第126話
人類の視線は、もはや夜空に浮かぶただ一つの白銀の宝石、月に釘付けではなかった。
『プロジェクト・アルカディア』――日米欧露中印、かつての列強たちがその技術とプライドの全てを注ぎ込み、神の船『やまと』による無限の輸送力(ピストン輸送)というチート行為の果てに、わずか数ヶ月でその威容を現し始めた月面都市。
その建設の様子は連日衛星中継され、世界中が「人類の団結」という名の甘美な神話に酔いしれていた。
だが、歴史とは常に最も美しい夢の裏側で、冷徹な現実の刃を研ぎ澄ますものである。
その神託は、月面都市の第一期居住区画が完成したことを祝う式典の、まさにその翌日。
世界が最も幸福な安堵感に包まれていた瞬間を、狙い澄ましたかのように放たれた。
発信元は東京、ワシントン、そして北京。
三つの超大国の首都から一斉に発信された緊急の共同声明。
そのタイトルを見た瞬間、世界中のジャーナリストと政治アナリストたちの背筋を、冷たい汗が伝った。
『――日米中三カ国共同声明:新たなるフロンティア火星共同開発イニシアチブ(Mars Co-Development Initiative)の発足について――』
世界は一瞬、その意味を理解できなかった。
火星? 月面都市計画はどうなったのだ?
だが、その声明文に続く詳細なロードマップと、三カ国の首脳がホログラムで一堂に会し、固い握手を交わすその荘厳な映像を前にして、人々はようやく、そのあまりにも巨大すぎる事実を受け入れざるを得なかった。
アメリカ合衆国と中華人民共和国が、共同で火星に恒久的なコロニーを建設する。
そして、そのための唯一無二の輸送手段である神の船『やまと』の運用は、日本政府が全面的に、そして独占的に担う。
それはもはや、ただの宇宙開発計画ではなかった。
それは、地球という名の揺り籠から人類が巣立つ、その未来の全ての主導権を、この三つの国が完全に掌握するという、絶対的な覇権宣言だった。
X(旧Twitter)のタイムラインは、一瞬の静寂の後、爆発した。
『#火星コロニー』『#米中共同』『#やまと独占』『#日本は運用係』『#他の国おいてけぼり』。
そのトレンドワードが、世界の全ての言語で熱病のように駆け巡った。
@Mars_Dreamer
待って。待って。待って。
月面都市の次は火星コロニー!? しかも米中が共同で!?
なにこの展開早すぎだろ! 俺の脳の処理速度が追いつかねえよ!
@Geopolitics_Today
これはヤバい。ヤバすぎる。
米中が手を組んだ。それも「火星」という、この星の未来の全てを決定づけるカードで。
これは事実上の『米中G2体制』の宇宙における樹立宣言だ。
そして、その神の船の「鍵」を握ってる日本が、事実上のキャスティングボートを握ったことになる。
……終わった。……俺たちの知ってる世界は今日終わったんだ。
世界の熱狂は、月面都市計画の時のそれとは、全く質の違うものだった。
そこには、純粋な希望やロマンだけではない。
自らがこの歴史的なゲームのプレイヤーから、ただの観客へと突き落とされたという強烈な焦燥と、そして置き去りにされることへの根源的な恐怖が渦巻いていた。
その恐怖を最も強く、そして最も深く感じていたのは、これまで世界の覇権ゲームの主要なプレイヤーであると自負していた、他の大国の中枢だった。
◇
ロシア、モスクワ、クレムリン。
大統領執務室の重苦しい空気は、シベリアの冬の嵐よりも冷え切っていた。
大統領ウラジーミルは、その氷のような目で、ホログラムスクリーンに映し出された三カ国首脳のあのいけ好かない握手の映像を、何度も何度もリピートさせていた。
「………………」
彼の隣で、ロスコスモスの理事長ペトロフが、その熊のような巨体をわなわなと震わせていた。
「……大統領閣下……。……これは裏切りです。……あの日本の狸どもめが……!
月面都市計画では我々とあれほど友好的に協力すると約束しておきながら……!
……水面下でこのような汚い取引を……!」
「……ペトロフ」
ウラジーミルの声は、地を這うように低かった。
「……これは裏切りなどという生易しいものではない。……これは戦争だ。
……我々ロシアを、この新たな宇宙時代の『敗戦国』へと叩き落とすための、最も巧妙な外交戦争だ」
彼は立ち上がった。
「……だが、このまま黙って引き下がるロシアだと思われては困る。
……即刻ワシントンと北京に、最高レベルでの緊急会談を申し入れろ。
……議題は、我が国が月面で培った『極寒冷地における長期滞在ノウハウ』と、シベリアの広大な土地に眠る『希少資源の独占的供給権』。
……そのカードと引き換えに、我々もその『火星行き』の切符を手に入れる」
フランス、パリ、エリゼ宮。
大統領エマニュエルは、その芸術家のように繊細な顔を、深い絶望に歪ませていた。
「…………美しくない」
彼はワイングラスを片手に、吐き捨てるように言った。
「……アメリカのプラグマティズムと中国の覇権主義、そして日本の狡猾さ。
……その三つが組み合わさった、なんと醜悪で、しかしなんと強力な怪物か。
……ESAのデュボワ理事長、君の言う通りだったよ。
……我々ヨーロッパが独自の輸送手段を持たず、日本の『やまと』に依存しすぎたツケが、今、最悪の形で回ってきたというわけだ」
「……ええ、ミスター・プレジデント」
ESAのデュボワ理事長は、力なく頷いた。
「……もはや我々が単独で彼らに対抗する術はありません。
……我々にできるのはただ一つ。
……プライドを捨て、彼らに頭を下げ、そのおこぼれに与る許可を乞うことだけです。
……そして、その交渉の相手は米中両政府。
……カードは、我々が月面都市アルカディア・ベースで最も進んだ技術を持つ、あの『完全循環型生命維持システム』の全面提供しかありますまい」
インド、ニューデリー。
首相官邸では、モディ首相が瞑想を中断し、その鋭い目で側近たちを睨みつけていた。
「……許せん。……我が国が独自の月面探査機チャンドラヤーンで、あれほどの成果を上げたというのに。
……その我々を差し置いて、アジアの覇権を日中が握ると言うのか。
……即刻北京に飛べ。……王毅先生に伝えるのだ。
……『我々インドが誇る世界最高のIT技術と、月面ローバー開発で培った高度なAI・ロボティクス技術。
……その全てと、この十数億の民の巨大な市場と引き換えにしても、我々はその火星への第一歩をアジアのライバルたちに譲るつもりはない』と」
世界が動いた。
この新たな宇宙大憲章から除外されることは、すなわち未来からの追放を意味する。
その根源的な恐怖が、全ての国家のプライドと、これまでの外交的な駆け引きを、無意味なものへと変えてしまった。
世界中の全ての国々の全ての駐米・駐中大使館に、本国からの緊急指令が殺到した。
『――手段は選ぶな。……いかなる譲歩をしてでも米中両政府に食い込め。
……『火星イニシアチブ』への参加枠を確保せよ』と。
彼らの頭には、もはや『やまと』の運用係である日本に泣きつくという選択肢はなかった。
神の船の鍵を握る門番(日本)に何を言っても無駄だ。
その門の先にある玉座に座る二人の王(米中)を直接説得するしかないのだと、彼らは本能的に理解していた。
◇
その世界の悲痛な叫びと剥き出しの欲望は、二つの超大国の首都へと集約された。
ワシントンD.C.、ホワイトハウスのシチュエーションルーム。
アメリカ合衆国大統領ジェームズ・トンプソンは、その鷲のような鋭い瞳で、目の前のホログラムスクリーンに映し出された各国からの、もはや「嘆願書」と呼ぶべき参加要請のリストを眺めていた。
「…………すごいな」
彼は呻くように言った。
「……まるでバーゲンセールだ。……ロシアは月面での長期滞在ノウハウと資源を差し出すと。
……EUは生命維持システムの完全な技術開示を。
……そしてインドは、その優秀なAI技術者たちを労働力として提供すると、そう言ってきたか」
国防長官ソーン元帥が、満足げに鼻を鳴らした。
「はっ! ……これぞ我らが世界のリーダーである証左にございます!
……彼らの技術はいずれも魅力的。
……この火星計画のコストを大幅に削減するために、大いに利用価値がございますな」
「……ああ。……だが、問題はそこではない」
トンプソンはその言葉を遮った。
「……問題は、我々のもう一人の『パートナー』が何を考えているかだ」
彼は北京へと繋がる極秘のホットラインのボタンへと、その指を伸ばした。
時を同じくして、北京、中南海。
国家主席の腹心、王毅もまた同じリストを、その常に穏やかな笑みを浮かべた顔で見つめていた。
「……ふむ。……なかなか良い手札が集まったではありませぬか」
彼はまるで極上の茶葉でも選別するかのように、そのリストを指でなぞった。
「……ロシアのノウハウ、EUの生命維持、インドのAI。
……どれも我らが火星コロニーを建設する上で、面倒な部分を肩代わりさせるにはちょうど良い『部品』ばかりですな」
「……ですが王毅先生」
側近の一人が不安げに言った。
「……彼らを参加させることは、すなわち我々の主導権を脅かすことにも繋がりかねません。
……特にロシアの……」
「……案ずるな」
王毅はその言葉を遮った。
「……主導権とは数で決まるものではない。
……『誰がルールを作るか』で決まるのだよ。
……そしてそのルールは既に、我々とアメリカとの間で合意がなされている。
……彼らはプレイヤーではない。
……我々の壮大なゲームに参加することを許された、ただの『協力者』に過ぎんのだよ」
彼はワシントンからのホットラインが着信したのを見ると、その穏やかな笑みをさらに深くした。
二つの超大国の水面下での合意は、驚くべき速度でなされた。
彼らの利害は完全に一致していた。
主導権は米中両国が絶対に手放さない。
だが、火星開発というあまりにも巨大すぎるプロジェクトのコストとリスクを、他の国々に分担させることは、双方にとって莫大な利益となる。
そして何よりも、日本という神の船の鍵を握る、あの油断ならぬトリックスターを牽制するためにも、参加国は多い方が良い。
数日後、米中両国は共同で新たな声明を発表した。
『――火星共同開発イニシアチブ(MCDI)へのロシア連邦、欧州連合及びインド共和国の限定的な技術協力参加を、ここに歓迎する――』
その「限定的」という一言に、全ての意味が込められていた。
ロシア、モスクワ。
クレムリンの執務室で、大統領ウラジーミルはその報告書を、ただ無言で見つめていた。
「………………」
彼は何も言わなかった。
だが、その握りしめられた拳の関節が、白く浮き出ていた。
ロスコスモスの理事長ペトロフが、悔しげに顔を歪めた。
「……閣下……! ……これは屈辱です!
……我々は主導国ではなく、ただの『技術協力国』だと……!
あの米中の若造どもめが……!
我々をただの部品供給メーカー扱いしおって……!」
「………………」
「……こんな条件、呑めるはずが……!」
「――呑むしかないだろう」
ウラジーミルの、地を這うような低い声がその言葉を遮った。
彼は顔を上げた。
その目には、もはや怒りはなかった。
そこにあったのは、冷徹な現実主義者としての、絶対的な覚悟の色だけだった。
「……ペトロフよ。……先手を取られたのだ。
……我々があの日本の狸の本当の価値を見抜けず、月面でのささやかな協力で満足している間に。
……米中の二頭はその遥か先、火星という名の獲物を、既に分け合ってしまっていた。
……これは我々の完敗だ」
彼は立ち上がった。
「……だがゲームはまだ終わってはいない。
……今はこの屈辱を甘んじて受け入れよう。
……そして一度そのテーブルに潜り込みさえすれば、そこから全てをひっくり返す機会は必ず訪れる。
……我々はロシアだ。……我々は決して諦めん」
その光景は、パリでもニューデリーでも、ほぼ同時に繰り広げられていた。
EUもインドも、その「米中主導」という屈辱的な条件を、歯を食いしばりながらも受け入れるしかなかった。
この歴史的なバスに乗り遅れることは、すなわち未来からの完全な追放を意味するのだから。
こうして世界の新たな宇宙秩序は確定した。
米中という二つの巨大な頭脳が計画を描き、日本という唯一無二の神の手がそれを実行する。
そしてその他の国々は、その神々の壮大な宴の席でおこぼれに与ることを許された客人に過ぎないのだと。
世界のパワーバランスはこの日、火星という名の新たな神話の下に、完全に、そして永遠に書き換えられた。
各国首脳は、米中に先手を取られたという深い屈辱をその胸に刻み込みながらも、「歴史のバス」に乗り遅れなかったという安堵の息を漏らすことしかできなかった。




