第131話
人類がその揺り籠である地球を飛び出し、星々の海へと漕ぎ出す大航海時代。
その最前線たる火星開拓ミッションは、かつての冷戦時代の宇宙開発競争のような悲壮感や、極限状態における生存への緊張感とは無縁の、あまりにも優雅で、そしてどこか現実感を欠いた奇妙な旅路となっていた。
地球と火星、その距離はおよそ七千八百万キロメートル(最接近時)。
従来の化学ロケットであれば、最適な打ち上げウィンドウを待って片道半年以上を要する、精神と肉体を極限まで削る苦難の旅路であるはずだった。
狭い閉鎖空間、リサイクルされた空気と水、そして常に死と隣り合わせの薄氷を踏むような航行。
それが「宇宙へ行く」ということの代償であり、常識だった。
だが今、その常識は一隻の銀色の船によって粉砕されていた。
宇宙船『やまと』。
日本政府が管理し、古代の巫女王『星見子の遺産』より発掘されたとされる、人類史上初の恒星間航行船。
光速の10%という亜光速航行能力を持つこの船にとって、地球・火星間の距離など、東京から大阪へ新幹線で移動するのと大差ない、ほんの数時間の「散歩道」に過ぎなかった。
「……ふぅ。……極楽ですな」
『やまと』の居住区画にある第1展望ラウンジ。
その壁一面が透明な装甲材で覆われ、漆黒の宇宙空間と、遠ざかる青い地球、そして近づきつつある赤い惑星を同時に一望できる特等席で、一人の男がグラスを片手に深いため息をついた。
アメリカ宇宙軍大佐、ジャック・ミラー。
今回の『日米中火星共同開拓ミッション(MCDI)』におけるアメリカ側先遣隊の指揮官である。
歴戦のパイロットであり、過酷なサバイバル訓練を耐え抜いてきた強靭な肉体を持つ彼が今身を沈めているのは、硬いパイロットシートではない。
最高級のイタリア製レザーを使用した、体を包み込むようなリクライニングソファだ。
手には日本政府が「旅のお供に」と提供した山崎のヴィンテージ・ウイスキーのロックグラス。
氷はもちろん南極の氷山から切り出され、魔石の力で保冷された純度100%の古代水だ。
「……全くです。……移動中だというのに振動一つない。……エンジンの音さえ聞こえません。……これが宇宙船だとは、にわかには信じがたい」
向かいの席で香り高いジャスミン茶を優雅に啜りながら同意したのは、中国人民解放軍少将、李偉。
中国側先遣隊のトップであり、厳格な軍人として知られる彼もまた、このあまりにも快適すぎる環境に、その険しい表情を完全に崩されていた。
「……かつて我々が訓練で想定していた宇宙旅行とは、狭いカプセルに押し込められ、重力加速度に耐え、リサイクルされた水を飲む……そんな苦行のはずでした。……それがどうです。……客室は地上の五つ星ホテル並み。……食事は温かいフルコース。……挙句の果てには……」
李はラウンジの奥に広がるガラス張りの区画に視線を向けた。
そこには青い水を湛えた25メートルプールがあり、数名のクルーたちが無重力ではなく、完璧に制御された人工重力の下で優雅に泳いでいる姿が見えた。
「……プール付きとは恐れ入りました。……日本の『おもてなし』の精神は、宇宙の物理法則さえも超越するようですな。……一体どのようなテクノロジーを使えば、宇宙船の中にこれほどの環境を構築できるのですか?」
その二人の会話を、ニコニコと人好きのする笑顔で聞いていたのは、日本政府代表としてこの船に同乗している外務省の特命全権大使、佐伯だった。
彼はこの船の「真の所有者」である、気まぐれな神の存在をひた隠しにし、あくまで「古代の遺産を管理する日本政府」という立場を演じきるという、極めて胃の痛くなる任務を帯びていた。
「ははは。……お褒めにあずかり光栄です」
佐伯は手元の端末で船内の空調を微調整しながら、こともなげに答えた。
「……我々の解析によれば、この船のシステムは搭乗している生命体の生体情報をスキャンし、その種族にとって最もストレスがなく、快適に過ごせる環境を自動的に構築・維持する機能があるようです。……つまり、人間が乗れば人間にとって最適な温度、湿度、重力、そして居住空間が提供される。……どうやらこの船にとっては、それがごく当たり前の『標準機能』のようですな」
「……標準機能……」
ミラー大佐が信じられないといった顔で首を振った。
「……これほどの贅沢が、ただのデフォルト設定だと? ……古代の文明、あるいは異星の文明というのは、我々の想像を遥かに超えているな……」
「……ええ。……恐ろしいほどに」
李少将も深々と頷いた。
彼らは知らない。
この「快適さ」が古代の叡智でも何でもなく、ただ一人の現代日本のぐうたらな男が「自分が移動中に不快な思いをしたくないから」という理由だけで設定した、究極に個人的な仕様であるということを。
「……あと二時間ほどで火星周回軌道に到着予定です」
佐伯が話題をミッションへと戻した。
「……着陸地点は予定通りクリュセ平原。……機材の展開とコロニー建設予定地の測量、そして第一期ベースキャンプの設営。……スケジュールはタイトですが、この船の荷揚げ能力を使えば、今日中には居住可能な環境を整えられるでしょう」
「……うむ。……頼もしい限りだ」
ミラー大佐は残りのウイスキーを飲み干した。
「……我々アメリカの建設チームも準備は万端だ。……最新鋭の3Dプリンター型建設重機が、火星の土を吸い込んで、そのまま居住モジュールの壁を印刷する。……空気と水さえ確保できれば、一週間で小さな街ができる」
「……我々のエネルギー・プラント班も同様です」
李少将も頷く。
「……日本から提供された『太陽の欠片(魔石)』を用いたジェネレーターの設置手順は、シミュレーションで完璧にマスターしております。……火星の過酷な環境下でも、無尽蔵のエネルギーを供給してみせましょう」
かつては覇権を争い、互いに核ミサイルの照準を合わせ合っていた二つの超大国が、今、日本の管理する船の上で一つのテーブルを囲み、共通の未来を語り合っている。
それは歴史の教科書に載るべき、奇跡的な光景だった。
だが、酒が進み、リラックスした空気が流れる中で、話題は次第により根源的で、そして少年のように無邪気な方向へとシフトしていった。
「……ところで佐伯殿」
李少将がふと真顔で切り出した。
その瞳には軍人としての鋭さとは違う、どこか探求者のような熱っぽい光が宿っていた。
「……気になっていることがあるのですが」
「……はい、何でしょう? 李将軍」
「……火星人ですよ」
「…………は?」
佐伯はきょとんとした。
隣のミラー大佐も眉をひそめる。
「……おいおいリー。……酔ったのか? ……火星人の話か?」
「……ええ。……火星人です。……もし火星に文明の痕跡があったらどうします?」
李は至って真面目だった。
「……火星人ですか……。……はは、それはまた……SF映画のような……」
ミラーは一笑に付そうとした。
それは20世紀の小説の中だけの話だ。
これまでの無人探査機による調査で、火星が不毛の荒野であることは証明されている。
微生物の痕跡ならいざ知らず、文明など存在するはずがない。
だが李は食い下がった。
「……いやいや冗談じゃなくてですね。……考えてもみてください。……日本で発見されたあの『星見子の遺産』。……その正体について、今や世界中で最も有力な説は何ですか?」
彼は声を潜めた。
「……『ホシミコ=宇宙人ハイブリッド説』ですよ。……そして彼女が遺したアーティファクトは、地球外文明のテクノロジーであると。……日本政府もそれを半ば認めるような……いや、否定しない態度をとっているではありませんか」
その指摘に、佐伯の背中に冷や汗が伝った。
(……痛いところを突くな。……まああれは我々が流布したカバーストーリーと、国民の妄想が化学反応を起こした結果なんだが……)
だが公式には、日本政府はその説を「否定していない」。
むしろその曖昧さを利用して、神秘性を高めているのが現状だ。
ここで「いやあれは全部嘘でして」などとは口が裂けても言えない。
佐伯は曖昧に微笑みながら頷いた。
「……あー、まあ……。……そうでしたな。……確かに古代において、地球外からの来訪者がいた可能性は、我々も排除しておりません」
「……でしょう?」
李は熱っぽく語る。
「……なら、居ても良いのではないですか? 火星にも。……かつて地球に宇宙人が訪れていたのなら、その隣の惑星である火星に、彼らの前哨基地や、あるいは別の知的生命体が存在していても、何ら不思議ではないはずです。……むしろいないと考える方が不自然だ」
その論理の飛躍。
だが今のこの状況下――光速の10%で飛ぶ超文明の船の中にいるという状況下――では、それは奇妙な説得力を持っていた。
ミラー大佐の表情が次第に真剣なものへと変わっていく。
「……確かに。……我々は今、常識が崩壊した世界に生きている。……魔法のような技術があり、無限のエネルギーがあり、そしてこんな非常識な宇宙船がある。……ならば火星人がいたとしても、それが一番驚くべきことではないのかもしれん……」
彼は腕を組んで唸った。
「……だが、これまでの探査では何も見つかっていない。……バイキング、パスファインダー、キュリオシティ……。……彼らのカメラは、ただの赤い砂と岩しか映さなかったぞ」
「……それは探査の範囲が限られていたからです!」
李が反論する。
「……あるいは彼らが地下に隠れているのかもしれない。……あるいは高度な擬態技術を使っているのかも。……だからこそ! 今度こそ我々人間が直接行って、この目で見つけるんですよ!」
その言葉に、ラウンジの空気が変わった。
ただの建設作業員としてのミッションではない。
未知との遭遇という、人類最大の夢への挑戦。
「……夢がありますね」
佐伯が微笑んだ。
「……もし本当に何かがいたとしたら。……冷凍冬眠中の古代人とかだったらどうします?」
「……それは……!」
李少将が椅子から立ち上がった。
「……我々がそのカプセルを開けて、彼らを目覚めさせる……! ……『ようこそ現世へ』と! ……うおおおおっ!」
「……落ち着けリー」
ミラー大佐も口元を緩ませていた。
「……だが確かに、夢が広がって来ましたな! ……もし本当に何か見つかれば、我々の名前はコロンブスやアームストロングと並んで歴史に刻まれることになる」
「……ええ。……では基地建設の合間にでも、周辺の洞窟や地層の調査も行ってみましょうか。……もしかしたら世紀の大発見があるかもしれませんよ?」
佐伯は二人の興奮を満足げに見守りながら、心の中で呟いた。
(……まあ何もないだろうけどな。……彼らに夢を見させるのも我々の仕事のうちだ)
◇
『――まもなく火星周回軌道に到達します』
『――減速シーケンス開始。……慣性制御システム正常』
『――到着まであと5分』
船内にアナウンスが響き渡る。
ラウンジの窓の外、漆黒の闇の中に赤い巨星がその姿を現した。
火星。
戦神マルスの名を冠する、鉄錆と砂嵐の惑星。
その圧倒的な存在感に、三人は息を飲んだ。
「……でかいな」
「……ああ。……あそこが我々の新しい大地か」
『やまと』は滑るように高度を下げていく。
大気圏突入の熱も振動も、船内の乗員には一切伝わらない。
ただ窓の外の景色が赤茶色に染まっていくことだけが、彼らが異星の大気の中にいることを教えてくれる。
着陸地点はクリュセ平原。
かつてバイキング1号が降り立った、由緒ある場所だ。
船体下部の重力制御装置が作動し、巨大な砂煙を巻き上げながら、『やまと』は音もなく大地に接地した。
「……着陸成功」
佐伯が静かに告げた。
ブリッジ、そしてラウンジから拍手は起きなかった。
代わりに全員が、緊張と興奮で強張った顔で互いに頷き合った。
ここからが本番だ。
「……では行きましょうか」
ミラー大佐がヘルメットを脇に抱えて立ち上がった。
「……歴史的な一歩を踏み出しに」
エアロックの前には、米中両国の代表として選ばれた二人の宇宙飛行士が、最新鋭の宇宙服(日本の技術供与により大幅に軽量化され、一部に『不死鳥の羽衣』の繊維が使用された最強の防護服)に身を包んで待機していた。
アメリカのジョン・スミス中佐。
中国の王・明少佐。
彼らは互いに顔を見合わせ、そして固い握手を交わした。
かつての競争相手は、今、共に人類の未来を背負うパートナーとして並び立っていた。
「……準備はいいか、王少佐」
「……いつでも、スミス中佐」
「……エアロック開放」
シュウウウウ……という音と共に気圧調整が行われ、重厚なハッチがゆっくりと外側へと開いていく。
眩いばかりの太陽の光(地球よりも少し遠く弱々しいが、それでも十分に明るい)が船内に差し込んでくる。
その先に広がるのは、見渡す限りの赤い荒野。
岩と砂と、そして赤茶色の空。
静寂の惑星。
スミス中佐と王少佐は並んでタラップを降りていく。
その様子は、彼らのヘルメットに装着されたカメラと、上空を飛ぶドローンを通じてリアルタイムで地球へと送信されていた。
地球と火星の通信ラグは通常であれば数分から二十分かかる。
だがこの『やまと』の持つ超光速通信システムを経由することで、遅延はゼロに等しい。
今、地球上の数十億の人々が固唾をのんで、この瞬間を見守っているはずだ。
タラップの最後の一段。
二人は同時に足を上げた。
そして。
ザッ。
二つの足跡が、赤い砂の大地に刻まれた。
「――こちら火星先遣隊」
スミス中佐の声がクリアに響き渡る。
「……我々は今、火星の大地に立ちました」
「……これは一人の人間にとっては小さな一歩だが……」
彼はかつてのアームストロング船長の言葉を引用し、そしてそれを新たな時代に合わせて書き換えた。
「……我々人類にとっては、共に手を取り合い、新たな世界へと進み出すための、偉大なる連帯の証です」
続いて王少佐が、中国語で、そして英語でメッセージを送る。
「……赤い星よ、我々は来た。……覇権を争うためではなく、共に未来を築くために。……ここから我々の新しい歴史が始まるのです」
その瞬間。
地球上のニューヨークのタイムズスクエアで、北京の天安門広場で、東京の渋谷スクランブル交差点で。
爆発的な歓声が巻き起こった。
人々は抱き合い、涙を流し、そして空を見上げて叫んだ。
「……火星だ!」
「……人間が火星に立ったぞ!」
「……すげえ……! 本当に行っちゃったよ……!」
国境もイデオロギーも超えて、人類は一つの偉業を祝福した。
火星に人類が初めて足を踏み入れた!
そのニュースは瞬く間に世界中を駆け巡り、全てのトップニュースを塗り替えた。
『人類火星へ到達!』
『日米中歴史的快挙!』
『新たなフロンティア時代の幕開け!』
その熱狂の中で。
火星の赤い大地の上で、スミスと王は互いの肩を抱き合い、カメラに向かってサムズアップをした。
そして彼らの背後では、『やまと』の巨大なカーゴハッチが開き始め、中から日本の建設部隊と、最新鋭の魔石駆動式重機たちが次々と展開を開始していた。
「……よし、撮影はOKだ!」
「……さあ仕事にかかるぞ!」
「……まずは整地だ! 魔石ブルドーザー前へ!」
感傷的な時間は終わり、現実的な開拓の時間が始まった。
彼らはこの荒野に、人が住める「街」を作らなければならないのだ。
夢見た「火星人との遭遇」など、そこにはなかった。
あるのはただ赤い砂と岩と、そして乾いた風だけ。
だが彼らは失望してはいなかった。
なぜなら、何もないからこそ、彼らはそこに自分たちの手で新しい歴史を刻むことができるのだから。
人類の冒険は、まだ始まったばかりだった。




