第125話
延享二年(1745年)秋。
江戸城西の丸、その奥深くに広がる庭園は、都の喧騒から切り離されたかのような静寂に包まれていた。
夜空には、今にも手で触れられそうなほどに澄み渡った中秋の名月が浮かび、その蒼白い光が、手入れの行き届いた松の枝葉や池の水面を鏡のように照らし出している。
虫の音が、秋の夜長の静けさを際立たせるように、リズミカルに響いていた。
その庭園の縁側に、一人の老人が座していた。
徳川吉宗。
かつて「暴れん坊将軍」と市井の人々に愛され、幕府の中興の祖と謳われた稀代の英傑も、今や還暦を迎え、その背中には一国の重荷を背負い続けた歳月の重みが、静かな威厳となって滲んでいた。
彼は翌月に将軍職を嫡男の家重に譲り、大御所となることが決まっている。
激動の生涯の黄昏の時。
彼は月見酒と洒落込みながら、その隣に座る「旧友」に酒器を差し出した。
「……良い月ですな、賢者殿」
吉宗の隣には、一匹の黒猫がちょこんと座っていた。
夜の闇を固めたような艶やかな毛並み、人の心の奥底を見透かすような神秘的な翠色の瞳。
賢者・猫――新田創は、差し出された杯の中の酒を器用に舌で舐めると、満足げに喉を鳴らした。
「うむ。……実に良い月じゃ。……これほど見事な月は、どの世界を探してもそうそうお目にかかれんよ」
「左様ですか。……それは何よりの誉れ」
吉宗は穏やかに微笑んだ。
二人の間には、長い空白を埋めるような、ゆったりとした時間が流れていた。
かつて若き日の吉宗に巨大な金塊を授け、彼をからかい、そして励ましたこの超越者は、吉宗が老境に入った今も変わらぬ姿で、時折こうしてひょっこりと顔を出すのだった。
「……賢者殿。……以前、貴殿は仰いましたな。……未来の世界から来たと」
吉宗は盃を口に運びながら、独り言のように呟いた。
「……この吉宗、この歳になっても、未だに貴殿の仰る『時空』だの『世界線』だのという理屈は、到底理解が及びませぬ。……ですが、一つだけ聞いておきたいことがございます」
彼は月を見上げたまま言った。
「……この先、遥か未来において。……この日ノ本の民は、笑っておりますかな?」
その問いかけは、為政者としての最後の、そして最も切実な問いだった。
創はその老いた英雄の横顔をじっと見つめた。
彼の脳裏に、現代日本のあの騒がしくも平和な光景が蘇る。
スマホを片手に歩く若者たち。満員電車に揺られるサラリーマン。そして安くて美味い飯を腹一杯食って笑う人々。
厳密に言えば、彼がいた世界とこの吉宗がいる世界は、異なる時空の枝葉に過ぎないのかもしれない。
だが、根幹にある魂の色は同じだ。
「…………うむ」
賢者は力強く頷いた。
「……笑っておるよ。……そりゃあもう呆れるくらいにな。……飢えに苦しむ者など一人もおらん。……誰もが腹一杯飯を食い、好きなことをして、馬鹿スカ笑って暮らしておるわ。……まあ厳密には別の時空の話じゃから、お主の治世と直接繋がっておるわけではないかもしれんがな。……それでも、この国の魂は未来永劫、変わらずにそこにある」
「……そうですか」
吉宗は深く深く安堵の息を吐いた。
その目尻の皺が、優しく深くなる。
「……それを聞いて、胸のつかえが取れました。……徳川の御世がどうなるか、それは天のみぞ知ることでございましょうが……。……民が笑っているのであれば、それが全てです」
「ふん。……徳川か」
賢者はわざと意地悪く言った。
「……残念ながら、幕府は、あと百数十年もすれば滅びるぞ」
「……ほう」
吉宗は驚く風でもなく、ただ静かに受け止めた。
「……やはりそうでございますか。……形あるものはいつか滅びる。……それは世の理なれば」
「……じゃがな」
賢者は続けた。
「……次世代への渡し船は出すことができるぞ。……お主が築いた礎の上に、新しい日本という国が建つ。……そしてその国は、かつてないほどの繁栄を極めるのじゃ」
彼は空に浮かぶ満月を、前足で指し示した。
「……吉宗よ。……あの月を見てみよ」
「……月でございますか」
「……うむ。……未来の日ノ本ではな。……あの月の上で、お主が誰よりも敬愛する帝がお田植え祭をしておるぞ」
「…………………………………………は?」
吉宗の手から盃が滑り落ちそうになった。
彼は目をしばたたかせ、賢者と月を交互に見比べた。
「……け、賢者殿? ……今、何と? ……月の上で……お田植え祭……?」
「うむ。……文字通りの意味じゃ」
賢者は楽しそうに尻尾を揺らした。
「……未来の人間は、鉄の船に乗って空を飛び、あの月まで行くことができるのじゃよ。……そして日ノ本の象徴である天皇陛下が、あの月の大地で、民の安寧と五穀豊穣を祈って稲を植えられたのじゃ。……どうじゃ? ……愉快な話じゃろう?」
吉宗はしばらく言葉を失っていた。
だがやがて、その顔にこの世で最も晴れやかな、そしてどこまでも誇らしげな笑みが広がっていった。
「…………ははは。……はははははは!」
彼は夜気の中に笑い声を響かせた。
「……なんと! ……なんと壮大な! ……月で田植えとは! ……いやはや未来の民は、我々の想像を遥かに超えておりますな! ……そして帝が……。……万世一系の皇統が時の風化に耐え、未来においてもなお民の象徴であり続けておられるとは……!」
彼の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「……素晴らしい。……まことに素晴らしいことです……。……この吉宗、その話を聞けただけで、もう何も思い残すことはございません……」
「うむ。……そうじゃろう、そうじゃろう」
賢者は得意げに胸を張った(猫なので胸を張るというよりは背筋を伸ばしただけだが)。
「……ワシもな、現代の天皇には会ったことはないが、戦国時代の天皇になら会ったことがあるぞ?」
「……ええっ!?」
吉宗は再び驚いた。
「……そ、そうでございましたか。……それはまたどのような……」
「……うむ。……後奈良院という帝じゃったがな。……信長の小僧に連れられて、御簾越しに話をしたわい。……その時もこの月の話をしてやったら、そりゃあもう腰を抜かすほど驚いておったわ。……『夢のような世界じゃ』とな」
「……ええ。……そうでしょうね……」
吉宗は、しみじみと頷いた。
「……戦国の世の帝であれば、なおさらでしょう。……平和な未来の姿は、何よりの希望であったはず……」
「……そうじゃろ?」
賢者は少しだけ拗ねたように言った。
「……それに比べて今の未来人はどうじゃ。……ワシが登場する以前は、もっとつまらん日本じゃったぞ。……皆下を向いて疲れた顔をしておった。……じゃがワシが少しばかり『テコ入れ』をしてやってからは、だいぶ面白おかしくなったわい!」
「……ははは。……賢者殿がまた何か悪戯をされたのですな?」
「……悪戯ではない! 救済じゃよ、救済!」
賢者はフンと鼻を鳴らした。
「……じゃがな吉宗よ。……最近はどいつもこいつも月に夢中で、ちっとも面白くないのじゃ」
「……月に夢中?」
「うむ。……ワシが宇宙船を貸してやったせいでな。……皆こぞって宇宙開発だの火星移住だのと騒ぎ立てておる。……まったく、足元の幸せも拾えぬうちに空ばかり見上げおって」
彼は月を恨めしそうに睨んだ。
「……宇宙のロマンとやらは、ワシの想像以上じゃったわい。……火星へは興味がないみたいじゃが……。……あんな何もない赤い惑星、欲しがる方の気が知れんのう。……温泉もないし、飯も不味そうじゃし」
そのあまりにも神らしからぬ、生活感溢れる愚痴。
吉宗は腹を抱えて笑った。
「……はっはっは! ……賢者殿らしい。……しかし、宇宙船をお持ちなのに、ご自分では冒険などはなさらぬのですか?」
「……まあな」
賢者はゴロリと寝返りを打った。
「……ワシ、宇宙にはあまり興味がないからのう。……広すぎるし暗いし、移動が退屈じゃ。……思えばあの船を手に入れてから、まともに宇宙旅行なんぞしたことがないわい。……せいぜい月見の特等席に行くくらいか」
彼はあくびをした。
「……まあ、宇宙人と接触するタイミングとかがあれば、見学くらいには行くかもしれんがな。……それまでは寝て待つよ」
「……なるほど。……贅沢な時間の使い方でございますな」
「……まあよい。……ワシも遊んでばかりおるわけではないぞ?」
賢者は急に真面目な顔(猫の顔だが)をして言った。
「……色々とプロジェクトは並行して進んでおるのじゃ。……この世界ではない別の魔法世界の話じゃがな」
「……魔法世界?」
「うむ。……例えばな、『治癒ポーション』という怪我を治す薬があるんじゃが、それを『治癒魔法』そのものへと変換するシステムの構築じゃ。……薬は無くなるが、魔法なら知識として残るじゃろ? ……その方が永続性がある」
「……ほう。……それはまた難しそうな……」
「……それから『織田信長魔改造計画』じゃな」
「……の、信長公を!?」
吉宗は思わず声を裏返した。
彼が恐れる戦国の覇王の名が出たからだ。
「……うむ。……あの小僧、放っておくとすぐに死に急ぐからのう。……ワシが与えたスキルジェムとやらで、ちとばかり肉体を強化してやったわ。……今頃、比叡山でも焼き討ちにする代わりに、魔界の門でも開いておるかもしれん」
「……な、なんと……」
吉宗は冷や汗をかいた。
自分の知る歴史とは、あまりにもかけ離れた展開だ。
「……あとは『上杉謙信魔改造計画』も進行中じゃ。……あやつを女体化させて信長と恋に落とすというシナリオも考えたが、さすがにそれは悪趣味かと却下したところじゃ」
「……け、賢者殿……。……それはさすがに神をも恐れぬ所業では……」
「……何を言う。ワシが神みたいなもんじゃ」
賢者はケラケラと笑った。
吉宗もまた、つられて笑った。
この理屈も常識も通用しない規格外の友人との会話は、老いた彼にとって何よりの刺激であり、そして癒しだった。
「……ふふふ。……賢者殿は、まことに面白いお方だ」
吉宗は月を見上げながら、しみじみと言った。
「……貴殿のお話を聞いていると、この世の悩みなど全てちっぽけなものに思えてきます。……そして同時に……」
彼の声が少しだけ寂しげに沈んだ。
「……少しばかり羨ましくもなりますな」
「……羨ましい?」
「ええ。……貴殿のように時を超え、世界を超え、数多の物語を見届けることができるそのお力が。……この吉宗、もし未練があるとしたら……。……そう、未来の時で生きてみたかったですな。……貴殿が語る、あの笑顔の溢れる未来の日本を、この目で見てみたかった……」
それは、死期を悟った老人の偽らざる本心だった。
己の人生に悔いはない。やるべきことはやった。
だがそれでもなお、未知への憧れと生への執着は、人の心の奥底に残り続けるものなのだ。
その言葉を聞いた瞬間。
賢者の全身の毛が、逆立ったように見えた。
彼のお気楽だった表情が消え、そこには友を失うことを拒絶する駄々っ子のような、そして神の如き傲慢な色が浮かび上がった。
「…………何を弱気な事を言っておる?」
賢者の声が、低く鋭くなった。
「…………未来が見たいなら、見に行けばよいではないか」
「……え?」
「……死や病などどうとでもなる。……ワシが持っておる『怪我治癒ポーション』や『霊薬』を使えば、お主のその脳の病も老いさえも、一瞬で治せるぞ。……いくらでも融通してやる。……未来の技術を使えば、サイボーグ化して寿命を延ばすことだって造作もないことじゃ」
彼は畳み掛けるように言った。
「……話相手がいなくなると、ワシも寂しいからのう! ……死ぬな吉宗! ……お主にはまだ見せたいものが山ほどあるんじゃ!」
そのあまりにも必死な、そしてあまりにも力強い引き止め。
吉宗は驚き、そしてその神の優しさに胸が熱くなるのを感じた。
だが彼は、静かに首を横に振った。
「……いやいや、賢者殿。……お気持ちは痛いほど嬉しゅうございますが……。……この吉宗、自分の命脈が尽きるころぐらい察する歳です。……天命には逆らえませぬよ」
「……歳? ……天命?」
賢者は鼻で笑った。
「……馬鹿じゃのう。……あるいはワシの力をまるで理解していない!」
彼は立ち上がり、月を背にして仁王立ちになった。
その姿は小さな猫であるはずなのに、この世界の誰よりも巨大に見えた。
「……ワシからしたら、時間など自由に並び替え出来る一つの媒体に過ぎないのじゃ! ……天命などという曖昧なもの、ワシが書き換えればそれで済む話じゃ!」
「……書き換える……?」
「……そうじゃ! ……どうじゃ吉宗。……死を偽装して未来に行ってみるというのは! ……歴史上は『徳川吉宗は死んだ』ことにしておいて、お主自身はワシの船に乗って、あの月面都市とやらを見物しに行くのじゃ! ……あるいは過去に戻って、幼き自分自身に会いに行くというのはどうじゃ? ……若き日のお主に未来の知恵を授けてやれば、歴史はもっと面白くなるぞ! ……変わる未来を高みの見物としゃれこむのも乙じゃろ!?」
その悪魔の囁きのような、しかし無限の可能性に満ちた提案。
時間を超え、死を超え、歴史さえも遊び場に変えてしまう。
それはまさに神の誘いだった。
吉宗の心が、一瞬激しく揺れた。
未来を見たい。もっと生きたい。
その欲望が、老いた体に再び火を灯そうとした。
「……ふふふ。……賢者殿とお喋りしていると、自分に無限の可能性があると勘違いしそうですよ……」
「……いやいや、勘違いなどではない! ……無限の可能性があるのじゃ! ……ワシと来れば、お主は永遠の旅人になれる! ……さあ手を取れ吉宗! ……死ぬな!」
賢者は必死だった。
彼は知っていたのだ。
どれほど多くの世界を渡り歩いても、これほどまでに魂が響き合う友とは、そうそう巡り会えるものではないことを。
だからこそ、彼は失いたくなかった。
自らの全能の力を行使してでも、この男を繋ぎ止めたかった。
だが。
吉宗は静かに、しかし力強くその誘いを拒絶した。
彼は賢者・猫の、その心配そうな瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
その目にはもはや、迷いも未練もなかった。
そこにあったのは、一人の人間として自らの生を全うしようとする、透き通るような覚悟だけだった。
「…………いいえ、賢者殿」
彼は穏やかに微笑んだ。
「……この吉宗、感謝しかありません。……この時代に私ごときのために会いに来てくれた貴殿という不思議な運命に。……心より感謝しております」
「……吉宗……」
「……未来を見るのも、過去を変えるのも魅力的ではあります。……ですが、それは私の生きる道ではありませぬ。……私は徳川吉宗として生まれ、そして徳川吉宗として死にたいのです。……この時代のこの風の中で、民と共に生き、そして土に還る。……それが私に与えられた唯一にして最高の天命なのですから」
彼は縁側から空を見上げた。
満月が、優しく彼を照らしていた。
「……それに未来は、未来の者たちが創るもの。……老人がいつまでも出しゃばっていては、若芽が育ちませぬよ」
その言葉を聞いた時。
賢者・猫の全身から、ふっと力が抜けた。
彼は理解したのだ。
この男はもう完成しているのだと。
その魂は、もはや神の力でさえも動かすことのできない、完全な円環を閉じようとしているのだと。
それは寂しいことではあったが、同時にどうしようもなく美しいことでもあった。
「…………うむ。……そうか」
賢者は静かに言った。
その声からは先ほどまでの激しさは消え、ただ静かな諦念と、そして深い敬意だけが残っていた。
「……まあ全て、気まぐれな運命じゃ。……悲しくはない!」
彼は強がって見せた。
「……これからもワシは生き続けて、様々な者を見送るじゃろうが……悲しくない! ……ワシは賢者じゃからな!」
その少しだけ震える声。
吉宗はその小さな友人の強がりを愛おしく思った。
彼は賢者の頭をそっと撫でた。
「……ふふふ。……賢者・猫殿にまた会える時を楽しみにします。……いつか時の彼方で」
「…………いいや!」
賢者は吉宗の手をすり抜けると、ぴょんと庭石の上に飛び乗った。
彼は振り返らなかった。
これ以上ここにいれば、自分が神ではなく、ただの泣き虫な猫に戻ってしまうことを知っていたからだ。
彼は夜空に向かって、高らかに宣言した。
「…………これで終いじゃ! ……別れの言葉など、ワシらの柄ではないわ!」
そして彼は叫んだ。
「…………ではな!!! ……達者で暮らせよ吉宗!!!」
次の瞬間。
彼の姿はふっと掻き消えた。
光も音もなく。
ただ彼がそこにいたという温もりだけを残して。
後に残されたのは、静寂と満月と、そして一人の老人だけだった。
吉宗は、賢者が消えた空間をいつまでも見つめていた。
やがて一陣の風が吹き抜け、庭の木々を揺らした。
「…………ふふふ」
吉宗は独りごちた。
「……最後まで気まぐれなお方だ……」
彼は再び杯を手に取った。
そしてその、誰もいない虚空に向かって静かに杯を掲げた。
「…………ありがとう我が友よ。……貴殿のおかげで、私の人生は退屈せずに済みました」
彼はその酒を飲み干した。
その味は少しだけ塩辛く、そしてどこまでも澄み渡っていた。
延享二年秋。
この夜の対話を最後に、賢者・猫が徳川吉宗の前に姿を現すことは二度となかった。
翌年、吉宗は中風に倒れ、右半身の自由と言語を失うこととなる。
だがその病床にあっても、彼の瞳から光が消えることはなかったという。
彼は時折、窓の外の空を見上げ、誰かに微笑みかけるような表情を見せたと言われている。
あるいはその目には、遥か未来の月の上で稲を植える帝の姿や、星々の海を旅する銀色の船の幻影が映っていたのかもしれない。
寛延四年六月二十日。
徳川幕府第八代将軍、徳川吉宗薨去。享年六十六。
その死に顔は、まるで楽しい夢を見た後の子供のように安らかであったと伝えられている。
歴史の表舞台からは消え去った、神と人との奇妙な友情の物語。
それは今も、時の流れのどこかで、ひっそりと、しかし永遠に輝き続けているのかもしれない。




