第15話 【日本政府編】 神への供物と番犬の契約
あの熱狂的で、どこか夢のような交易世界での成功から数週間が経過した。
新田 創は、実家での穏やかな日常を満喫していた。母親の作る温かい食事、父親との無言だが心地よい時間、そして、高校時代から時間が止まったかのような自室のベッド。それは、彼が会社を辞めてまで手に入れたかった、何物にも代えがたい「普通」の幸せだった。
だが、彼の壮大すぎるスローライフ計画は、まだ始まったばかり。日本政府という、巨大で、そして最高のビジネスパートナーとの約束を、いつまでも放置しておくわけにはいかなかった。
その日、東京千代田区永田町の地下深くに広がる、内閣情報調査室の一角、プロジェクト・プロメテウスの作戦司令室は、張り詰めた静寂に支配されていた。
最高責任者である橘 紗英は、巨大なモニターに映し出された世界各国の衛星画像の動きを、感情の窺えない瞳で静かに見つめていた。
前回の接触から、三週間。
「賢者」――チーム内でそう呼ばれる超越的存在――からの連絡は、ぷっつりと途絶えていた。
その沈黙は、橘と彼女のチームに、希望よりも遥かに大きな不安と焦燥をもたらしていた。
彼らは、神の気まぐれに翻弄される、哀れな信徒のようなものだった。次なる託宣がいつ降されるのか、ただひたすらに待ち続けることしかできない。
だが、彼らはただ待っていただけではない。
この三週間、日本の中枢は文字通り、蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。その全ては、賢者が突きつけてきた三つの要求を満たすために。
橘は、目の前の端末に表示された進捗報告書に、静かに目を通す。
第一要求:通貨(現金20億円及び暗号通貨10億円相当)の準備
これは、最も現実的で、しかし最も調整が困難な要求だった。財務省、日本銀行、そして国内のメガバンクのトップたちが極秘裏に官邸に召集された。橘が「理由は聞かずに、追跡不可能な旧札で現金20億円を、三日以内に用意してください」と淡々と告げた時の、彼らの引きつった顔を、橘は昨日のことのように思い出せる。国家の根幹を揺るがしかねない、前代未聞の金の動き。いくつもの法律を無視し、いくつもの嘘の報告書が作成され、現場の官僚たちの胃には、いくつもの穴が開いたことだろう。
暗号通貨の準備もまた、困難を極めた。匿名性の高い通貨を、足のつかないルートで10億円分も購入する。内調が持つ非合法活動の監視ネットワークを逆用し、サイバー犯罪対策の専門家たちが、まるで本物の犯罪組織のように、細心の注意を払って資金を洗浄し、準備を整えた。
その結果、ジュラルミンケース数百個に詰められた現金の山と、複雑な暗号キーが記された一本のUSBメモリが、今、官邸の地下金庫に厳重に保管されている。
第二要求:異世界で需要がありそうな物品の準備
これは、日本の各省庁と産業界の底力が試される要求だった。
農林水産省と大手総合商社が総力を挙げ、世界中から最高級のスパイス、塩、砂糖を空輸した。マダガスカル産のバニラビーンズ、イタリア産の白トリュフ塩、セイロン島産のシナモンスティック。まるで、大航海時代の王侯貴族への献上品のような品々が、検疫の特別ルートを通って集められた。
陶磁器に至っては、文化庁まで巻き込む騒ぎとなった。人間国宝に指定された陶芸家たちに、「国家の威信をかけた、最高傑作を」という、あまりにも漠然とした、しかし拒否権のない依頼が下された。何人かの老いた名工は、その依頼の真意を測りかね、ただならぬ気配に静かに筆を置いたという。
第三要求:異世界で価値がありそうな地球の物質の提供
これこそが、プロジェクト・プロメテウスの科学者チームを、最も熱狂させ、そして最も苦しませた要求だった。
チームリーダーである帝都大学の長谷川教授は、もはや科学者というよりも、新たな神話の誕生に立ち会った預言者のようだった。
「我々の知性を試しておられるのだ! 神は、我々人類が自らの住むこの星の価値を、どれだけ理解しているのかを! さあ、諸君! この地球という奇跡の星から、最高の宝物をえぐり出し、神への供物とするのだ!」
彼のその狂信的な檄のもと、日本の最高の頭脳たちが、文字通り寝食を忘れて議論と実験を繰り返した。
その結果、厳選された「地球のお宝」のサンプルリストが完成した。
中国の独占市場であるレアアース(高純度ジスプロシウム)。半導体の根幹をなす、イレブンナイン(99.999999999%)の純度を誇るシリコンインゴット。自然界には存在しない奇跡の繊維、炭素繊維。そして、人類の叡智の結晶である、様々な種類の高機能プラスチックのペレット。さらには、地球上で最も硬い物質である、工業用のダイヤモンド原石。そして最後に、長谷川が「これこそが究極の奇跡だ」と主張して譲らなかった、日本の南アルプスで採水された、不純物を極限まで取り除いた「超純水」。
それら一つ一つが、厳重なケースに収められ、献上の時を待っていた。
橘は、報告書から顔を上げた。
準備は、万端だ。
だが、彼はいつ現れるのか。あるいは、もう二度と現れないのではないか。
そんな不安が、作戦司令室の重い空気をさらに淀ませていた、その時だった。
ピコン、という乾いた電子音と共に、橘の端末に一通のメールが届いたことを示すアラートが点灯した。
発信元は、暗号化されているが、そのアドレスには見覚えがあった。
「賢者」だ。
作戦司令室に、緊張が走る。誰もが息を殺して、橘の次の言葉を待った。
橘は、震える指でメールを開いた。
そこに記されていたのは、あまりにも簡潔で、あまりにも一方的な、神の託宣だった。
『明日、昼過ぎ。同じ場所へ行く』
その一文が表示された瞬間、作戦司令室は再び戦場と化した。
鳴り響く電話、飛び交う指示。
橘は、その喧騒の中心で、静かに目を閉じた。
いよいよだ。
日本の、いや、世界の運命を決める、二度目の謁見が、始まる。
◇
翌日、昼過ぎ。
東京、西新宿にそびえ立つ政府系の超高層ビル、その最上階ヘリポートは、前回とは比較にならないほどの物々しい空気に包まれていた。
目に見える警備の数こそ前回と同じだが、その質と密度が全く違う。
周辺のビルの屋上には、人間の目には見えない赤外線センサーや、高精度の音響探知機、そして空間の微細な歪みを捉えるための重力干渉計までが、極秘裏に設置されていた。それら全てが、賢者が現れるその瞬間を、原子レベルで捉えようと待ち構えている。
もっとも、その最新鋭の監視網が、あの超越的存在に対してどれほどの意味を持つのか。
その場にいる誰もが、それがほとんど無意味な気休めであることを、心のどこかで理解していた。
ヘリポートの中央に描かれた白い円の前に、橘 紗英と長谷川健吾が、再び立っていた。
吹き抜ける強風が、橘の黒いパンツスーツの裾を激しく揺らす。彼女は、風に乱れる髪を一度だけ手で押さえると、あとは石像のように微動だにしなかった。
隣では、長谷川がそわそわと落ち着きなく、何度も空を見上げている。その顔は、緊張よりも、再会の喜びに打ち震える信者のそれに近かった。
約束の時刻が、一分、また一分と近づいてくる。
橘のイヤホンからは、各監視ポイントからの報告が、ひっきりなしに流れ込んでいた。
『……ポイントA、異常なし』
『……重力場、定常状態を維持。空間の歪み、観測されず』
『……高感度マイク、風の音以外、何も拾っていません』
全てのセンサーが、沈黙を守っている。
やはり、彼の出現は、我々の科学では観測不可能な現象なのか。
橘が、そう結論付けようとした、その時だった。
約束の時刻、きっかり。
それは、現れた。
全てのセンサーが沈黙したまま。
何の兆候も、前触れもなく。
まるで、最初からずっとそこにいたかのように、自然に。
白い円の、ど真ん中に。
ちょこんと座る、一匹の艶やかな黒猫が。
「うむ。待たせたのう」
その声は、前回と少しも変わらない、どこか古風で、それでいて空間そのものを支配するような、不思議な威厳に満ちていた。
長谷川が、「おお……! おお、賢者様!」と感極まったようにその場にひざまずく。
橘は、ひざまずきはしなかったが、深々と、そして完璧な角度で一礼した。
「賢者様。お待ちしておりました」
賢者・猫は、そんな彼らの出迎えに満足げに一つ頷くと、まず最初に、意外な要求を口にした。
「うむ。本題に入る前に、一つ、お主たちに鑑定してもらいたいものがある」
そう言うと、賢者は何もない空間から、まるで手品のように数枚のコインをテーブルの上に取り出した。
それは、この国のものとは明らかに違う意匠が施された、鈍い輝きを放つ金貨だった。
「これを、調べてくれ。この世界の基準で、どのような価値を持つものなのか。純度、成分、その他諸々、分かる限りのことをな」
長谷川が、待ってましたとばかりに駆け寄った。
彼の後ろから、白衣を着た部下たちが、最新鋭のポータブル分析装置を運び込んでくる。
「お任せください! ほんの数分で、この金属の全てを明らかにしてみせます!」
長谷川は、興奮で目を血走らせながら、金貨を装置にセットした。
モニターに、複雑なグラフと数値が瞬時に表示されていく。
「……む……! これは……! 純度は98.7%! 素晴らしい純度だ! しかし……不純物として、ごく微量だが、イリジウムと……地球上には存在しない、未知の同位体元素が含まれている……!? なんということだ……! この金貨は、この地球上で精製されたものではない……!」
長谷-川の絶叫に、周囲の科学者たちがどよめく。
賢者は、その報告に「ふむ、なるほどのう」とだけ短く呟いた。
「では、この世界の市場価値で換算して、一枚あたりいくらになるのか。後で、詳細な報告書を提出せよ」
そのあまりにもビジネスライクな口調に、橘は改めて、この賢者がただの超越者ではなく、明確な目的意識を持った「交渉相手」であることを再認識させられた。
「さて、では次だ」
賢者は、言った。
「ワシが前回要求した品々は、用意できておるのだろうな」
「はっ。全て、ご用意できております」
橘が、背後に控えていた部下に合図を送る。
すると、ヘリポートの巨大な搬入口がゆっくりと開き、そこから信じられない光景が展開され始めた。
まず、現れたのは、ジュラルミンケースを山積みにした台車を押す、黒服の男たちの行列だった。
その数、実に百個以上。
一つ一つのケースには、追跡不可能な旧札で、きっかり二千万円分の札束が詰め込まれている。合計、二十億円。日本の国家予算が、物理的な「塊」となって、ヘリポートの床を埋め尽くしていく。
次に、運び込まれてきたのは、巨大な輸送コンテナそのものだった。
コンテナの扉が開かれると、中からは世界中から集められた最高級の香辛料のむせ返るような香りと共に、厳重に梱包された陶磁器の木箱が、山のように姿を現した。人間国宝が、その魂を込めて焼き上げたであろう、一つの国が買えるほどの価値を持つ芸術品たち。
そして、最後に現れたのは、長谷川率いる科学者チームが、その叡智の限りを尽くして厳選した「地球のお宝」だった。
チタン製の厳重なケースに収められた、レアアースのインゴット。真空容器の中で、青白い光を放つ高純度シリコン。そして、黒いベルベットの上に鎮座する、工業用のダイヤモンド原石。
それら全てが、ヘリポートの半分を埋め尽くすほどの、圧倒的な物量となって、賢者の眼前に差し出された。
橘は、その物資の山の前に進み出ると、再び深々と頭を下げた。
「賢者様。ご要求の品、確かにご用意いたしました。……つきましては、これらを、どのようにお運びになりますか……? 我々で、ご指定の場所までお運びいたしますが……」
その問いかけは、当然のものだった。
これだけの物量を、一体どうやって運び出すというのか。
だが、賢者の答えは、彼らの矮小な常識を、再び粉々に打ち砕くものだった。
賢者・猫は、物資の山を一瞥すると、ただ一言、
「うむ」
と、頷いただけだった。
その瞬間。
ヘリポートを埋め尽くしていた、ジュラルミンケースの山も、巨大なコンテナも、科学の粋を集めた厳重なケースたちも。
その全てが。
音もなく。
光もなく。
風さえも起こさず。
まるで、最初からそこに何もなかったかのように、完璧に、一瞬にして、消え去っていた。
「………………は」
誰かが、間の抜けた声を漏らした。
その場にいた全員が、自分の目を疑っていた。
あまりにも静かで、あまりにも唐突な消失。
現実感が、全くない。
長谷川だけが、わなわなと震えながら、天を仰いでいた。
「く、空間転移……!? いや、違う! 亜空間収納か……!? なんという質量と体積を、一瞬で……! 物理法則が、エネルギー保存法則が……ああ、神よ! 我々の科学は、あまりにも、あまりにも無力だ……!」
彼は、その場に崩れ落ちるようにひざまずくと、恍惚とした表情で、ただただ賢者の姿を拝んでいた。
橘は、その光景を目の当たりにしながらも、かろうじて立っていた。
だが、その背筋には、氷のように冷たい汗が、滝のように流れていた。
底が知れない。
この存在の力の、底が全く見えない。
我々は、一体、どんな存在と契約を結んでしまったのか。
その計り知れない恐怖が、彼女の心を支配していた。
そんな人間たちの動揺を、まるで路傍の石でも見るかのように意に介さず。
賢者は、次の議題へと移った。
「さて。では、ワシがくれてやった土産物の、研究の進捗とやらを聞かせてもらおうか」
その声で、橘ははっと我に返った。
そうだ。報告。それが、今日の自分の最大の任務だ。
彼女は、懐から一枚のデータカードを取り出すと、用意されていた端末に差し込んだ。
そして、できるだけ冷静な声を装いながら、報告を始めた。その声には、しかし、彼女自身にも抑えきれない、微かな興奮の色が滲んでいた。
「はっ。ご報告いたします。賢者様より賜りましたサンプルの解析は、飛躍的な進展を見せております。特に、二つの物質において、我々人類の未来を根底から覆す可能性が示唆されました」
橘は、端末に表示された3Dモデルを、賢者の前に投影した。
「一つは、貴方様が『魔猪の牙』と呼称された物質より抽出した、未知の素粒子です。我々はこの粒子を、貴方様への敬意を込め、『賢者の粒子』と仮称しております。この粒子は、限定的な空間内において、重力定数を極めて高い精度で操作する特性が確認されました。すなわち……反重力です」
その言葉に、同席していた閣僚たちが息を飲む。
「この技術の応用範囲は、計り知れません。まず、エネルギー問題の根本的解決。重力制御による、無限のクリーンエネルギーの創出が可能です。次に、次世代の輸送システム。車も、船も、飛行機も不要になります。全ての物体が、無音で、安全に、空中を移動する時代が来るでしょう。そして、何よりも……宇宙開発技術に、革命をもたらします。もはや、巨大なロケットは必要ありません。我々は、この反重力技術によって、地球の重力の井戸から、容易く解き放たれるのです。その可能性は、まさに、無限大でございます」
橘は、一度言葉を切ると、次のデータを表示させた。
それは、複雑なDNAの螺旋構造だった。
「そして、二つ目。貴方様が『涙ダケ』と呼称されたキノコより分泌される液体。この液体に含まれる未知の酵素は、我々ヒトの染色体の末端に存在するテロメアの短縮を、完全に阻害、あるいは修復する効果が確認されました。これが、何を意味するか、お分かりでしょうか」
橘は、賢者の目をまっすぐに見つめた。
「これは、すなわち、老化という、生命が誕生して以来、誰も抗うことのできなかった絶対的な生命現象そのものを、覆す可能性を秘めているということです。人類は、貴方様のおかげで、ついに『老い』を克服し、永遠の若さを手にすることができるやもしれません」
そこまで一気に語ると、橘はふう、と一つ息を吐いた。
彼女の報告は、SF映画のあらすじのようだった。
だが、それは全て、科学的なデータに裏付けられた、紛れもない事実なのだ。
その事実が、彼女自身を、そしてその場にいる全ての人間を、興奮と畏怖の坩堝へと叩き込んでいた。
だが。
その、人類史を揺る報告を聞いた賢者の反応は、彼らの熱狂に冷や水を浴びせるかのように、あまりにも冷ややかで、他人事のようだった。
「へー、そりゃ凄いのう」
賢者・猫は、前足をぺろりと舐めながら、気のない相槌を打った。
「矮小なる者たちも、ワシの捨てたガラクタから、なかなか面白いことを考えるものよのう」
その、あまりにも超越的な態度。
自分たちが、国家の、いや、人類の未来を賭けて解析している奇跡の物質を、「捨てたガラクタ」と一蹴する、その圧倒的な価値観の乖離。
橘は、その一言で、自分たちとこの存在との間にある、決して埋めることのできない絶対的な格の違いを、改めて痛感させられた。
そして、賢者は、まるで今思い出したかのように、本題を切り出した。
「さて、娘よ。一つ、お主たちに、はっきりと釘を刺しておくことがある」
その声のトーンが、少しだけ変わった。
穏やかだが、逆らうことを決して許さない、絶対者の響き。
「何でございましょうか」
橘は、背筋を伸ばし、緊張に身を固くした。
「近いうちに、他の国の者どもが、この一件を嗅ぎつけてくるだろう。そして、何としてでもワシに接触しようと、試みるやもしれん。アメリカとか、中国とか、ロシアとか、まあ、色々とな」
その言葉に、橘の心臓がどきりと跳ねた。
彼女が、最も恐れていた事態。
既に、水面下では、各国の諜報機関との熾烈な情報戦が始まっていたのだ。
「ワシは、面倒事は好かん」
賢者は、静かに続けた。
「故に、そのような者たちが現れた場合は、その対応の全てを、お主たちに丸投げする。うまいこと言って追い返すなり、適当にいなすなり、あるいは実力で排除するなり、好きにせよ」
「……!」
「この世界において、ワシが直接対話を行うのは、基本的にお主たち、日本政府だけとする。お主たちを、この世界における、ワシへの唯一の窓口と定めてやろう」
その「指名」は、橘にとって、歓喜と同時に、とてつもない重圧をその肩に背負わせるものだった。
日本が、世界の運命の鍵を握る。その責任は、あまりにも重い。
そして、賢者は、最後の、そして最も重要な決定的な一言を、静かに告げた。
それは、穏やかな響きの中に、絶対的な脅迫の色を隠していた。
「だが、ゆめゆめ忘れるでないぞ、娘よ。あまりに面倒な事態に発展し、ワシの平穏が、わずかでも乱されるようなことがあれば……」
賢者の、エメラルドグリーンの瞳が、すう、と細められる。
「ワシは、この世界そのものを、あっさりと見限って、去るやもしれん」
その言葉は、死の宣告のように、ヘリポートの強風の中に響き渡った。
「そうなれば、お主たちが手にした奇跡も、その輝かしい未来とやらも、全てはそこで終わりじゃ。ワシが気まぐれに与えた玩具は、ワシが気まぐれに取り上げる。ただ、それだけのこと」
賢者は、橘の凍り付いた顔を、満足げに見つめた。
「せいぜい、ワシがこの世界に飽きてしまわぬよう、忠実で有能な防波堤となって、外からの面倒事を、綺麗さっぱり片付けておくことじゃな」
橘は、もはや何も言うことができなかった。
汗ばむ拳を、強く、強く握りしめる。
そして、深々と、地面に額がつくほどに、頭を下げた。
「……御意。賢者様の、御心のままに」
絞り出したその声は、自分でも驚くほど、かすれていた。
「うむ。物分りが良くて助かる」
賢者・猫は、満足げに一つ頷くと、来た時と同じように、ふっとその姿を揺らがせた。
そして、まるで陽炎のように、音もなく、その場から消え去っていた。
後に残されたのは、圧倒的な奇跡の余韻と、そして、世界の命運そのものを押し付けられた、呆然と立ち尽くす人間たちだけだった。
橘は、ゆっくりと顔を上げた。
強風が、彼女の頬を打つ。
彼らは、神の恩寵を手に入れた。
だが、同時に、決して逆らうことのできない、気まぐれで、そしてどこまでも自分勝手な神の「番犬」としての役割を、押し付けられたのだ。
壮大で、危険で、そしてあまりにも奇妙な共生関係が、今、この瞬間、始まった。
その先に待つのが、輝かしい未来なのか、あるいは破滅なのか。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。