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異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語  作者: パラレル・ゲーマー


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第18話 【グランベル王国編】 奇跡の味と外交の切り札

 ゲオルグ・ラングローブは、この日、生まれて初めて本当の意味での「畏怖」という感情を知った。

 旅の魔法使い、ハジメ・ニッタ。その男が何もない空間から取り出した、ほんの僅かな調味料。それは、ゲオルグが五十五年の生涯をかけて築き上げてきたラングローブ商会の全てを、いや、このグランベル王国、ひいては大陸全土の富を束ねてもなお、釣り合うかどうか分からないほどの、計り知れない価値を秘めた奇跡の物質だった。

 商会に戻った彼は、すぐさま最高幹部と、最も信頼の置ける金庫番、そして商会お抱えの料理長を極秘裏に自室へと召集した。そして、机の上に並べられたピンク色の岩塩、宝石のような角砂糖、そして強烈な芳香を放つ黒と白の粒を前に、あの魔法使いとの邂逅の一部始終を語って聞かせた。

 最初は誰もが、高名な会頭がとうとう気の迷いでも起こしたのかと、訝しげな表情を浮かべていた。だが、実際にそれらの物質を舐め、その香りを嗅いだ瞬間、彼らの表情は驚愕から畏怖へ、そして最後には抑えきれない興奮へと変わっていった。

「会頭……これは……これは、一体……」

 白髪の老料理長は、胡椒の粒を指先で僅かに砕き、その香りを吸い込んだだけで、感動に打ち震え、言葉を失っていた。

「神話の時代の産物か、あるいは錬金術師の秘薬か……。いずれにせよ、これは我々人間が手にしていい代物ではございませんぞ!」

「だからこそだ」

 ゲオルグは、机をドンと叩いた。その目は、商人のそれではなく、歴史に名を刻まんとする野心家の炎に爛々と燃えていた。

「これは、我らラングローブ商会が、神々に与えられた試練であり、そして千載一遇の好機なのだ! 全商会の総力を挙げよ! 我々はこの奇跡を携え、王宮へと参内する! これは、もはや単なる商いではない。この国の、いや、この大陸の歴史を我らが塗り替えるのだ!」


 その日を境に、ラングローブ商会は静かな、しかし熱狂的な戦争状態に突入した。

 ゲオルグの号令一下、商会の全ての機能が、きたるべき王宮への献上のためだけに動き始めた。

 まず、最高の料理人たちが、王都中から極秘裏に集められた。彼らはラングローブの私邸の厨房に軟禁状態にされ、渡されたほんの僅かな調味料のサンプルを前に、来る日も来る日も試作を繰り返した。厨房からは連日、今まで誰も嗅いだことのないような、むせ返るほどの芳香が立ち上り、その度に料理人たちの驚嘆と歓喜の声が響き渡った。

 メニューは、慎重に、そして大胆に練り上げられた。奇をてらった料理は不要。むしろ、誰もが知るシンプルな料理こそが、この奇跡の調味料の真価を最も雄弁に物語るだろう。最高の素材を、最高の技術で、最高の調味料を使って調理する。ただ、それだけでよかった。

 同時に、ゲオルグは自身の持つ全てのコネクションを使い、王宮への謁見の準備を整えた。宮内卿に莫大な額の金塊を掴ませ、宰相には希少な南方の宝石を贈り、王の側近たちには根回しを重ねた。そして、「我が国の食文化の未来を、根底から覆す世紀の発見」という、限りなく大袈裟で、しかし嘘ではない口上を餌に、ついに国王アルトリウス三世陛下への単独謁見の許しを取り付けたのである。


 約束の日、ラングローブ商会の本店前から王宮へと向かう行列は、まるでどこかの小国の王の行幸のように、荘厳で物々しいものだった。

 先頭を行くのは、ラングローブ商会の紋章である世界樹と天秤の旗を掲げた旗手。その後ろを、ゲオルグ・ラングローブ本人が、この日のために誂えさせた最高級の紫紺の礼服に身を包み、白馬に跨って進む。彼の顔には、いつもの人の良い笑みはなく、自らの手で歴史の扉をこじ開けんとする男の、厳粛な決意が漲っていた。

 彼の後ろには、銀の盆に純白の絹の布をかけられた謎の献上品を捧げ持つ使用人たち、そして、この歴史的瞬間を記録するための書記官、さらにその全てを守るように、商会が雇う屈強な傭兵たちが、抜身の剣を手に周囲を固めている。

 道行く王都の民は、街一番の商人のそのあまりにも大仰な行列を、何事かと遠巻きに眺めていた。彼らはまだ知らない。自分たちの食卓が、そしてこの国の運命が、今まさに変わろうとしていることを。


 王宮の巨大な城門をくぐり、磨き上げられた大理石の廊下を進む。

 やがて一行が通されたのは、玉座の間ではなく、よりプライベートな謁見や会食に用いられる「翠玉の間」だった。天井には巨大なシャンデリアが輝き、壁には歴代の王たちの肖像画が飾られている。部屋の奥、一段高くなった場所に設えられた豪奢な椅子に、このグランベル王国を治める若き賢王、アルトリウス三世その人が、静かに腰を下ろしていた。

 年はまだ三十代前半。しかし、その佇まいには、既に幾多の修羅場を乗り越えてきた王者の風格が漂っている。鋭い知性を感じさせる涼やかな目元と、民を思う優しさを湛えた口元。彼こそが、荒廃していたこの国を立て直し、街道を整備し、民に安寧をもたらした名君だった。

「面を上げよ、ゲオルグ・ラングローブ」

 穏やかだが、有無を言わさぬ威厳を秘めた声が、部屋に響いた。

 ゲオルグは、床に額がつくほど深くひざまずいていた姿勢から、ゆっくりと顔を上げた。

「はっ。この度、ゲオルグ・ラングローブ、国王陛下に単独での謁見という、望外の栄誉を賜り、身に余る光栄に存じます」

「うむ。そなたが、これほどまでに事を大仰にし、朕にまみえることを望んだからには、よほどのことなのであろうな。街一番の商人が、その看板を賭けて朕に見せたいものとは、一体何なのだ? 聞かせてもらおう」

 王の言葉は、単刀直入だった。

 ゲオルグは、ごくりと喉を鳴らすと、あらかじめ用意してきた口上を、ゆっくりと、しかし確信に満ちた声で述べ始めた。

「はっ。本日、私が陛下にお持ちいたしましたのは、物ではございません。それは、我が国の食文化、いえ、我がグランベル王国の歴史そのものを、新たな時代へと導く……『奇跡』でございます」


 そのあまりにも大袈裟な言葉に、王の傍らに控えていた宰相や近衛騎士団長が、わずかに眉をひそめた。

 だが、アルトリウス王は表情を変えなかった。彼はただ、射るような視線でゲオルグを黙って見つめている。その視線は、お前の言う『奇跡』とやらが、もし朕の時間を無駄にするような代物であった場合は、どうなるか分かっておるな、と無言で語っていた。

 ゲオルグは、そのプレッシャーを背中で感じながらも、続けた。

「陛下。百の言葉を尽くすよりも、まずはご体験いただくのが一番かと存じます。つきましては、王宮の厨房を一時お借りし、我が商会の料理人に、ささやかながら食事の用意をさせていただく許可を、伏してお願い申し上げます」

「……よかろう」

 アルトリウス王は、しばしの沈黙の後、短く答えた。

「そなたの自信、見届けてやろう。だが、もしこれが茶番であったならば、ラングローブ商会の看板は、今日限りで王都から消えるものと心せよ」

「ははっ! ありがたき幸せにございます!」

 ゲオルグは、再び深々と頭を下げた。その背中には、冷たい汗が滝のように流れていた。だが、彼の心は、これから始まる饗宴への期待で、猛々しく燃え上がっていた。


 王宮の厨房は、さながら戦場と化していた。

 王宮の料理を司る料理長と、その部下たちは、自分たちの聖域に見知らぬ街の料理人たちがずかずかと入り込んできたことに、あからさまな敵意とプライドを剥き出しにしていた。

「ふん、ラングローブの旦那も人が悪い。我々を差し置いて、街のコック風情に陛下の食事を作らせるとは、どういうおつもりだ」

「して、その『奇跡の食材』とやらは、一体どこにあるのだね?」

 彼らの刺々しい視線が、ゲオルグが連れてきた料理人たちに突き刺さる。

 だが、ラングローブの料理長は、そんな彼らの挑発を柳に受け流すと、恭しく銀の盆を差し出した。盆の上には、絹の布に包まれた、例の調味料が置かれている。

「皆様、まずは、この香りを一つ」

 彼が、胡椒の入った小瓶の蓋を開けた、その瞬間。

 厨房の空気が、一変した。

 鼻腔を突き抜ける、強烈で、複雑で、そして抗いがたいほどに食欲をそそる芳香。それは、王宮の料理長たちが、その長い料理人人生で一度として経験したことのない、衝撃的な香りだった。

「な……なんだ、この香りは……!?」

「信じられん……! これほどの香りを放つ植物が、この世に存在したとは……!」

 彼らのプライドは、その圧倒的な香りの前に、一瞬にして粉々に打ち砕かれた。彼らは、子供のように目を輝かせ、我先にとその小瓶に鼻を近づけた。

 やがて、最初の料理が完成し、翠玉の間へと運ばれていく。

 それは、驚くほどにシンプルな一皿だった。

 朝採れの瑞々しいアスパラガスを、ただ軽く茹でただけのもの。

 だが、その上に振りかけられているのは、雪のように白く、そしてキラキラと輝く、見たこともない結晶だった。

「陛下。まずは、こちらを」

 ゲオルグが促す。

 アルトリウス王は、いぶかしげな表情でその一皿を見つめていたが、やがて銀のフォークを手に取った。そして、アスパラガスを一本、口に運ぶ。

 次の瞬間。

 王の動きが、ぴたりと止まった。

 彼の、常に冷静沈着なその瞳が、驚愕に見開かれている。

「……これは……」

 王の口から、かすれた声が漏れた。

「……塩か……? だが……なんという、純粋な塩味だ。一切の雑味がない……。それどころか、この野菜が本来持つ甘みを、これほどまでに力強く引き立てるとは……!」

 彼は、にわかには信じられないといった様子で、もう一本、アスパラガスを口に運んだ。

 間違いない。

 これまで彼が口にしてきた、岩塩を砕いただけの粗末な塩とは、全く次元が違う。洗練され、極限まで磨き上げられた、塩味の「完成形」。それが、彼の舌の上で、素材の味と完璧なハーモニーを奏でていた。

「素晴らしい……」

 王は、思わず呟いた。

 その反応に、ゲオルグは内心で快哉を叫んだ。計画通りだ。


 次に運ばれてきたのは、肉料理だった。

 狩猟されたばかりの、新鮮な鹿のロース肉を、厚切りにして鉄板で焼き上げただけの、豪快なステーキ。

 だが、その一皿が放つ香りは、翠玉の間を満たしていた花の香りさえも圧倒するほどに、野性的で、そして官能的だった。

 黒い粒を砕いたものが、肉の上に惜しげもなく振りかけられている。

 アルトリウス王は、ナイフでその肉を切り分けると、一口、口に入れた。

 そして、今度こそ、彼は完全に言葉を失った。

「…………なんと」

 王の口から、感嘆のため息が漏れる。

「なんと、美味い料理なのだ……!」

 衝撃だった。

 肉の旨味が、口の中で爆発する。噛みしめるたびに溢れ出す肉汁と、鼻腔を突き抜ける刺激的な香りが一体となり、彼の味覚中枢をこれでもかと揺さぶってくる。ただ焼いただけの肉が、これほどまでに奥深く、複雑で、そして人を幸福にする味わいを持つとは。

 彼は、生まれて初めて知った。

「ゲオルグよ」

 王は、興奮を隠しきれない様子で、商人を見据えた。

「この、黒い粒は……一体何なのだ」

「はっ。これは、『胡椒』と呼ばれる香辛料にございます」

 ゲオルグは、待ってましたとばかりに答えた。

「遥か東方の、ニホンと呼ばれる国から来たという、一人の不思議な力を持つ商人より、独占的に取引させていただく運びとなりました。彼は、今後もこの『胡椒』、そして先ほどの『塩』を、我が商会にのみ、安定して卸してくださると約束しております」

 彼は、主人公の存在をあえて「不思議な力を持つ商人」と表現することで、その価値と神秘性をさらに高めることを忘れなかった。

「ほう……ニホンの商人か」

 王は、深く頷いた。彼の頭脳は、既にこの料理の味の先にある、計り知れない価値を瞬時に計算し尽くしていた。

「して、ゲオルグよ。この奇跡の調味料、そなたはいくらで朕に売るつもりだ?」

 その問いに、ゲオルグは恭しく首を振った。

「いえ、陛下。滅相もございません。まずは、この奇跡の味を、陛下に心ゆくまでご堪能いただきたく存じます。つきましては、本日より十日分、これらの調味料を、我がラングローブ商会より、王家へ無償にて献上させていただきたく存じます」

「……無償で、だと?」

 王の目に、鋭い光が宿る。

「ああ。さすがは街一番の商人よな。気前が良いことだ。だが、その心は、この味を朕に覚えさせ、もはやこれなしでは生きられぬ体にしてから、言い値をふっかけるつもりであろう?」

 その、あまりにも的を射た指摘に、ゲオル様は内心で冷や汗をかいたが、表情には一切出さなかった。

「滅相もございません。ただ、この奇跡の価値を、陛下ご自身にこそ、正しくご判断いただきたい。ただ、それだけでございます」

 その言葉は、謙虚に聞こえ、しかし実際には「この価値が分からないような王ではありますまいな?」という、大胆不敵な問いかけでもあった。


 アルトリウス王は、ふっと笑みを漏らした。

「面白い。面白いぞ、ゲオルグ。そなたのその胆力、気に入った」

 王は、もう一切れ、鹿肉を口に運んだ。そして、その芳醇な味わいを楽しみながら、遠い目をして呟いた。

「……確かに、これは奇跡やもしれぬな。この料理は……外交の切り札になるぞ」

 彼の思考は、既に国内を飛び越え、大陸全土のパワーバランスへと及んでいた。

 隣国の、傲慢な皇帝。南の、狡猾な女王。彼らを国賓として招いた晩餐会で、この料理を振る舞ったとしたら?

 彼らは、その味に驚愕し、羨望し、そしてこの料理を生み出すグランベル王国に、畏敬の念を抱くことだろう。あるいは、この調味料そのものを、友好の証として、あるいは脅迫の材料として、外交のテーブルに乗せることもできる。

 たかが料理、されど料理。

 この一皿は、百の軍隊にも勝る、強力な武器となり得る。

 アルトリウス王は、目の前の商人がもたらしたものの本当の価値を、この国の誰よりも早く、そして正確に理解していた。


 メインディッシュの皿が下げられ、しばしの静寂が流れる。

 その静寂を破るように、部屋の扉が再び静かに開かれた。

「お兄様、失礼いたしますわ」

 可憐な声と共に、部屋に入ってきたのは、アルトリウス王の二人の妹姫だった。

 姉のセレスティーナ姫は、今年で十六歳。月光を思わせる銀色の髪を長く伸ばし、物静かで知的な雰囲気を漂わせる美少女だ。

 妹のリリアーナ姫は、まだ十二歳。太陽のような金色の髪をツインテールにし、好奇心旺盛な大きな瞳をキラキラと輝かせている、天真爛漫な少女だった。

 二人は、兄である王の食事が終わる頃合いを見計らって、挨拶に現れたのだ。

「おお、セレスにリリか。ちょうど良いところへ来た。今日は、世にも珍しい菓子が用意されておる。そなたたちも、共に味わうがよい」

 王の言葉に、特に妹のリリアーナ姫が「本当ですの、お兄様!?」と歓声を上げた。


 やがて、メイドたちが銀のワゴンを押して、デザートを運んできた。

 そのワゴンに乗せられたものが姿を現した瞬間、姫たちは、そしてアルトリウス王でさえも、息を飲んだ。

 それは、芸術品だった。

 三段に重ねられた円形のスポンジケーキ。その表面は、雪のように真っ白で、絹のように滑らかなクリームで完璧に覆われている。そして、その上には、朝露に濡れたばかりのような、真っ赤な苺や、艶やかな紫色の葡萄、太陽の光を閉じ込めたかのようなオレンジが、宝石のように飾られていた。

 この世界において、これほどまでに「白い」食べ物は、存在しなかった。そして、これほどまでに甘美な香りを放つ菓子も、誰も知らなかった。

「まあ……なんて、綺麗なお菓子……」

 姉のセレスティーナ姫が、うっとりとため息をつく。

「まるで、おとぎ話に出てくる雲の上のお城みたいですわ!」

 妹のリリアーナ姫は、もう待ちきれないといった様子で、目を輝かせている。

 メイドが、そのケーキを丁寧に切り分け、一人一人の皿の上へとサーブする。

 姫たちは、銀のフォークを手に取ると、恐る恐る、その真っ白な奇跡の一片を、口へと運んだ。


 次の瞬間。

 二人の姫の瞳が、これ以上ないほどに大きく見開かれた。

「…………!」

 声にならない、驚愕。

 そして、その驚愕は、すぐに至福の表情へと変わっていく。

 口の中いっぱいに広がる、暴力的なまでの甘さ。

 これまで彼女たちが知っていた、蜂蜜や果物の、どこか素朴で複雑な甘さとは全く違う。

 一切の雑味がない、純粋で、洗練され、そして脳髄を直接揺さぶるかのような、ひたすらに幸福な甘さの奔流。

 ふわふわとしたスポンジの食感と、滑らかなクリームの舌触りが、その甘さをさらに引き立てていく。

「おお……」

 リリアーナ姫の口から、感嘆の声が漏れた。

「おおおっ……! なんという、なんという甘さですの……!?」

 彼女は、信じられないといった様子で、自分の舌の上で起こっている奇跡を確かめるように、もう一口、ケーキを頬張った。

 そして、その大きな瞳から、ぽろり、と一筋の涙がこぼれ落ちた。

「……なんという芳醇な甘さ……。まるで、天にも登るような美味しさですわ……!」

 姉のセレスティーナ姫もまた、普段の物静かな態度はどこへやら、頬を上気させ、うっとりとした表情で、静かに涙を流していた。

「ええ、リリ……。こんな、こんな幸福な味が、この世に存在したなんて……。わたくし、今まで生きてきて、本当によかった……」

 二人の姫は、生まれて初めて経験する「砂糖」という名の至上の甘露に、完全に魂を奪われてしまっていた。


 そのあまりの感動の大きさは、やがて強烈な独占欲へと変わっていった。

「お兄様っ!」

 リリアーナ姫が、ケーキでクリームだらけになった口元もそのままに、兄である王に駆け寄った。

「お願いですわ! このお菓子、いいえ、このお菓子を作るための、この甘い粉! ラングローブ商会が持っているというのなら、その全てを、わたくしたちのために買い取ってくださいませ! 国庫の金を、全て使っても惜しくありませんわ!」

「まあ、リリったら、はしたない」と姉のセレスティーナが窘めるが、その目もまた「お兄様、ぜひ」と真剣に訴えかけていた。


 その、あまりにも子供らしい、しかし切実な願いに、アルトリウス王は苦笑するしかなかった。

 彼自身も、この砂糖の持つ魔力的な美味しさには、驚きを禁じ得なかったのだから。

 だが、彼が何かを言う前に、ゲオルグ・ラングローブが、静かに、しかしきっぱりとした口調で割って入った。

「姫様方。それは、どうかご勘弁くださいませ」

 その言葉に、姫たちはむっとした表情で商人を見た。

 ゲオルグは、深々と頭を下げると、ゆっくりと忠言を述べ始めた。

「この『砂糖』が持つ甘美な魅力は、まさしく悪魔的でございます。もし、この奇跡を王家だけで独占したと、他の貴族たちの耳に入れば、どうなることでしょう。彼らは、王家だけが至福を味わっていると、羨望し、嫉妬し、やがては不満を募らせることになりましょう。それは、必ずや国の安寧を損ない、いずれは大きな火種となりかねません」

 ゲオルグの言葉は、冷静で、的確だった。

「まずは、この砂糖の存在を、ごく一部の、信頼のおける有力な貴族たちにだけ、ほんの少しずつ分け与えるのです。そうすれば、彼らは王家への計り知れない恩義と、さらなる甘露を求める忠誠心を、その身に刻み込むことでしょう。この奇跡は、諸刃の剣。使い方を誤れば国を滅ぼしますが、正しく使えば、これほど強力な求心力となるものはございません」


 その、あまりにも老獪で、政治的な進言に、アルトリウス王は深く頷いた。

「……うむ。ゲオルグの言う通りだ。そなたの言うこと、もっともだ」

 王は、妹たちに向き直った。

「セレス、リリ。聞こえたな。ラングローブの言うことには、一理ある。我々王族だけが、この幸福を独占するのは、民の平穏を考える上では、決して許されることではないのだ」

「しかし、お兄様……!」

 食い下がるリリアーナ姫に、王は優しく、しかしきっぱりと言った。

「王の命令だ。ダメだ」

 その一言に、リリアーナ姫は、しょんぼりと肩を落とした。

「……分かりましたわ、お兄様」

 その、今にも泣き出しそうな妹の姿に、アルトリウス王は少しだけ表情を和らげた。

「なに、心配するな。ゲオルグは、十日分の調味料は献上すると申しておる。つまり、あと九日間は、この菓子が食べられるということだ。それで、今は我慢しなさい」

 その言葉に、しょんぼりしていたリリアーナの顔が、ぱっと輝いた。

「本当ですの!? あと九回も、このお菓子が食べられるのですわね!」

 彼女は、姉のセレスティーナと顔を見合わせ、二人で嬉しそうに微笑み合った。その単純で愛らしい姿に、部屋中の大人たちから、思わず安堵の笑みが漏れた。


 こうして、歴史に残る饗宴は、幕を閉じた。

 ゲオルグ・ラングローブが王宮を辞する際、アルトリウス王は、彼を一人だけ呼び止め、静かに、しかし重い言葉をかけた。

「ゲオルグよ。そなたがもたらした『奇跡』、その価値は、朕が誰よりも理解した。よって、この取引、ラングローブ商会に一任する。望むだけの富を、そなたは手にするがよい」

「ははっ! ありがたき幸せ!」

「だが」と、王は続けた。その目は、もはや商人にではなく、共に国を背負う臣下に向ける、鋭い光を宿していた。

「決して、国の安寧を損なうことのないよう、細心の注意を払え。これは、もはや単なる商いではない。治世の一部であると、心得よ。もし、そなたの強欲が民を苦しめ、国を乱すようなことがあれば……その時は、分かるな?」

「……御意」

 ゲオルグは、平伏した。王の言葉の本当の重みを、彼の魂は確かに理解していた。

 これは、莫大な富と、そして国家の運命そのものを、天秤にかける取引なのだと。


 王宮からの帰り道、夕日に染まる王都を眺めながら、ゲオルグ・ラングローブは、興奮と、そしてそれ以上の重圧に、身を震わせていた。

 計画は、完璧に進んだ。

 王の信頼を勝ち取り、ラングローブ商会は、この国の歴史上、前例のないほどの力と富を手にすることになるだろう。

 だが、その力の源泉は、自分たちの中にはない。

 全ては、あの東方の国から来たという、謎の魔法使い、ハジメ・ニッタの、気まぐれ一つにかかっているのだ。

 あの男が道端の石ころと呼んだものが、今、この国の運命を、根底から揺るがし始めている。

 ゲオルグは、あの男の、全てを見透かすような穏やかな笑みを思い出し、改めてその底知れなさに、畏怖を覚えずにはいられなかった。

 王宮で始まった食文化の革命は、やがて貴族社会を、そして民衆を、さらには大陸全土を巻き込む、巨大な渦となっていく。

 その渦の中心で、自分は上手く立ち回ることができるのか。

 ゲオルグ・ラングローブの、生涯で最も困難で、そして最も刺激的な大商いが、今、静かに幕を開けたのだった。

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― 新着の感想 ―
うーまーいーぞー!`□´*) 美味ですわーー!§^ワ^*§ 初めて食べる物凄く美味しいものって、口からレーザー光線が出る(比喩表現)ようなインパクトがありますよね。 私は、1粒700円のチョコレート…
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