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異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語  作者: パラレル・ゲーマー


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第124話

 季節は巡った。


 神がその気ままな指先で、この地球という名の辺境の惑星に最初の奇跡の一滴を落としてから二年半。

 その一滴はもはや大河となり、人類の歴史という名の乾ききった大地を隅々まで潤し、そこから芽吹いた奇跡の果実は、人々にかつてないほどの豊穣と、そしてそれと同等の、尽きることのない渇望をもたらしていた。


 その渇望の新たな震源地は、漆黒の宇宙空間に浮かぶ白銀の宝石――月だった。


 人類の第二の故郷セカンド・ホーム、月面都市アルカディア・ベース。

 その建設は驚異的な速度で進み、今や『静かの海』は、さながら多国籍な建設現場の喧騒と、未来への楽観的な熱狂に満ち溢れていた。


 だが、人類の視線はもはやその最も身近な隣人だけに留まってはいなかった。

 彼らの夢は、その先の、より深く、より赤い深淵へと向けられ始めていたのだ。


 火星。

 その名を口にするだけで、人々の心には新たなフロンティアへの憧憬と、そしてそれを誰が最初に手にするのかという原始的な競争心が、静かに、しかし確実に燃え上がる時代が到来していた。


 その燃え盛る欲望の炎を、最も冷静な目で、そして最も高い場所から見下ろしている者たちがいた。


 スイス、ジュネーブ。

 アルプスの高峰に抱かれ、レマン湖の静かな水面がきらめくこの中立国は、今や地球という名のチェス盤で繰り広げられる新たなゲームの、最も重要な舞台と化していた。


 湖畔に、まるで時の流れから取り残されたかのように静かに佇む古城ホテル『シャトー・ドゥ・レマン』。

 その最も奥深く、かつては欧州の王侯貴族たちが密約を交わしたという伝説の部屋『王の間』の空気は、千鈞の重さで張り詰めていた。


 磨き上げられた黒檀の巨大な円卓。

 その周囲に、三つの国の代表団が鼎立ていりつしていた。


 一つはアメリカ合衆国。

 大統領ジェームズ・トンプソンが、その鷲のような鋭い瞳で沈黙を守っている。


 一つは中華人民共和国。

 国家主席の腹心、王毅ワン・イーが、常に穏やかな笑みをその顔に浮かべている。


 そしてその二つの巨大な力の間に挟まれるようにして、しかし決して臆することなく、日本の宰善茂総理大臣が、老獪な狸のように静かに座していた。

 彼の背後には、氷の仮面をつけた橘紗英と、蛇のように怜悧な綾小路俊輔が控えている。


 部屋には、それぞれの国の通訳と数名の側近だけがいるが、その空気は、これから始まるであろう核戦争の危機管理会談のように張り詰めていた。

 建前という名の、美しく空虚な言葉の応酬が数分間続いた後、最初にその茶番劇に飽いたのは、やはり龍の方だった。


「――ええ。……建前は、これくらいにしておきましょうかな」


 王毅が放ったその完璧な英語。

 それが、本当の戦いの始まりを告げるゴングとなった。


 アメリカ大統領トンプソンは、待ってましたとばかりに切り出した。

 その声は、この会談の主導権はあくまでこちらが握っているのだと誇示するかのように、どこまでも力強かった。


「……王毅先生。……先だって、貴国から宰善総理に対し、極めて興味深い、そして極めて野心的な提案がなされたと聞いている」


 彼はそこで一度、言葉を切った。

 その沈黙は、鋭利な刃物のように相手の喉元に突きつけられていた。


「…………『やまと』を使い、火星にコロニーを創りたいと。……単刀直入に聞こう。……あれは本気かね?」


 そのあまりにも直接的な、そしてどこまでも核心を突く問い。


 王毅は、その顔から一切の笑みを消さなかった。

 彼は、まるで出来の悪い生徒の単純な質問に答える教師のように、静かに、しかしはっきりと頷いた。


「……ええ。……何か問題でも?」


 そのあまりにも平然とした、そしてどこまでも挑発的な肯定。


 トンプソンの、その鷲のような顔が微かに引きつった。

 アドレナリンが彼の血管を駆け巡るのを感じた。


 落ち着け、ジェームズ。

 この男の挑発に乗ってはならない。


「問題でもだと? ……ふん。……問題だらけだろう」


 彼はその巨体を椅子に深く沈めたまま、吐き捨てるように言った。

 その声には、超大国のリーダーとしての絶対的な自信と、そして隠しようのない苛立ちが滲んでいた。


「……貴国が単独で火星にコロニーを建設する。……それが何を意味するか分からないほど、貴方も私も耄碌してはいまい。……それは、あの赤い星の事実上の『実効支配』の宣言だ。……そしてそれは、我々アメリカが、そしてこの自由世界の秩序が、断じて容認できるものではない。……その行為は、必ずや国際社会からの激しい批判を浴びることになるぞ」


 それは正論だった。

 だが正論とは、力の裏付けがあって初めて意味を持つ。

 そして今、このチェス盤の上で、力関係はあまりにも複雑に絡み合っていた。


 王毅はその正論を、まるで春風でも受け流すかのように、ただ不思議そうに首を傾げた。

 そして彼は、この世で最も純粋で、そして最も傲慢な答えを返した。


「……批判される謂れはございませんな。……これは我が国の宇宙開発計画という、純粋な『内政』の問題です。……それに、いかなる干渉も許すつもりはございません。……まさか大統領。……貴国は我が国の内政に干渉するおつもりで?」


 内政干渉。

 その外交上最も重く、そして最も無慈悲な切り札。


 トンプソンは、ぐっと言葉に詰まった。

 その喉の奥で、苦い鉄の味がした。


「………………」


 そうだ。これは戦争ではない。

 宇宙開発という名の、平和的な競争だ。

 そこに他国が介入する大義名分など、本来はどこにも存在しない。


 だが、その競争がこの星の未来の全ての覇権を決定づける最終戦争であることを、この場にいる誰もが知っていた。


 トンプソンは深く息を吐き出した。

 そして彼はカードを切り替えた。

 恫喝ではなく説得へ。

 いや、懇願へ。


「……いや待て、王毅先生。……そういうことではない。……そういうことではないのだ」


 彼の声は、もはや怒りを含んではいなかった。

 そこにあったのは、世界の秩序の崩壊を前にした指導者の、悲痛な響きだった。


「……いいか、ここは腹を割って話そう。……確かに貴国のその野心的な計画は素晴らしい。……天を衝くほどの野望だ。……だがな、今のこの世界の空気の中で、貴国が単独で火星の独占を宣言すればどうなる? ……あの日本の奇妙なアーティファクトがもたらした奇跡は、ようやく人類を一つの夢の下に団結させつつある。……月面では我が国の宇宙飛行士と、貴国の宇宙飛行士が同じ釜の飯を食い、笑い合っているのだぞ。……その芽を我々の代で摘み取ってしまうつもりか? ……火星にコロニーを創ることは確かに偉業だろう。……だがそれは同時に、我々が新たな宇宙冷戦の時代へと突入することを意味するのだぞ! ……それはまずいだろう!」


 そのあまりにも人間的な、そしてどこまでも正直な魂の叫び。


 それを王毅は、その顔に一切の感情を浮かべることなく、ただ静かに聞いていた。

 まるで、遠い国の悲劇の物語でも聞くかのように。


 そして彼は、全ての感情を削ぎ落とした、まるで機械のような声で言った。


「…………でありますか」


 彼はそこで一度、言葉を切った。

 その沈黙は、相手の魂の最も弱い部分を的確に抉り出すための、完璧な間だった。


「…………では大統領。……貴方には何か名案がおありで?」


 そのあまりにもシンプルで、そしてどこまでも残酷な問い返し。


 トンプソンは、完全に詰んでいた。

 そうだ。自分には答えがない。

 中国の暴走をただ非難することはできても、それに代わる建設的な対案を何一つ持ち合わせてはいないのだ。

 彼はただ、古い世界の秩序にしがみついているだけの、過去の亡霊に過ぎないのかもしれない。


 その、アメリカという超大国の絶対的なリーダーの、そのあまりにも情けない沈黙。

 その沈黙こそが、王毅がこの会談で手に入れたかった最大の戦果だった。


 彼は確信した。

 ゲームの主導権は、完全にこちらが握ったと。


 そして彼は、ついにその懐に隠し持っていた最終的な提案のカードを切ろうとした。

 だがそのカードは、彼の口からではなく、目の前の敗者の口から語られることとなる。

 それは彼の予想を超えた、そして遥かに甘美な勝利の形だった。


「………………分かった」


 トンプソンは呻くように言った。

 彼は完全に敗北した。

 そして彼は、自らが最も口にしたくなかったはずの言葉を、まるで他人の台本でも読まされるかのように、その口にした。


「………………ならばこうしよう。……これは私の個人的な提案だ。……一つの苦肉の策だと思って聞いて欲しい」


 彼は顔を上げた。

 その目は、もはや鷲の鋭さを持たなかった。

 それはただ、嵐の中で進むべき道を見失った船乗りの、疲れ果てた目だった。


「………………とりあえず、中国とアメリカでコロニーを作る所までしないか?」


「…………ほう?」


 その提案に、王毅は初めてその顔に純粋な驚きの色を浮かべた。


「……そうだ」

 とトンプソンは続けた。

 その声はもはや力を失っていた。


「……日本は火星にはさして興味がないと、そう言っている。……そして月の開発は既に日米主導で、国際協力の枠組みが出来上がってしまった。……だが火星は、まだ白いキャンバスだ。……そこに我々二つの国が共に最初の足跡を記す。……中国とアメリカが共同で火星コロニーを建設するというのはどうだね?」


 そのあまりにも予想外な、そしてどこまでも自らのプライドをかなぐり捨てた提案。


(……ほう。……そこまで割り切りますか、この鷲は)


 王毅は内心で舌を巻いた。


 自分が想定していたシナリオは、もっと複雑だった。

 アメリカは必ずや日米同盟を盾にこの提案に抵抗し、その交渉の過程で徐々に主導権を奪い返そうとしてくるはずだった。


 だが目の前のこの男は、その全てのプロセスをすっ飛ばし、いきなり最終的なゴールへとジャンプしてみせた。

 それは敗北宣言であると同時に、驚くべきプラグマティズムの表明でもあった。


(……アメリカと中国共同でコロニーね……。……なるほどなるほど)


 王毅の頭脳が、超高速でその提案の損得勘定を弾き出す。


 確かに、我が国単独で火星を支配するのがベストだ。

 だがそれは必ずや、日米という二つの巨大な壁との正面衝突を意味する。


 だが、この提案に乗ればどうなるか。

 壁の一つが味方になる。

 それどころか、アメリカという世界最強のパートナーと共に、日本のあの神の船を半ば独占的に利用する権利さえも手に入るやもしれない。


 国際的な批判も、二つの超大国が共に手を取り合うという美談の前には、いくらか和らぐであろう。

 単独支配という『ベスト』ではない。

 だが、これはそれに次ぐ『ベター』な選択肢だ。


 そして老獪な政治家とは、常にベストではなくベターを選ぶ生き物のことである。


「………………」


 王毅はしばし黙り込んだ。

 彼がその思考の海から戻ってきた時、その顔には再びあの穏やかな笑みが浮かんでいた。

 そして彼は、ゆっくりと頷いた。


「………………その話、進めたいですね」


 彼は言った。

「……もちろん我が国が単独でこの偉業を成し遂げることが最善ベストであるという考えに、変わりはありません。……ですが大統領。……貴方のその勇気あるご提案は、次善ベターの策として検討に値する。……ええ、そう思います」


 そのあまりにも上から目線な、しかし確かな肯定の言葉。


 トンプソンは安堵の息を漏らした。

 彼は最悪の事態――米中間の全面的な対立――を回避することに成功したのだ。

 たとえその代償が自らのプライドであったとしても。


 その二つの巨大な力が、危うい、しかし確かな合意に至った、まさにその瞬間。


 これまで、まるで美しい置物のように、あるいはこの壮絶な心理戦のレフェリーのように、ただ静かに沈黙を守っていた日本の宰善茂総理が、初めてその重い口を開いた。


 彼の声は、どこまでも穏やかで、そしてどこまでも他人事のようだった。


「…………おほん」


 彼はわざとらしく一つ咳払いをした。


「…………日本としては、『やまと』運用で関わる以上のことはしません。……あくまでオブザーバーとして、『やまと』運用をすることに専念したいと思います」


 そのあまりにも無欲で、そしてどこまでも自分勝手な立場表明。


 それは、火星という名の新たなゴールドラッシュには一切参加しないが、その金鉱へと向かう唯一の道を支配する通行料徴収人としての立場は、決して手放さないという、究極に狡猾な宣言だった。


「では、アメリカ中国で火星コロニーを建設するということで良いですね?」


 宰善総理は、まるでこの会議の議長であったかのように、ごく自然に結論をまとめた。


 そのあまりにも見事な場の支配力。

 トンプソンと王毅は一瞬だけ互いの顔を見合わせた。

 そして彼らの目に共通して浮かんでいたのは、

「この日本の老獪な狸こそが、このゲームの真の怪物なのかもしれない」

 という、新たな、そして共通の戦慄だった。


「……まあ待て、総理」


 トンプソンが、最後の、そして最も厄介な問題提起を口にした。


「他国が絡んできたらどうしますか? ロシアやEUが黙ってないでしょうし…」


「うーん、そこだよなぁ」


 その言葉に宰善総理も、まるで初めてその問題を考えたかのように腕を組んで唸ってみせた。


 そのあまりにも白々しい演技。


「……アメリカとしては、オブザーバーとして参加しても良いと思うけど…」


 トンプソンが譲歩案を口にする。


 だがその言葉を遮ったのは王毅だった。

 彼の顔には、もはや穏やかな笑みはなかった。

 そこにあったのは、世界の新たな秩序を自らの手で作り上げるという、龍の絶対的な傲慢さだった。


「……中国としては、ロシアは友好国として参加は許可です。……他は正直どっちでも良いです。……主導は中国アメリカということさえブレ無ければ」


 そのあまりにも横暴な、そしてどこまでも一方的な宣言。


 だが、その宣言こそが、この混沌とした会議に一つの強引な、しかし確かな結論をもたらした。


「……では、そういうことで」


 宰善総理が、再び議長のように手を打った。


「……まずはこの歴史的な合意を世間に公開して、その反応を見ましょうか。……もちろん、発表の仕方は慎重に。……あたかも我が日本が、貴国と貴国の間の懸け橋となったかのように演出させていただきますがね。……よろしいですかな?」


 そのあまりにもしたたかな、最後の釘を刺す言葉。


 もはやトンプソンも王毅も、頷くしかなかった。


「では、今日の会談はこれくらいで…」


 こうして、歴史は再び動いた。


 神の不在の間に神の玩具を手にした子供たちは、その玩具の使い方だけでなく、その玩具を巡る面倒な揉め事を他の子供たちになすりつけ、そしてその全ての主導権は自分たちが握り続けるという、最も高度で、そして最も悪魔的な知恵をも身につけてしまっていたのだ。


 ジュネーブの古城ホテルを出る時、三人の指導者の顔には、それぞれの、しかし全く異なる種類の笑みが浮かんでいた。


 トンプソンは、最悪の事態を回避した安堵の笑み。

 王毅は、自らの野望の第一歩を記した勝利の笑み。

 そして宰善は、その二頭の巨大な獣を見事に手玉に取った狸の、深い深い、そしてどこまでも楽しげな笑みを。


 世界の眠れぬ夜は、まだ始まったばかりだった。

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