としての利益、そして民衆の平穏。その全てを、同時に満たすような、そんな都合の良い手が……)
彼の思考は、深い霧の中を彷徨っていた。
時間は、刻一刻と過ぎていく。会議室の窓の外は、とうに漆黒の闇に包まれていた。
その夜、会議が何の成果もなく散会した後も、ゲオルグは一人、自らの執務室で、机に向かっていた。
机の上には、山積みの帳簿と、そして彼の思考を刺激するための、いくつかのサンプルが置かれていた。キラキラと輝く塩の結晶、宝石のような角砂糖、そして、小瓶に入れられた胡椒。
彼は、角砂糖を一つ、指でつまみ上げた。魔法使いが初めてこれを見せた時の、あの衝撃的な甘さ。そして、王宮で、姫君たちが涙を流して感動していた、あの光景。
この、悪魔的なまでに甘美な魅力を、いかにして多くの人々に、安全に、そして公平に、届けるか。
彼は、疲労困憊した頭で、その一点だけを考え続けていた。
やがて、夜が更け、意識が朦朧としてくる。彼は、椅子に深くもたれかかったまま、うつらうつらと、浅い眠りに落ちていった。
その、夢とも現ともつかない意識の狭間で。
ゲオルグの脳裏に、ふと、遠い昔の記憶が、陽炎のように蘇った。
それは、彼がまだ、商会の跡継ぎでも何でもない、ただの腕白な少年だった頃の記憶。
王都で、年に一度開かれる、収穫祭の日。
通りには、色とりどりの飾りがつけられ、人々は歌い、踊り、一年の実りを神に感謝する。
そんな祭りの日、いつもは厳しい顔ばかりしている母親が、その日だけは、特別な菓子を焼いてくれた。
小麦粉と、貴重な卵、そして、ほんの少しだけ、なけなしの蜂蜜を混ぜて、暖炉の火でじっくりと焼いた、素朴な焼き菓子。
その、ささやかで、しかし心からの愛情が込められた、幸福な甘さ。
兄弟たちと、一枚の焼き菓子を分け合って食べた時の、あの満ち足りた気持ち。
そうだ。
あの時、母は言っていた。
『いいかい、ゲオルグ。幸せってものはね、大きな塊で独り占めするもんじゃないんだよ。こうやって、小さく、小さく分けて、みんなで味わうもんなのさ。そうすれば、ほんの少しの甘さでも、心がぽかぽかと温かくなるもんだろう?』
「…………そうだ……」
ゲオルグは、はっと目を見開いた。
彼は、椅子から跳ね起きるように立ち上がった。
「……これだ……! これしかない……!」
天啓だった。
深い霧に閉ざされていた彼の思考に、一筋の、しかし確かな光が差し込んできた。
調味料そのものを売るのではない。
それを使った「完成品」を、多くの人が手に取れる形で、提供するのだ。
大きな塊(調味料)ではない。小さく分けた、幸せ(菓子)を。
彼は、机の上の羊皮紙に、震える手で、その計画の骨子を書き殴り始めた。
『王の慈悲の焼き菓子計画』
彼は、まず「クッキー」という、シンプルで、しかし完璧な解決策にたどり着いた。
小麦粉とバター、そして、ほんの少しの奇跡の『砂糖』と『塩』。これならば、少ない調味料で、大量に作ることができる。
彼は、商人としての冷静な頭脳で、その計画の利点を、次々と書き出していった。
第一に、味の伝達効率。砂糖の衝撃的な甘さと、塩が引き立てる小麦とバターの豊かな風味を、誰にでも分かりやすい形で、直接、舌に届けることができる。
第二に、保存性。焼き菓子であるクッキーは、日持ちがする。これにより、一度に大量に生産し、計画的に、そして長期間にわたって販売(頒布)することが可能になる。
第三に、価格設定の柔軟性。調味料そのものとは違い、加工品であれば、こちらの裁量で価格を自由に設定できる。一般市民にとっては「一生に一度の、あるいは年に一度の贅沢」として、富裕市民にとっては「手軽に買える、日々のささやかな高級品」として。その絶妙な価格の境界線を、商人である自分が探り当てるのだ。
そして、第四に、希少価値の創出。「お一人様、一枚限り」という絶対的な制限を設ける。これにより、飢餓感を煽り、一枚のクッキーの価値を、単なる菓子以上の、特別な「体験」へと昇華させる。買えなかった者は、次こそはと願い、買えた者は、その幸運を自慢するだろう。それは、王都に新たな文化と、熱狂を生み出すに違いない。
ゲオルグは、自分が書き出した計画書を見つめ、確信に打ち震えていた。
これだ。
これこそが、賢王アルトリウス三世が自分に課した、あの難解な宿題に対する、完璧な回答だ。
王の御心である「民への恩寵」と、商人としての「利益の確保」、そして「社会の平穏」。その、決して交わることのないと思われた三つの要素を、この一枚の焼き菓子が、完璧な形で結びつけるのだ。
彼は、夜明けの光が窓から差し込み始めているのも忘れ、夢中でその計画の詳細を練り上げていった。
計画を実行に移すため、ゲオルグがまず着手したのは、王都で最高の菓子職人を探し出すことだった。
商会お抱えの料理長も、もちろん腕は一流だ。だが、彼らが専門とするのは、あくまで宮廷料理。ゲオルグが求めているのは、民衆の、いや、人間の魂を根源から揺さぶるような、魔力を持った菓子を作り出せる、本物の天才だった。
彼の情報網は、すぐに一人の男の名を弾き出した。
マイスター・レオポルト。
年は七十をとうに超え、かつては王侯貴族のためだけに、その神業のような腕を振るった伝説のパティシエ。だが、彼は十年ほど前、貴族たちの、味も分からぬままにただ富を誇示するためだけに菓子を注文するその浅ましさに嫌気がさし、全ての依頼を断り、王都の裏路地に小さな工房を構え、今は引退同然の気ままな生活を送っているという。
その性格は、極めて頑固で、気難しいことで有名だった。金や権力には、一切なびかない。ただ、彼が認めた「本物の食材」と「本物の情熱」にしか、心を動かさない男。
(……この男しか、おらん)
ゲオルグは、確信した。
翌日の午後、ゲオルグは、たった一人で、その伝説のパティシエの工房を訪れていた。
王都の喧騒が嘘のような、静かな裏路地。古びた、しかし手入れの行き届いた小さな工房の扉を叩くと、中から不機嫌そうな、しゃがれた声が聞こえてきた。
「……誰だ。うちは、もう店を閉めておる。帰った、帰った」
「ラングローブ商会のゲオルグと申します。マイスター・レオポルトに、ぜひお目にかかりたく」
「ラングローブ……? ああ、あの強欲商会の主か。貴様のような俗物に、食わせる菓子はない。とっとと失せろ」
扉は、開かれようともしない。
だが、ゲオルグは諦めなかった。
「マイスター。私は、貴方に菓子を作ってもらいにきたのではございません。貴方の、その魂を、再び燃え上がらせるための『神の素材』を、お持ちしたのです」
ゲオルグは、懐から小さな、しかし厳重に封をされた革袋を取り出した。
そして、その袋の口を、ほんの少しだけ開け、扉の隙間に差し入れた。
中から、純白の角砂糖が、一つ、工房の石の床にころりと転がり落ちる。
「……なんだ、これは」
中から、いぶかしげな声が聞こえる。
「ただの、石ではない。味見を。もし、貴方が本物の職人であるならば、その価値が、お分かりになるはず」
しばしの沈黙。
やがて、工房の中から、ごくりと喉を鳴らす音と、そして、何かが砕ける、小さな音が聞こえてきた。
そして、次の瞬間。
ガタンッ! と、椅子が倒れるような、大きな物音が響き渡った。
「な……な……! なんだ、これは……!? この、この甘さは……!?」
聞こえてきたのは、先ほどの不機嫌な声とは似ても似つかぬ、驚愕と、歓喜と、そして菓子職人としての六十年近い人生の全てを揺さぶられた男の、震える声だった。
扉が、凄まじい勢いで、内側から開け放たれる。
そこに立っていたのは、小麦粉で真っ白になったエプロンをつけた、小柄で、しかしその目だけが猛禽のように鋭い、一人の老人だった。
マイスター・レオポルト。
彼は、ゲオルグの胸ぐらを、その年齢からは想像もできないほどの力で掴み上げた。
「おい、商人! 正直に言え! これは、一体どこで手に入れた!? これは、神の涙か!? 天使の汗か!? 人間の世に、存在していい甘さでは断じてないぞ!」
その、狂気さえ孕んだ情熱を前にして、ゲオルグは、静かに微笑んだ。
「マイスター。私は、この神の素材を使い、王都の、いえ、この国の全ての民を、幸福にする焼き菓子を作っていただきたい。これは、国王陛下からの、勅命でもあります」
その言葉に、レオポルトは、はっと我に返った。
彼は、ゆっくりとゲオルグから手を離すと、自分の掌に残った、砂糖の白い粉を、まるで聖遺物でも見るかのように見つめた。
そして、その目に、涙を浮かべた。
「……そうか……。わしは、この日のために、生かされておったのか……。この、神の素材に、わしの生涯最後の仕事を捧げるために……」
彼は、ゲオルグに向き直ると、深々と、本当に深く、頭を下げた。
「……分かった。商人よ。その話、このマイスター・レオポルト、生涯の全てを賭けて、引き受けさせてもらう」
こうして、ラングローブ商会の私邸の、最も奥深くにある厨房で、王国の未来を左右する、極秘のプロジェクトが始まった。
頑固で気難しい伝説のパティシエと、彼が厳選した数人の弟子たち。彼らのために、ラングローブ商会は、国中から最高の小麦粉、最高のバター、最高の卵を、採算度外視でかき集めた。
厨房は、連日連夜、甘く、香ばしい香りに包まれた。
レオポルトは、まるで神に祈りを捧げるかのように、慎重に、そして大胆に、奇跡の調味料の配合を試していく。
砂糖の甘さを最大限に引き出すための、塩の僅かな使い方。バターと小麦の香りを最高潮に高めるための、完璧な焼き加減。
試行錯誤の末、ついに、一枚の、完璧な焼き菓子が完成した。
それは、何の変哲もない、円形のクッキーだった。
だが、その表面は美しい黄金色に輝き、エッジはナイフで切り出したかのようにシャープで、そして、その一枚が放つ、甘く、芳醇で、そしてどこまでも幸福な香りは、厨房にいた全ての人間を、無言のままにひざまずかせるほどの、魔力を持っていた。
伝説のパティシエが、神の素材と出会って生み出した、究極の芸術品。
名を、『王の慈悲の焼き菓子』。
全ての準備は、整った。
発売、いや、「頒布」の当日。
その日は、国王アルトリウス三世の生誕を祝う、祝祭の日と定められた。
ラングローブ商会の壮麗な本店の前には、この日のために特別に設えられた、巨大な屋台が姿を現していた。屋台には、王家の紋章とラングローブ商会の紋章が染め抜かれた、紫紺の幕が張られている。
そして、その中央には、大きな看板が、誇らしげに掲げられていた。
『国王陛下生誕記念! 王家より、愛する全ての民へ贈る、慈悲の施し! 奇跡の焼き菓子『ロイヤル・グレイス』、本日、特別に頒布いたします!』
その下には、小さな文字で、『価格:銅貨十枚。ただし、陛下の御心により、お一人様、一枚限り』と書き記されていた。
銅貨十枚。
それは、一般市民の日当の、およそ半分。決して、気軽に買える値段ではない。だが、一生に一度の贅沢として、あるいは家族への最高の贈り物として、頑張れば、手が届かない額ではなかった。
そして、「お一人様一枚限り」という魔法の言葉。
その噂は、瞬く間に王都中を駆け巡った。
人々は、半信半疑だった。あの、貴族様たちでさえ、手に入れるのが困難だという、伝説の味。それを、自分たちが本当に口にすることができるのか?
だが、好奇心と、そして王家への信頼が、彼らの足をラングローブ商会へと向かわせた。
頒布が始まるのは、正午。
だが、夜明け前の、まだ薄暗い時間から、商会の前には、一人、また一人と、人々が集まり始めていた。
やがて、その列は、数人から数十人へ、数十人から数百人へと膨れ上がり、正午を迎える頃には、本店前の広場を完全に埋め尽くし、王都のメインストリートの遥か先まで続く、前代未聞の長蛇の列となっていた。
その光景は、もはや一つの社会現象だった。
ラングローブ商会は、あらかじめ動員していた衛兵たちと協力し、必死でその行列の整理にあたった。
そして、正午。
王宮の時計塔が、高らかに鐘を鳴らす。
その鐘の音を合図に、屋台の窓口が開けられた。
熱狂と、期待の渦の中、最初の客が、震える手で銅貨十枚を差し出し、一枚のクッキーを受け取る。
クッキーは、王家の紋章が刻印された、小さな紙袋に、一枚一枚、丁寧に入れられていた。
男は、その紙袋を、まるで宝物でも受け取るかのように、両手で恭しく受け取った。
そして、周囲の人々が見守る中、おそるおそる、その黄金色の奇跡を、一口、かじった。
次の瞬間。
男の時間が、止まった。
彼の、労働で荒れた顔に、今まで誰も見たことのないような、純粋な、子供のような驚愕の表情が浮かび上がる。
サクッ、という軽やかな食感。
次の瞬間、口の中いっぱいに広がる、濃厚なバターの風味と、小麦の香ばしさ。
そして、それらを追いかけるように、脳天を突き抜ける、暴力的なまでの、甘さ。
「……う……」
男の口から、うめき声が漏れた。
「……うめえ……」
彼は、呟いた。
「……なんだ、こりゃあ……。うますぎる……! こんな、こんな美味いもんが、この世にあったのか……!」
彼は、その場にへたり込みそうになるのをこらえながら、残りのクッキーを、夢中で、しかしどこか名残惜しそうに、ゆっくりと味わった。
その目には、いつの間にか、涙が浮かんでいた。
それは、単なる菓子の味ではなかった。
日々の厳しい労働の疲れが、全て吹き飛んでいくような、幸福そのものの味がした。
その光景を皮切りに、王都のあちこちで、同じような奇跡が、連鎖していった。
貧しい身なりの母親が、けなげに列に並び、ようやく手に入れた一枚のクッキーを、目を輝かせる幼い息子に与える。息子は、生まれて初めて経験するその甘さに、目を丸くし、そして「お母ちゃん、おいしいね!」と笑った。その笑顔を見て、母親は静かに涙を流した。
屈強な肉体労働者の男たちが、仕事仲間と金を出し合い、手に入れた数枚のクッキーを分け合って食べる。「こいつは、すげえや! 疲れが、全部吹っ飛んじまうぜ!」と、彼らは子供のようにはしゃいだ。
若い恋人たちが、寄り添いながら、一枚のクッキーを半分に割り、互いに食べさせ合う。その幸福な味は、二人の愛を、さらに甘く、確かなものにしただろう。
クッキーは、もはや単なる菓子ではなかった。
それは、王の慈悲の象徴であり、人々の、ささやかで、しかし懸命に生きる日常に舞い降りた、甘い、甘い「奇跡」だった。
その日一日、王都は、クッキーの甘く香ばしい香りと、人々の幸福なため息と、そして感動の涙に包まれた。
ゲオルグ・ラングローブは、商会の最上階にある自室の窓から、その歴史的な光景を、静かに見下ろしていた。
眼下には、地平線の先まで続くかのような、人々の行列。
その一人一人の顔に浮かぶ、純粋な喜び。
彼の胸に、商人として、これ以上ないほどの達成感が、熱い塊となって込み上げてきた。
彼は、賢王アルトリウス三世が自分に課した、あの難解な宿題に、満点以上の回答を出すことができたのだ。
この一枚のクッキーが、やがてグランベル王国の菓子文化を、そして民衆の生活そのものを、根底から変えていくことになるだろう。
新たな伝説が、甘く、幸福な香りとともに、今、まさに始まった。
そして、その全ての始まりが、遠い異世界の、ただ怠惰に暮らしたいと願う一人の男の、気まぐれな取引にあったことを、まだ誰も知る由もなかった。
ゲオルグは、窓辺に置かれていた、試作品のクッキーを一枚、手に取った。
そして、それを一口かじり、その完璧な甘さに、満足げに目を閉じた。
商人としての、生涯最高の仕事だった。
そう、彼は心の底から思った。




